『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

13巻56話リチャードの戴冠について

(薔薇王の葬列アニメ17話対応)

(※ネタバレになっていますので、ご了解の上お進みください。)
 

13巻は王冠を戴いたリチャードが表紙。通常の表紙では2巻以来ですね(架け替え用の表紙ではありましたけれど)。不安定な思春期固有の美しさを感じさせる2巻表紙に対して、こちらは不穏さを持つ王の風貌。美しいのに、“ああ、シェイクスピアのリチャード3世だなあ”と思えます。2巻でも着用のガントレット(?)は13巻ではアクセサリーのようにも見えます。

 

『夏の夜の夢』と『タイタス・アンドロニカス』を自由自在に行き来した感のある12巻に対して、56話は、『リチャード3世』(以下、RⅢ)からの台詞の抜き出し方や細かい変更によって、演出的な色付けと魅せ方がされている印象です。

 

“神”の演じ方について

バッキンガム 強く求められるまで話に応じないでください。(中略)こちらの求めにたやすく応ぜず、乙女の役を演じてください。(RⅢ)

 

これは10巻43話に転用されたかと思っていましたが、ちゃんと出てきましたね。「俺が“どれほど請うても”、あんたは“処女(おとめ)の如く潔癖に要求を撥ね付ける”」。ここはRⅢ通りで、この事前の打ち合わせをして塔に押し寄せた市民たちの前に2人で出ます。

 

RⅢではバッキンガムが賛同者の議員や市民たちを連れて来るという違いはありますが、彼が市民達を前に、エドワード4世・5世下げ+リチャード上げの演説をぶって、リチャードに王位就任を嘆願するところ(特に台詞)はかなりそのままの感じです。対するRⅢのリチャードは、司教2名を伴い祈祷書を手に、祈りの最中であったと神聖さを演出しますが、こちらのリチャードは白い衣装と「涼やかなお貌(かお)」のみで「天使」のようだと讃えられます。

 

(で、RⅢのバッキンガムは「エドワードとは大違いです。淫らな情欲の褥でくつろぐどころか、跪いて瞑想をなさっておられる!」と、リチャードの聖者ぶりをアピールするのですが、この台詞は『薔薇』バッキンガムには言えませんよね。いや、必要とあれば平気で言うかな、バッキンガム……?)

 

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王になる宣言について

一寸意外なことに、嘆願と王位承諾のこの場面についてはRⅢのリチャードの方が穏やかで謙虚です。バッキンガムを殴ったり、剣を向けたりもしません。祈りのために彼らを待たせたことを謝ったり、自分の不品行を咎めに来たのだろうかと慇懃に問うたりしています。

 

でもそんな白々しさもあってRⅢの元場面、結構コミカルな感じがするんですよね。バッキンガムを殴るのってそのコミカルさの踏襲、の、ような気も……。

 

RⅢではリチャードの承諾の台詞もかなり後ろ向きです。(まさに「いやよ、いやよと言いながら、結局受け入れる」と言われた通り。)「皆さんに強要されてお引き受けした」とか「そちらの言うがままだ」とか、王位に就くと一切明言しないのです。しかも、その前には「私はあまりに心貧しく、あまりに夥しい欠点がある」から、「王の器ではない」とまでリチャードは語っています。

 

この点では56話はRⅢを逆転させた感がありますね。これまでは『薔薇』のリチャードの方が控えめで、エドワード王にも忠実な感じでした。だからこそ、RⅢでは冒頭からリチャードとエリザベスや親族(ウッドヴィル)が険悪・喧嘩腰なのに対し、『薔薇』ではエリザベスの亡夫グレイ卿の敵とわかるまで彼女たちはリチャードを軽く見ていました。

 

裏では王位簒奪に突き進み、いよいよ就任の場面で自ら王になると決して言わないのがRⅢのリチャード。それに対して王冠への欲望を抑圧してきた『薔薇』のリチャードは、今話では「エドワード王子へ捧げるため」と強調しつつもここで「ずっと“王冠”を望んできた」と明確に口にしていますし、最後には「私は、王になる……!」と市民たちを前に宣言します。

 

 

菅野先生は、これら「欠点」に類する台詞を敢えて削り、むしろ王になる宣言をさせたんじゃないでしょうか。もちろんどの場面でも台詞は相当省略されていますが、王の器でないという台詞をこの場面ではリチャードに言わせないということかと思ってしまうのです。

 

この宣言の前、リチャードは「我が魂の、正義に背いてでも…!」と言い、そのリチャードの画は光に背を向け影がかかっています。RⅢの「おまえたちの情にあふれる求めに動かされた。わが良心にも魂にも反することだが。」に対応する台詞ですが、RⅢが「王の器でない」自分が王位に就くことが良心に反するという渋々の承諾演出なのに対し、『薔薇』の方はもっと不穏で、「正義に背いて」王位簒奪する意志を感じさせます。(RⅢでも実態は簒奪ですが、「わが良心にも魂にも反することだが」にはそこまでの含意を感じません。)この辺の意味の重ね方、やはりうまいなあと思います。

 

剣を向けたやりとりについて

RⅢでは、ヘイスティングスを処刑した後、リチャードとバッキンガムが武装し被害者を装って芝居をする場面があり、リチャードがバッキンガムに剣を向けたのはそのアレンジかも、と思ったりしました。ですがそれ以上に、その剣をバッキンガムが奪い、王位就任を承知してくれなければ「他の血統・・・・ を以って、玉座に挑戦せざるを得ません」と言ったことは、内戦への危惧をリアルなものにする効果を生む演出になっていますよね(バッキンガムの芝居としても、菅野先生の描き方としても)。

 

バッキンガム 誰か別の人間を玉座に植えつけ、没落したあなたの家の恥とします。RⅢ

 

ほとんど同内容の台詞です。ただ、元の場面では“王をめぐる混乱から内戦に発展する”という印象は形成されません。微妙でありながら言葉の違い、剣を向けた発言、そしてその前に幼王擁立による混乱を想起させたことが効いています。

 

「子供が王になる国は禍(わざわい)がある」「ヘンリー6世が生後9ヶ月でパリで即位なさった」という台詞もRⅢにあります。ですが、これは別の場面の市民たちの会話で、そこではむしろリチャードや、エリザベスやウッドヴィル一族の権力掌握への懸念が語られているのです。王を取り巻く大人たちが「天下をとらず、臣下になってくれれば」「病んだ国も」穏やかになると言われた訳ですが、これも意味を逆転させて、幼王でなく実権を持てる者が玉座に就くべきとするバッキンガムの台詞にされています。

 

更に、そこから市民たちが過去の内戦を思い出し、父を、息子を失ったという声が出て来ます。(この辺、『ヘンリー6世』(以下、HⅥ)の戦場での親子の挿話も掛けられていそうです。)そしてヨーク公を亡くしたリチャードに、そんな戦禍を知る者が王となるべきだ、とバッキンガムが語ります。

 

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戦禍への言及と剣を向けたやりとりによって、9巻10巻でも示された、闘う責任を担う王が強調された展開にもなっているような気がします。

 

更に、内戦で家族を失った話から(RⅢにはない)ヨーク公との繋がりも示されます。「父上は私のすべてだった…」と涙するリチャードに市民たちの気持ちが動き、上述の、承諾しなければ他の血統で挑戦するというバッキンガムの発言に、市民たちが王位就任を嘆願する形になります。そして、「その名を残せ」「王の名だ」と言われたリチャードが父との約束を成就させるのです。HⅥの台詞が転用されていますよね。

 

リチャード 父上、同じ名前のこのリチャードが父上の仇を討ちます。(HⅥ)

 

父の名を持つ「リチャード」が、この国(せかい)の王(ひかり)となるのだーー(『薔薇』)

 

父のヨーク公・王・光の結びつきも、1巻1話から示されてきたものでした。ここで光の中で微笑むリチャードに対置されるように、扇動者が母セシリーであったことが示されます。父の光を受け継いだ時に、母の呪いが去る形ですね。この場面でも、この後でも、光と闇、神々しさと禍々しさが、目まぐるしく転換していっているので、これも一旦ということかもしれませんが。

 

リヴァース伯とグレイ卿の暗殺について

実は私、扇動者はドーセットかなと思っていました。ここも外しました……。

 

リチャードの戴冠式の裏で、ドーセットの叔父・リヴァース伯と弟グレイ卿が暗殺されます。もしかしたら後から明らかにされるのかもしれませんが、この時点では誰がどう命じたのかわからない形です。RⅢでは処刑なのでリチャードの指示であることがわかる形ですが、『薔薇』ではティレルが実行犯。どちらかというとエドワード5世たちの暗殺に近い印象です。(←RⅢのネタバレごめんなさいですが、超有名な話なのと、『薔薇』ではこれもどう転ぶかわかりませんので、何も書いていないのと同然!きっと同然!)

 

戴冠式と並行して、王位簒奪に伴う陰惨な話をきっちり挟む(しかもリヴァース伯たちはエドワード5世の戴冠でやっと自由になれると思っていたりする)エグい展開。これも光と闇の転換になっていると思います。

 

リチャードの戴冠について

戴冠式の場面も、ヨーク公や光、呪いや闇、が交互に入れ替わり、二重写しのように進行しています。

 

戴冠式に向かうリチャードを、ヨーク公に抱かれている子供のリチャードが見ており、そこから子供時代の夢か回想場面に繋がります。王は神に選ばれた、王冠の中には楽園がある、と光の中で子供リチャードに語るヨーク公

 

そして戴冠に向かう場面で、1巻1話の冒頭=HⅥ最終部の台詞が変更されて出て来るわけですよ!1巻1話でも驚きましたが、なんという展開!

1巻1話ではこうなっています。

 

フクロウが啼いた!(中略)生まれてきたのは、神の御意志に背いた血塗れの悪魔――予言しようリチャード、いずれ子を失う大勢の老人が、大勢の未亡人が、大勢の孤児がーー、おまえによってもたらされた非業の死を嘆き、「何故生まれてしまったのだ」と、おまえの生まれた日を呪うだろう!(1巻1話)

 

HⅥではヘンリーの台詞ですが、『薔薇』では森での呪いの声のようだったり、この場面の画や7巻での展開を合わせると、母セシリーの呪いにも取れたりする台詞になっています。それが56話では、語りかける父ヨーク公の画に続いてこう来るのです。

 

予言しようリチャード、いずれ大勢の老人や未亡人や孤児が、愛しい者の死を嘆きながら、おまえを祝福するだろう

 

王冠を戴くために跪くリチャードの背後には戴冠式の参列者と亡くなった者たちが並んでいます。王冠の光を浴びながら、王位へのこれまでの路を追想するリチャードは夢心地の表情に見えます。

 

ですが、玉座を掴んだ次の頁(上述の、王冠の光を浴びるリチャードとちょうど同じ箇所ぐらいのコマ)では、リチャードの顔は影で半分表情が隠れ、口元に悪魔のような笑みを浮かべています。〈何故なら神は、この血塗れの悪魔を選んだのだからーー〉

 

イングランド国王、リチャード三世王陛下!!」の号を聞きながら、王冠を戴いて玉座に座るリチャードも、光を浴びつつ悪魔的で不遜な表情。そこに「神の祝福を」の台詞が被ります。更に最終頁では、亡くなったリヴァースとグレイに「神の救いがあらんことを」とティレルが告げていました。

 

1巻1話の台詞の再登場は何より光と闇の転換で本当に凄みもありますが、1話の時と同様、『マクベス』の予言を一寸彷彿とさせるところもある気がします。

 

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(※RⅢについては、河合祥一郎訳・角川文庫版、HⅥ(3)については、小田島雄志訳・白水社版から引用しています。)
 
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