『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

12巻52話取り替え子をめぐる諍いについて

これまでも意味や象徴が詩のように重ねられたり繋げられたりしていましたが、寓意的な『夏の夜の夢』が入っている12巻はそれが更に増している感がありますね。

 

10巻44話ではリチャードは夢を見ずに眠れたのに、51話のバッキンガムの発言に動揺し、早くも悪夢を見ています。52話から55話まで『夏の夜の夢』が使われていますが、52話冒頭のリチャードの夢はそのプロローグのような形で、『夏の夜の夢』悪夢バージョンで開幕という感じです。

 

こちらに『夏の夜の夢』を描いている漫画がありまして、漫画1頁目の相関図がわかりやすく便利でした。

 

過去の演奏会(第6回・まんがでわかる夏の夜の夢) – フラットフィルハーモニーオーケストラ Flat Philharmonic Orchestra

 

(※ 『夏の夜の夢』は『夏』、『リチャード3世』はRⅢ、『薔薇王の葬列』は『薔薇』と表記します。2幕3場など細かいところまで書く場合はRⅢ2-3のように表記しますが、書いたり書かなかったりです。『夏』の翻訳は小田島雄志訳・白水社版から、RⅢは、河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しています。『夏』の登場人物表記も小田島訳によるので上記漫画と少し表記が違っています。)

 

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プロローグとしてのリチャードの悪夢について

この夢の中で、森に狩りにやって来たリチャードに、「取り替え子」が森に戻ってきた、と妖精たちが騒めいていました。この「取り替え子」のモチーフは、リチャード→リチャードの息子のエドワード→エドワード4世→バッキンガム→エドワード5世と弟、に変奏されていっているように思います。

 

リチャードが、木のところで会う約束したのは誰だったろう、と思っていると、「僕だよ!」と驢馬が現れ、「君が殺したヘンリーじゃないか」と言います。(この場面の、半分ヘンリーの顔が見える驢馬が恐い……。)『夏』では花の滴の魔法にかかったタイテーニアが驢馬を愛する展開があり、驢馬は間違って愛した者ということになりそうです。これも53・54話でヘンリーとの話が更に展開されています。

 

『夏』では、魔法を解かれたタイテーニアは「変な夢を」見ていたと言い、他にも『夏』には「恋するものと気ちがいは……ありもしない幻を創り出す」「恋の心には……分別などない」といった台詞がありますが、ここでは驚くリチャードに「愛なんて狂乱の夢」「夢から覚める薬をあげようか」と近づいて来る者がいました。

 

その「夢から覚める薬」として差し出されたのが、ジェーンの堕胎薬でした。この堕胎薬の意味の重ね方と転換も見事だと思うんです。『夏』では、花の滴の魔法を醒ますのはダイアナの蕾(Dian's bud)ですが、ダイアナは処女神とも言われますし、『夏』1-1にダイアナを思わせる「独り身の月」(the cold fruitless moon)と言い方も出てきます。“妊娠をなかったことにする薬”がダイアナの蕾に置き換えられているわけです。そして、この薬を示されて、バッキンガムは、一種熱に浮かされた状態から現実を考え、もう誓約の証は示さなくてよいと言いました。11巻では、この堕胎薬には、子殺しの比喩とそれに対する復讐の意味が強く与えられ(「子を殺す母は…どれだけいる」「見ているがいい母上」)、セシリーと組むヘイスティングスを陥れるための罪状捏造に使われました。それが12巻では『夏』と掛けられて、愛の夢を覚ますものとして働いています。

 

近づいた誰かは、それとも夢の続きを見たいかと聞き、花の滴をリチャードの目に滴らせ、「目覚めた時傍にいる奴を愛してしまう」と言います。その時にそれがジャンヌであることがわかります。ジャンヌがパックですね。『夏』ではコミカルで可愛い印象のあるパックですが、パックには、いたずらな妖精という語源と、「中世イングランドで……聖書の悪魔と同一視される」語源と両方考えられるそうです。また、花の滴にはいわゆるアダルトな意味も込められているだろう、とのこと。

 

菅野先生がそう意図されたか確信はありませんが、バッキンガムとの関係を求めているリチャードがこういう夢を見ているのは意味深……。そして目覚めたリチャードの傍にいたのは、バッキンガムでした。

 

下記は専門の論文ですが、そんな内容が書いてあって楽しく読ませていただきました。そんな指摘があると目を覚ます方の花ーダイアナの蕾(Dian's bud)ーもそれなりの意味かと思います。

 

https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=924&item_no=1&page_id=13&block_id=62

 

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Arthur Rackham A Midsummer Night's Dream [Public domain]

 

取り替え子のモチーフについて:置いていかれた子としてのリチャード

上記web漫画や小田島先生の日本語訳にも明示されていませんが、タイテーニアがインドの王からさらってきて、妖精の王オーベロンが寄こせと言っている子が「取り替え子」(changeling)です。

 

『薔薇』では、夢の中のリチャードのみが「取り替え子」と言われています。

 

下記も再び専門の論文なのですが、取り替え子の面白い話が載っていました。『夏』ではこの取り替え子は可愛いためタイテーニアが溺愛し、オーベロンも欲しがったわけですが、通常、「取り替え子」は現実世界に置いていかれた「醜い」子の方を指していたそうです。それを『夏』ではさらわれた可愛い子の方に転換したというんですね。何らかの障害のある子供を取り替え子と言っていた可能性もありそうです。

  

http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/handle/10191/8414

 

Wikiには、取り替え子だからと言って母親が子供を殺してしまった事件なども載っています。セシリーは悪魔の子だからとリチャードを森に置いていこうとしたこともあり、11巻のリチャードとセシリーの関係を彷彿とさせるような感じです。「取り替え子が戻ってきた」と言われた夢の中のリチャードは森に置いていかれた子供になっており、その後に堕胎薬が示され、この流れは11巻からの繋がりを感じさせます。そこから、この堕胎薬が話を転換して恋愛のもつれに話が移行する感じです。

 

所望される子、父の子ではないエドワード

一方、『夏』のプロットでの取り替え子の役割を宛てられているのはリチャードの息子エドワードです。下僕(『夏』では小姓・供回り)に寄こせと言われ、アンは「あの子に何かあったら許さない」(53話)と怒ります。この関係ではアンがタイテーニアで、オーベロンの役割はエドワード5世とリチャードの2人が担っているというところでしょう。仮装で森の王として振る舞い、下僕に寄こせと言うのがエドワード5世。リチャードも「悪魔」役とされるものの、その前の画面で妖精たちから「我らの王」と言われる妖精の王の姿に似ています。この場面のリチャードとアンは仮装の感じもまさにオーベロンとタイテーニアのようで、それに倣って夫婦喧嘩の様相でリチャードは「許さないのは俺をか?」と返しました。(とはいえ、リチャードは直後にちゃんと関係修復に繋がることを言っていますが。)

 

上記論文によれば、取り替え子は「(こっそりと)他のものの代わりにおかれる人または物」でもあるそうです。「ランカスターの血を受け継いだ」「“秘密”の子供」が、リチャードの子ということになっているのが息子のエドワードです。取り替え子の直接の文脈ではないものの、『夏』には、カッコーの托卵に擬え、妻が別の男と関係を持ったために父親の実の子ではない子供の存在を仄めかす台詞があります。

 

また、妻が別の男性と関係をもつと夫に角が生えるという喩えがシェイクスピア作品には時々出てきます。『タイタス・アンドロニカス』にもその喩えはあり、53話のリチャードの仮面には角がありました。仮面の角は妖精の王の風貌と重なりますし、エドワード5世は「悪魔」の役を与えたと言っているので、その意味がメインでしょうが、この喩えも入っているのかもしれません。リチャードと息子が「ちっとも似てない」と言ったエドワード5世がその仮面を作らせています。

 

取り替え子の話からは外れますが、エドワード5世が、息子エドワードを下僕にして「可愛がってやろう」という場面は、『タイタス』とも重ねられている気がします。タモーラの息子たちはタイタスの娘を自分のものにしようと、娘の婚約者を無礼だと殺し娘を強姦します。下僕に寄こせと言う前に、王弟リチャードがエドワードを無礼だと言って引き倒して蹴っており、『タイタス』に比べれば相当マイルドとはいえ、オーベロンが取り替え子を小姓にくれと言うのとは異なる裏を感じさせます(エドワードだらけで書き方が難しい!)

 

53話でエドワードが果物に囲まれて大皿に乗っている様子は、『夏』の取り替え子のようなかわいがり方にも見えますし、『タイタス』で敵を食事として饗する話に擬えたもののようにも見えます。

 

諍いの種としてのエドワード4世の取り替え子疑惑

話の前後は逆になりますが、父親の実の子でないかもしれないという疑惑が向けられたのがリチャードの兄のエドワード4世です。RⅢでは、リチャードがバッキンガムを使って、エドワード4世の猟色ぶりと「父上の気高い風貌とは似ても似つかぬ」とヨーク公の子ではないという噂を広めさせます。

 

5巻17話でその話が登場し、11巻ではセシリーがリチャードの醜聞を広めるという逆の展開になっており、何より『薔薇』ではヨーク公エドワード4世はよく似ている設定なので、この話はもう使われないのかと思っていました。ですが、5巻の話はしっかり伏線だったんですね。

  

『薔薇』では結局こちらではなく、史料通りでRⅢでも重きをおかれている、エドワード4世とエリザベスとの結婚の正当性の方からエドワード5世を廃嫡することになります。

 

ただ、エドワード4世がヨーク公の子でないなどとはリチャード自身も信じていなかったのに、ここで、王位のためにアンから兄の出生をめぐる話を聞こうとし、それを利用しようとしたわけです。アンはそれに怒って、「私が…、貴方を止めるわ」と反対します。『夏』との繋がりで言えば、リチャードとアンの一番の諍いの種になったのが、この取り替え子(疑惑)をめぐる話ということになるでしょう。

 

取り替えを恨む子としてのバッキンガム

53話冒頭にまたがりますが、バッキンガムもまた取り替え子モチーフに関連づけられていると思います。バッキンガムの子供時代の回想シーンで、エリザベスが「王妃(わたし)の庇護の下安心して“子供”でいていいの」「“母”の言う通りに」と言っています。

 

『夏』では、タイテーニアが、さらってきた子を自分が育てるのはその子の亡くなった母親のためなのだ、と母親代わりであることを主張します。バッキンガムの母親については触れられていませんが、ウッドヴィルと血縁関係になったバッキンガムに、この場面でエリザベスは母親代わりのような発言をしています。

 

バッキンガムは、いわば、母親代わりを僭称する者の下に不本意に連れてこられてしまった子供です。そして彼は、父方の血統からは王にも匹敵する身分の自分が、結婚によって身分の低いウッドヴィルの血縁にされたことを恨んでいました。

 

『夏』については、妖精と夢の絡むロマンティック・コメディーと思ってきましたが、どうも父方(父系制)と母方(母系制)の相克の話も隠されているそうなのです。タイテーニアはオーベロンに子供を渡すことを拒んでいますし、ヒポリタは女性だけのアマゾン族の女王でした。ハーミアとライサンダーが駆け落ちする先は、父の言うことを聞かなくて済む財産がある叔母の家。『夏』の中では、子供はオーベロンに渡り、ヒポリタはアマゾン族を征服したシーシュースと結婚、ハーミアの結婚は父が承認、つまり父方に回収される形で決着し、劇の上ではハッピーエンドとなるように見えます。ですが、その後ヒポリタとシーシュースの間の子供が原因で悲劇が起きる神話について当時の観客はよく知っていたので、実はハッピーエンドのようで皮肉、とか、相克が残る捉え方もできたのではないかということです。

 

『夏』の冒頭でヒポリタとの結婚を控えたシーシュースは、後4日が待ち遠しいと言って「私の望みをなかなかかなえさせてはくれぬ、継母や未亡人がいつまでも生きながらえて若者に譲るべき財産を朽ちさせるように」と、ヒポリタを前にして母方支配を嫌悪する比喩を口にします。

 

この嫌悪は、母代わりのエリザベス=ウッドヴィル一族からの支配を嫌悪するバッキンガムとも重なる気がします。

 

プランタジネット(父方)と、ウッドヴィル(母方)が覇権を争う展開の中で、菅野先生が『夏』を重ねてきた凄さを改めて認識しますね。それに加えて、『夏』に垣間見られるとされる女性の抑圧と抵抗についても、アンが体現する形になっていますし。

 

52話の最後にはティレルの独白と思わせる「“狂乱”の森で、もう一度君に夢の続きを見せてあげるよ」と、間違った愛/愛の取り違えに話が進展することを思わせて53話へ。とはいえ、52話でも愛の取り違えやもつれの方も平行して進んでいますが、これについては53話の記事でまとめて書ければと思います。

 

www.youtube.com

Pacific Northwest Balletのバレエ版『夏の夜の夢』Trailer。メンデルスゾーン作曲、バランシン振付。Trailer内にメイン登場人物がほぼ出てきます。インドの衣装の可愛い取り替え子も一瞬登場しています。『薔薇』では54話でアンが弓を引きますが、このバレエではヒポリタが弓を持って踊ります。