『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

11巻47話ケイツビーの忠誠について

(薔薇王の葬列アニメ16話対応)

苺と蛇について

46話から続く話ですが、王位の支持を求めてリチャードがイーリー司教ジョン・モートンのところに行きます。

 

『リチャード3世』(以下、RⅢ)に書かれているのは議会の場で苺を取りに行かせる話だけなので(でも苺については随分前から出てきていました)、いよいよ最後の伏線かと思って読んだら、……いろいろな意味で伏線だった模様。

 

苺がどう描かれてきたかは下の記事でも書きました。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

RⅢ・角川文庫版の河合祥一郎先生の注には「苺の葉の下には蛇が潜むと言われていた」とあり、こうした暗喩も入って話が進んでいます。このネタがわかっただけでも角川文庫版を買ってよかったなーと思いました。(更に後から松岡和子先生のちくま文庫を買ってしまったんですが、こちらにも同様の注がありました。)

 

47話の扉絵のようにリチャードが誘惑者=蛇のようにも、リチャードへの欲望をあらわにしたイーリー司教が蛇のようにも見えます。イーリー司教との関係では、リチャードは欲望を煽り曝け出させようとする側です。46話でリチャードがイーリー司教に対して言う「地位も金もおまえが望めば捧げよう」「私が叶えてさしあげよう」は、RⅢの謀議の箇所で、バッキンガムに、領地とエドワードの遺産譲渡を約束するリチャードの台詞を転用したものでしょうか。

 

河合先生、松岡先生の注によると、議会の場でイーリー司教に苺を取りに行かせる話はトマス・モアの『リチャード3世史』にも書かれていて、トマス・モアの師がイーリー司教ジョン・モートンだそうです。この『リチャード3世史』で悪辣なリチャード3世像が提示されたわけですが、それを逆手にとってイーリー司教との話が描かれているとしたら面白いですよね。うん、きっと計算の上でそう描かれている気がします。

 

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ケイツビーの忠誠について

RⅢのリチャード・バッキンガム・ケイツビーの会話を下敷きにした展開は続いており、この47話でケイツビーは「我々が話した秘密を堅く守り、その計画を必ず実行すると」(RⅢ)誓いました。

 

47話では、「お前ほど清廉実直な男は見た事がない」とヘイスティングスが言うなどケイツビーの清廉実直さが強調され、また“誰を「主」とするのか”と、主人ー従者の関係でその忠誠心を問われます。そしてそれ以上の意味でケイツビーがリチャードに忠誠を誓ったのが47話とも言えますし、11巻全体とも言えます。表紙もケイツビーだし、帯の台詞もそうですよね。

 

もっとも、リチャードが気づかなかっただけで、ケイツビーはずっとそのように行動していました。レディを崇拝し精神的な愛を誓って、忠節を尽くす騎士のようです。

 

RⅢでのケイツビーは、なかなか感情や性格が読めないキャラクターである気がします。よく言えば余白が多く、演出や演者でかなり変わってきそうというか。『薔薇』では、その辺を、従者の立場をわきまえたケイツビーの感情の抑制や、リチャードへの感情の伝わりにくさ(渡すあてもないのに、苺のパイをうっかり買ってしまったりとかね)として、とても大切に描いていると思うんです。

 

RⅢではそもそもリチャードが躊躇なく悪逆非道にことを進めるので、命令のままに動くケイツビーも清廉実直とは言いがたい印象です。ただ、原典ケイツビーもバッキンガムとは違ってリチャードに見返りを求めていないんですよね。そしておそらくこの後の物語の展開も踏まえて、忠実さを軸にしたケイツビー像になっているのだろうと思います。

 

忠実と言えばということで、『薔薇』のケイツビーには、『ハムレット』のホレーシオ的なものを感じてしまいます。ホレーシオみたいだという思いを強くしたのは、やはり6巻でヨーク公の亡霊の芝居をしたところあたりです。ホレーシオは、ハムレットと共に父王の亡霊を確認に行きますし、父王の仇に罠をかける芝居の計画にも噛んでいます。周囲を欺くためのハムレットの佯狂を知っているのはほぼホレーシオだけ。最後は一緒に死のうとまでします。

 

「殿下の忠実なしもべホレーシオです」と、しもべを自認(←いや、これは挨拶だろ……)。ご学友ではあるのでケイツビーより気安い関係なのですが(ハムレットには、しもべじゃなくて友人だ!と返される)、控えめでハムレットの心のよりどころのような存在です。

 

ハムレット きみほどの人物に出会ったためしはない。(中略)お世辞ではない。きみのように、美しい気持ちのほかなんの財産もなく、衣食さえこと欠く男にどんなご利益が期待できる?(中略)きみという男は、あらゆる苦労に耐えながら、たえてそれを顔に出さない。運命が罰を下そうと褒美をくれようと、ひとしく感謝の念をもって受け入れる。理性と感情がほどよく調和していて、運命の女神の思いのままの音色を出す笛にならない。(中略)激情の奴隷ではない男、そういう男がいたらおれはこの胸に、胸の底に、堅く抱きしめるだろう。いや、いま抱きしめている。(小田島雄志訳、白水社) 

 

シェイクスピアが同性愛関係を描いていたことを今は真正面から捉えようとする流れになってきていることもあり、ハムレットとホレーシオの関係については、そういう解釈も前提のようにあります。ホレーシオとハムレットについては、私もおのずと『男同士の絆』を読み取って(腐女子目線になって、とも言う)いましたが、RⅢで、ケイツビーやバッキンガムにときめくことは全くなかったんですよね。まだまだ修練が足りません(?)。

 

RⅢのケイツビーとバッキンガムは、『ハムレット』で言えば、コミックリリーフのローゼンクランツとギルデンスターンに近い印象でした。ぼーっと読んだり観たりしていたせいでしょうが、正直、ケイツビーとバッキンガムの“キャラクター上の”区別もあまりついていなかったりしました。2人ともリチャードが命じるままに動く印象。ちゃんと読めばRⅢにも書かれている身分による立ち位置や、計画への関与の違いを際立たせ、バッキンガムをリチャードの側に寄せ、ケイツビーの忠実さを強調し、これだけ違うキャラクターにされていることに感嘆します。

 

『薔薇』を経由して46話で引用したRⅢのやり取りを読むと、“うわー偉そうだなバッキンガム、しかも「我々が話した秘密」とか言ってるし”と思えたりしますもんね。

 

もう1つストロベリー

で、シェイクスピアとは全く関係ないのですが。

 

47話、これは、『ストロベリーナイト インビジブルレイン(映画版)』展開……!ケイツビー=菊田(西島秀俊)、バッキンガム=牧田(大沢たかお)と思いました!

 

菊田は主人公・姫川の部下だし、牧田は菊田に「お前に彼女の闇はわからない」みたいなことを言ったり、姫川に殺したい奴を殺してやるようなことを言ったりするし。雨が降るなか、2人の関係を知りながらケイツビー=菊田は外で待っていたりするんですよ。

 

そしてここでのストロベリーは、殺人と主人公が受けた強姦被害の象徴だったりします……。

 

※RⅢの翻訳は、河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しました。

 

今回も記事が短いのでバレエ『ハムレット』のtrailerを貼ります。これは観たことがなく、しかもホレーシオは一番最後にチラッと出てくる?ぐらいなのでこの記事に相応しくない気がするものの……。


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