『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

1巻1話(2)馬と王冠について:まだ1話なのに?

ミス・リーディングなタイトルですみません。でも本当に馬のことなので……。

 

武功の夢と馬 について

ヨーク公は王位を要求して戦いに赴きます。その戦いでリチャードは戦功をあげヨーク公に「1番の武功を立てたのは……リチャード」と言ってもらった……はずが、リチャードが見た夢だったというのが『薔薇』の展開。『ヘンリー6世』(第3部)(以下、HⅥ(3))ではこれは"現実の場面”です。この転倒、切ない!

 

原典のリチャードはもう少し年上設定で共に戦場に出て手柄もたてる訳ですが、『薔薇』は史実準拠なのでしょう、ヨーク公とは一緒の戦場で戦えないままになります。

 

そしてこの後、「馬をよこせ」ですよ!

 

『リチャード3世』(RⅢ)の超有名な台詞を1話で出す!脱帽です。『薔薇』リチャードはまだ幼くて戦場に行けず自分の活躍を夢に見て、そして馬にさえ乗らせてもらえない。それがまだ自分が幼いせいなのか、「身体」のせいなのかと“ケイツビーに”つっかかります。馬に乗ることは、『薔薇』リチャードには一人前の男であることの象徴なんですね。後の巻で、馬に乗っていないバッキンガムを子ども扱いする台詞にもそんなところがうかがえます。

 

この場面のおかげで、原典RⅢのこの台詞にもちょっと思いが広がりました。

 

RⅢの馬については、奸計に長けているはずのリチャードの自暴自棄ぶりや凋落ぶりを示すものと私は捉えていたのですが、原典のリチャードは生まれつき足を引きずっていて、にもかかわらず勇猛な武人という設定でした。彼は馬に乗ることで人並み以上になれるという思いがあったのかな、と。そういう解釈もすでに普通にあるのかもしれませんが。

 

しかもこの時点でケイツビーが出てきます。いや、『薔薇』では生まれた時からと言うべきですが、「馬をよこせ」の場面でですよ。『薔薇』では、両親ぐらいしか知らないリチャードの秘密を共有し、リチャードを大切にするケイツビーという設定。萌えの伏線を丹念に張ってくださっていることがわかります。ありがとうございます。

 

アンも早くも登場です。こちらは……後の悲劇を増幅するかのように、出会いや初恋未満な感じの初々しいエピソードが重ねられていきます。

 

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みーゆ     写真AC

 

王冠と楽園 について

ヨーク公が戦に勝ったことで、ヘンリーの死後にヨーク公とその子孫が王位を継承することが約束されますが、リチャードは今の時点でヨーク公が王になるべきだと語りかけます。そこからヨーク公が再度戦に向かうところはHⅥ通りの展開です。

 

ただ、ここもすごいのは、リチャードの台詞もほぼHⅥ(3)1幕2場の通りなのに、「あの環の中には楽園がある」に強い印象が与えられていることです。HⅥ(3)をするっと読んだかぎりではそれほど重みはないのに、コマ割りや構図がこの台詞を際立たせていて、菅野演出!という感じがします。

 

ここでのリチャードは、3話でセシリーが言うように、悪魔的・誘惑的でもあります。同時に、この台詞が後からも繰り返されることで、リチャード自身が王冠の中に楽園を見ていることも印象づけられます。

 

ランカスター家の人々 について

1話最後の方で、ランカスター家のヘンリー6世、マーガレット、王子エドワードも登場しました。

 

原典ヘンリーは、HⅥ(2)では王でなく臣下になりたかったと言う一方、HⅥ(3)の時点では、王位の正統性をめぐってヨーク公と論争し、王位にそれなりの執着もみせます。また、王子エドワードから王位継承権を奪うことになるのも哀れと言っていますし、マーガレットにも依存的とも言える愛情を示しています(「メグ」と愛称で呼ぶこともあったり)。

 

マーガレットの方は、HⅥでもヘンリーへの愛情はない設定です。そして、いずれにしてもマーガレットはヘンリーの譲位を怒りますが、『薔薇』マーガレットの方が達観していて、仕事ができる人という印象です。

 

マーガレットと王子エドワードがヘンリーを置いて戦場に向かうのはHⅥ(3)通りですが、原典ではヘンリーは、2人が「あの憎い公爵〔=ヨーク公〕に復讐してくれればいいのだが」(松岡和子訳、ちくま文庫)と言ったりしています。原典ヘンリーの方が多少俗っぽく情けない感じだとすれば、『薔薇』ヘンリーは、より現実逃避的で、史実準拠で病んでいて聖人設定であるように思います。

 

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