『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

15巻69話 森で待つバッキンガムについて

(※ネタバレになっていますので、ご了解の上お進みください。)

 

前回68話の記事では、68話から振り返ると12・13巻が別プロットで見える仕掛けで、それがリチャードの変化と絡めて描かれている感激を書きました。68・69話や15巻は、それだけでなく、『薔薇』のこれまでの話も他作品オマージュも幾重にも重なっている気がします。しかも、それぞれ全く異なる作品オマージュがちゃんと筋に沿って見える素晴らしさ。“ああ、ここも、あそこも”という箇所が多くて、妄想部分もあるかもですがダブル、トリプル以上の重ねられ方なのは本当だろうと思います。ルビンの壺だけではなくて、なんていうんですか、ミルフィーユとかバームクーヘンとか(比喩がしょぼいのはごめんなさい)。記事では傾向別に分けて書いていますが、これが同時に行われているんですよ!

 

で、つい、オマージュ凄い系の書き方になっているかもしれませんが、この話の重ね方がリチャードの変化や決断の物語になっていくことが感動的で、そこが一番の醍醐味だと思っています。

 

後から書くように、14巻65話感想記事はあれだけ長く書きながら、それでも過少に見積もっていたと思いました。14巻は既に相当重層的だったので、オマージュ作品はより近い方1つかなと思ったんですが、どちらも入っていたんじゃないかと思いました。凄いものを過少に見積もるより逆に間違える方がいいので、今回は思いつくものをできるだけ書きます。同じ台詞について、違う作品との関連で何度も書いているので、ごちゃごちゃして読みにくい点はご容赦下さい。

 

というわけで、今回も過去記事リンク多めで、すごく長いです。

 

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バッキンガムの手紙について

バッキンガムは、ティレルに持たせた恋文+宣戦布告(!)の手紙で、反乱計画をリチャードに知らせてきました(68話)。王冠を脱いで駆け落ちしてくれなかったら反乱を起こす、ディーンの森で待っている、と。“ヘンリー”が森で待ち、ここでは新たに敵に回り、第1部では半意識的で揺れていた王冠か愛かに明確な選択を迫られるという、第1部との重ね方とずらし方のうまさ! そして、その手紙を持ってきたのが過去のヘンリー……。

 

6巻感想23話木陰の眠りと父の野望について

 

『悪王リチャード3世の素顔』(以下、『悪王』)によれば、バッキンガムの元に潜伏したスパイがリチャードに反乱計画を報告したという話もあるそうで、この辺もバッキンガムの手紙やティレルとの関係を考えると興味深いですよね(展開は深刻ですが!)。

 

66話扉絵の『リチャード2世』(以下、R2)連想もあり、この手紙の内容は、リチャード2世に反乱を伝えるボリングブルックの台詞っぽく見えたりもします。

 

こう、伝えていただきたい。ヘンリー・ボリングブルックは、ここにひざまずいて陛下のお手に口づけし、つつしんで陛下にたいし、心からの服従と忠誠を誓うものである。(中略)ただし、それにはまず(中略)没収された所領の無条件返還をお認め願いたい、認められぬときは、やむなく優勢なわが兵力を用い(中略)埃を鎮める所存である。

 

66話でも書いたように、原作を素直に読むと、途中まではボリングブルックの反乱は、この自分の要求を通すためで王の打倒や暗殺まで考えてはいなかったのに、反リチャード2世勢力がボリングブルックを担ぎ上げ、反乱の勢いでその事態に至る感があります。ケントの反乱や、リッチモンドとの結びつきにそんな印象を抱きます。R2では王位禅譲も反乱からの流れで生じるものの、そこではこんな台詞があります。

 

喜んで王位を譲られるものと思っていたが。

あなたの心労の一部は王冠とともに私に譲られるわけです。

 

バッキンガムの場合も打倒は本意でなく、所領ならぬリチャードを荊棘の王位から取り戻したい訳ですが、それで王位を(リッチモンドに)譲るのは、リチャードも望むことのはず(65話)と考えつつあります。

 

また、冒頭では自分で「!」マークをつけておいてなんですが、恋文+宣戦布告というのがLove’s Labour’s Lost的にも見えます。(深刻な展開なので、ここも英語タイトルを書きましたが、求愛が開戦の比喩で語られ、手紙エピソードがあります。)そして、Love’s Labour’s Lostは、ウォリックの反乱の時にもそのオマージュがあった気がするんですよ。

 

13巻感想58話リチャードの楽園について

3巻感想12話王冠と愛とキングメイカーについて

 

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キングメイカーの反乱について

今回のバッキンガムの反乱も、外側からは、キングメイカーが別の王を立てるように見え、これも第1部と重なります。そう見えるだけでバッキンガムにその野望はありませんが、〈俺だけのキングメイカーだった、あいつが〉と、リチャードは更にショックを受けます。68話の最後はリチャードとバッキンガムの2人が反対向きでそれぞれ決断を迫られる図でした。6巻ではエドワード王とウォリックが対決する回の扉絵が、剣を交わして向き合う2人の構図になっていて、絵的にも重ね/ずらしがされているように思いました。『薔薇』ではエドワード王とウォリックの愛憎も凄かったですし……。

 

史料からもバッキンガムはリッチモンドと手を組んだとされ、『リチャード3世』(以下、R3)でもその書き方ですが、『悪王』では、この同盟は不可解なものとされています。R3で反乱の理由とされた領地等の報酬は実際には約束されていたはずで、もしバッキンガム自身が王になろうとして反乱を起こしたのだすれば(←14巻65話記事で引いた説)、リッチモンドを担ぐのはむしろ損だということです。また、リッチモンドを王にして更に有力になろうとしたという説もあるものの、リチャードはバッキンガムを十分厚遇していて、リッチモンドの方が不確定要素が多かったはずとされます。しかも、反乱の経緯を見ると計画としてかなり杜撰というのです。

 

『薔薇』バッキンガムは〈血も名も……、今の俺には何の価値もない〉と、リチャード自身を欲しての行動(68話)。また、15巻では話が出てきませんでしたが、そもそもは子供を産んで欲しいことも発端でした。リッチモンドとの同盟の謎や反乱計画としての弱さも“実はそういうことだったのか!”ってうっかり思いそうになりますよね。(←よしながふみ先生の『大奥』でも何度かうっかりそう思いそうになった私が語ります。)『悪王』では、上の記載の後に最も妥当と考えられる説も書かれていますが、『薔薇』の展開とは関わらないのでそれは省きます。そちらが気になる方は『悪王』を是非。

 

第1部と重なる美しい構成歴史ミステリーみたいな話が両立しています。その上に、血と名を誇りにしていたバッキンガムが「所有するすべてを投げう」ってヴェニスの商人)リチャードを求めることにもなっているという重ね方。13巻の『ヴェニスの商人』展開がリチャードとバッキンガムにとって異なる意味になっていることが、なんとも切ないです。

 

禁断の関係での子供については『タイタス・アンドロニカス』オマージュの可能性も上げてみます。『タイタス』ではローマ皇帝タモーラムーア人の従者アーロンが禁断の関係にあり、こちらでは実際に子供が生まれるのですが、肌の色でアーロンとの間の子供とわかり、発覚を恐れたタモーラは自分が産んだ子を殺すよう命じます。乳母が(肌の色のため)「悪魔の子」と呼んだりもします。アーロンは、タモーラの愛人として、また彼女のタイタスへの復讐を実行してのし上がる計略家・野心家キャラなのですが、そんなアーロンが子供可愛さにその子を抱いてローマを出奔、ローマと敵対して敗れたゴートに戻ります。(バッキンガムは、元はランカスターだったとか言い出しています。)

 

14巻を読んだ時もちらっと類似も浮かびつつ、その頃書いた公演感想の方で、『タイタス』の妊娠話は使われていない気がすると書いちゃったりしました。14巻の監禁エピソードまでで早計に考えていたこともありますし、タモーラ=リチャードというのが想定しにくかったのが一番かも。『タイタス』オマージュでは、タモーラはこれまで一貫してエリザベスに(リチャードはタイタス・ポジション)重ねられていたように思ったんです。ですが、バッキンガムの捨て身ぶりが、アーロンっぽい気もしてきました。

 

答えを求めるバッキンガムと背信の罪を思うリチャードについて:『リチャード3世』の反転

ケントの反乱がバッキンガムの指示より早期に決行されたため、リチャードもバッキンガムも不本意な形で決断を迫られ、両者は進軍を決意します。2人の場面が交互に入れ替わり、同様に周囲から促され同様の命を下す展開もスリリングです。

 

その際のリチャードとバッキンガムの立場や台詞が今話でもR3とは反転している印象です

 

元の台詞とかなり意味は違いますが、R3ではリチャードが王子達の暗殺の件でバッキンガムに答えを求め、バッキンガムが猶予を求めて退出すると、リチャードはバッキンガムがその決断をできないものと考えます。『薔薇』では、期限には間があったとはいえ、68話でリチャードは選択を引き延ばしており、今話でバッキンガムは〈答えを出す為の時間は充分にあったはずだ…、リチャード自ら“荊棘”を断ち切れぬなら道はひとつしかない〉と考えました。

 

『薔薇』のリチャードは、バッキンガムに対抗する決断を下しながら、「いずれ神の裁きが下るだろう……」〈親愛の誓いに背した、“裏切り者(この俺)”に――〉と考えます。R3では、反乱を起こしたバッキンガムに以下の台詞があります。

 

俺はこの日に祈ったものだ(中略)裏切るようなことがあれば、この身に破滅が降りかかれ、と。(中略)この日だった、そんなことがあれば、もっとも信頼していた者に裏切られてもいいと誓ったのは。(中略)俺の魂は、犯した悪事の罰として、遅まきながら死の宣告を受けるのだ。(松岡和子訳・ちくま文庫版)

 

バッキンガムが贈った指輪が大きく描かれているこのコマの台詞が、バッキンガムの台詞の反転かもと思うと、思い入れ倍増しませんか。リッチモンドがR3リチャードの台詞を語ると“怪しい〜”と思うのに、リチャードとバッキンガムの台詞が逆になっていると感無量になる不思議。菅野先生マジック……。

 

69話でも、リチャードが、自分が裏切るのだと考えていることに引き続きの感慨もあります。ここも第1部と大きく違い、また予想よりずっと15巻がポジティブに思えたのはこういう変化や決意の仕方もある気がします。

 

フォルスタッフとマクベス夫人について

〈リチャード自ら“荊棘”を断ち切れぬなら道はひとつしかない〉〈あの時のように、この手であんたを〉。この台詞は、更に、『ヘンリー4世』(以下、H4)のフォルスタッフ的にも見え、マクベス夫人的にも見えます。

 

65話の記事では、推測というより「勝手な感想」で13巻のバッキンガムがフォルスタッフのように見えると書いたのですが、15巻を読むと菅野先生はやはりフォルスタッフの位置づけで描いていて、その誘導があってそう見えたんだろうと思いました。記事冒頭で、過小な見積もりだったと書いたのは特にこの辺です。上の台詞については、バッキンガムは、リチャードが王として選択をしているのに、過去と同様、自分の望む決断ができないと考えている節がありますよね。台詞自体に重なるところはありませんが、ここも、既に王子時代とは違う決断をしているヘンリー5世に、以前のままのハルだと思ってどんな冗談で喜ばそうかと考えているフォルスタッフのようにも見えてしまいます。

 

マクベス夫人については、「望みはとげても、なんの意味もないわ、心に不安の棘があれば。」の台詞があります。〈血も名も……、今の俺には何の価値もない〉の台詞もこれとも一寸似ている気がします。王位についたマクベスは悪夢で眠れなくなっているし、1人で辛い道を進んで行ってしまうし(マクベスの場合は更なる暗殺)、自身も幸福ではないしで、夫人は後悔に駆られます。バッキンガムが〈何もかも、間違いだーー〉と言った14巻65話の方が今話以上に近いかもしれません。眠れない夜についても、H4の方に連想が引っ張られましたが、『マクベス』が入っていたかもです。「不安の棘」は実は英語にはない小田島先生の訳ですが(英語は単にwithout content)、菅野先生は、複数の翻訳を見ているとのことだったので無理矢理ぎみですが、もしかしたらと思いました。で、更に無理矢理な話になりますが、マクベス夫人は、“You lack the season of all natures, sleep.”(あなたに欠けているのは、自然の恵み/皆に必要なサイクル=夜です。眠って。)とも言っていて、65話では、自然の恵み→子供のために、バッキンガムは強制的にリチャードを眠らせたな、と。そしてnature連想で言えば、森の暮らしを提案しました。

 

“sleep”と言われたマクベスは“Come, we'll to sleep”と答えていますが、「でもその直後にマクベスは魔女の所に行ってしまうんだよね」とマクベスを演じたイアン・レイクが語っていました。今話で、リチャードはとうとうジェーンを呼びました……。

 

ストラトフォード・フェスティバル『マクベス』感想

 

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王冠と森、楽園の転回について

反乱制圧の命を下しながらも、リチャードは〈俺が、王でなければ……、今すぐに、お前の元に走って行ったかもしれない〉とも思い、〈あの頃の俺なら、すべてを捨てられた〉と過去のヘンリーとの森での約束を思い出していました。

 

今話の扉絵が森にいるリチャードで、この絵が場所としては68話でバッキンガムが通った(多分リチャードに見せたい、約束の)ディーンの森のように見え、他方、リチャードの服は6巻でヘンリーと約束した時点のものにも見え、更に、ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』の楽園図とも重ねられているようにも思えました。(ボスの絵画の全体図は、後述の8巻33話感想に入れていて、そこで見てもらえます。)

 

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Hieronymus Bosch, “The Garden of Earthly Delights” , Public domain, via Wikimedia Commonsより(部分)

 

キリンもゾウも不思議生物もいないし一番目立つ噴水もないものの、他の動物や鳥がそれっぽくないですか。縮尺も違いますが矢印部の下辺りにリチャードがいる感じ(そこは多分どうでもいい)。りんごの木もあります。

 

ディーンの森、過去の約束、と重ねたリアル版の気がします。このボスの絵は、4巻で「あの環の中には楽園がある」の楽園イメージで使われました(画集『荊棘の棺』の中でそう言われています)。王冠に楽園を見ていたリチャードが、出会ったばかりのバッキンガムから「あんたを王にする」と言われて、一瞬野望を抱いた時です。4巻の時点では王冠=楽園だったものが今話では森=楽園になっているとも言え、バッキンガムがリチャードに示したものの逆転が扉絵でも描かれている気がします。〈王でなければ〉〈あの頃の俺なら〉のリチャードの台詞からも森の方が楽園的で、「王は戦わねばならない、“敵”となれば血族だろうと、友だろうと」、〈“半身”だろうと〉(←この辺もヘンリー4世的な台詞に思えます)とされる王冠の方が荊棘的に思えます。バッキンガムの考えは一面では真実ではあるのでしょう。戦う王は、リチャードの理想でもあったでしょうが、ここでは過酷な選択を迫るものとして戦いが示されています。

 

4巻感想13話父の敵討ちと王を殺すことについて:『ハムレット』

 

王冠と森と楽園との関係は、1巻でヘンリーと出会った時とも転回しています。森を楽園のように考えていたのがヘンリー、それを否定して王冠が楽園だと言ったのがリチャードでした。63話でもそれが示唆されましたが、ここではもっと明確だと思います。Ana Caroさんのブログの4の方の記事は、1巻でのリチャードとヘンリーの描かれ方が陰陽図(太極図)のようになっていると指摘しています。また、Ana Caroさんの分析について、菅野先生が意図的にそう描いていると回答されたとanastasia1997さんのブログに書かれていています。陰陽図にも複数の含意がありそうですが、楽園の位置づけは転回した気がするのです。

 

14巻感想63話王子達をめぐる思惑について

 

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楽園と王冠について

そして、第1部との重なりと逆転だけではなく、今話でもリチャードの変化が描かれたように思います。リチャードは、今話でりんごを手にして「俺は…、“王”だ…」と決断し、「いずれ神の裁きが下るだろう……」の台詞が続いています。リチャードは自ら楽園を捨て王冠を取る覚悟をしたように思えました。あるいは、楽園とは異なるものとして、王冠と愛を掴もうとしているように思えました。(その後でリチャードが〈“光”を手に入れた〉と言っているので間違った推論かもしれませんが、むしろ夢見る楽園と“光”とが違ってきたのではないかと思いました。66話で、「“光”は、この頭上にある」ともされています。)

 

りんごを拾ったことは、もう1つには、自分の元に落ちた果実を受け取る=エドワードを息子として守る・国に責任を持つ行為にも思えます。足元のりんごを描いたコマのリチャードの独白が、〈俺が今、手を離せば〉〈エドワード、アン、この国は――!〉になっています。

 

リチャードの王位簒奪はそもそも神に挑戦するものだったとはいえ、その時は、おそらく神を欺いたまま楽園を手に入れる、その賭けであったと思いますが、ここでリチャードが楽園を捨てて王冠を取るその選び取り方は、『ヘンリー4世』『ヘンリー5世』的な、眠りを奪う王冠を敢えて選ぶことである気もします。

 

また、そうだとすれば、これは「王冠を夢見ることがおれの天国なんだ」という『ヘンリー6世』(以下、H6)のリチャードの独白の反転にもなりそうです。

 

愛の神はおれを見捨て(中略)おれのからだをどこもかしこもむちゃくちゃにしたのだ(中略)おれが、女に愛されるような男と言えるか?(中略)だから王冠を夢見ることがおれの天国なんだ。

 

甲冑を身に纏いながらのケイツビーとのやりとりがこの独白部分の逆になっているように思いました。

 

反乱制圧の命令について「よろしいのですか、本当に……」とケイツビーが尋ねると(“ケイツビー、今それは聞かないであげて”と思いますが、ここもホレーシオの台詞からかも)、リチャードは、王にならなければよかったのか、バッキンガムと体を重ねなければよかったのか、自分が「呪われた身体」でなければよかったかと言っています。そしてその後の独白で、バッキンガムがいたから〈俺は“光”を手に入れた〉〈だからもう二度と、魂を支配させはしない、この身体の“呪い”には〉と考えます。前半は、ケイツビーにすがるような問いかけで、独白も明るいものではないのですが、リチャードは、王になり、諦めていた愛を得て、光を手に入れて、(呪われた身体と得られない愛の代償に楽園の王冠を夢見るH6独白とは逆に)代償を覚悟して王冠を選び、身体の“呪い”にも支配はされないと考えているようにも読めます。

 

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甲冑について

リチャードが甲冑を着込むことは、戦いと苦悩の王冠を選ぶことにも、〈身体の“呪い”〉に〈魂を支配〉させない選択にも思えます。H4でヘンリー5世は、王位は「熱暑の真昼にまとう立派な甲冑のようなもの」と言っています。10巻ではリチャードが〈鋼に包めばこの身体は鋼になるどんな罪が隠されていようと、ただの鋼に〉としていました。この台詞も、『ヘンリー5世』(以下、H5)のヘンリー5世の台詞を思わせます。「ああ、戦の神よ!兵士たちの心を鋼のごとく鍛えたまえ」。そして、ヘンリー5世のそれに続く台詞が「今日だけは、父が王冠を手に入れるために犯した罪を忘れたまえ。(中略)たとえなにをしたところでむなしく、許しを求める悔恨の情がますますつのるだけに終わるとしても。」になっていて、神の裁きを覚悟しつつ王であろうとすることに繋がる気もするのです。

 

他方、10巻の台詞は逆に罪の身体を覆い隠そうとするものでもあり、また〈魂を支配させはしない、この身体の“呪い”には〉は、堕胎の含意もあり、身体の“呪い”の克服の仕方は両義的なものかもしれません。

 

罪の証としての身体について

りんごと神の罰は、「罪の証」としての身体や性愛とも繋げられているように思いました。

 

『快楽の園』のモチーフは8巻33話のエドワード王の祝宴でも使われている気がします。その時は、リチャードは、不本意に楽園の喪失に巻き込まれる形でした(「ここは俺の楽園じゃない」)。その祝宴で快楽と性の象徴としてのりんごを持ってきたのがジェーンです。リチャードがジェーンを呼ぶストーリー展開をしつつ、今話では彼女が「淫婦」として恥辱の刑に処せられる(下着で歩かされる方の恥辱の刑は史実らしいですが)という絡め方になっているのも脱帽です。(しかも上に引いた「裏切るようなことがあれば〜」のR3バッキンガムの台詞には「連れて行け、恥辱の断頭台へ」もあります。)

 

33話では祝宴の前に〈神が罰として人に与えたのが肉体〉〈魂の牢獄〉というリチャードの独白もありました。この時リチャードは、魂も死んだので安寧を得られた、と、肉体、魂の両方を否定的に捉えていました。〈魂を支配させはしない〉は、その時との比較でも、魂=選択の肯定に思えます。

 

8巻33話感想楽園の喪失について

 

更に、上にも書いた第1部でヘンリーと森で暮らす約束をした時には、リチャードがりんごを抱えて来て、それを全て落としてしまっていました(りんごを落とした方は記事に書いていませんが、『十二夜』の歌との関連で、りんごを持ってきたことにだけ触れています)。

 

6巻感想21話リチャードとヘンリーの約束について

 

これも今話から振り返ると、リチャードは肉体的な愛も求めながらも、それは諦め、ただヘンリーの傍にいたいと望んでおり、その比喩になっていたかもしれません。また、王冠への野望も、王冠の重み(こちらは主にヘンリーが)にも目を瞑ったとも言えそうです。それに対して、第2部では、リチャードはバッキンガムとは“罪”を選び取り、王にならなければよかったか、身体を重ねなければよかったかとケイツビーに問いかけているものの、〈俺は“光”を手に入れた〉と、この結果に至っても、必ずしもそれを後悔していないように思えるのです

 

罪や「裁き」を覚悟しながらも、背信についても性愛についても、どこか、66、67話のような光や浄化も感じます。

 

この罪の証の身体も、今話で、リチャードとジェーン、それぞれで覆されているように思います。リチャードが罪の身体や呪われた身体に〈魂を支配させはしない〉と克服しようとしているとすれば、ジェーンの方は、罪の身体が人々の見方にすぎないことを暴露しているような印象です。

 

ジェーンは、「神よ」「お罰しください」と言いながら、衆人を挑発するように「さあご覧!」「これこそあなた方の辛苦の源、神に背き欲を貪る、忌まわしき魂の牢獄!」と、下着どころか一糸纏わぬ自分の肉体を見せています。ジェーンには「罰」さえ罰として機能しません。33話と34話の関係や、34話の「女達の祝祭」も、「魔女」が人々の見方であることを示唆するものでした。

 

甲冑を着たリチャードと裸のジェーンが並ぶ対照的な絵! でも、この時点でもジェーンの方がうわてな気も……。

 

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選択と裁きについて

で、この『快楽の園』ですが(←すっかり使われていること前提)、『ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」を読む』の中でこう書かれています。「『快楽の園』は自由意志と最後の審判がテーマになっているのではないか」「別れ道でどちらに行こうかと迷うヘラクレスの姿は、人間の尊厳として自由意志を問うルネサンス人文主義の象徴でもあった。この『快楽の園』には審判者キリストは登場しないが(中略)裁きは超越者である神によってもたらされるのではなくて人間の自由意志の中に内在しているというメッセージがこの画面から聞こえてくるような気がするのだ」。モチーフ的に最後の審判が主題なのはそうだろうと思いますが、「別れ道でどちらに行こうかと迷うヘラクレス」は意外ですし、これ『ハムレット』主題じゃないですか! 河合先生の書いているハムレットの理想像はヘラクレスです。68話の記事でヘラクレスって書いておけばよかった!  前記事はそのうち修正するかも……。

 

『快楽の園』が使われているとすれば、楽園イメージだけでなく、リチャードの迷いと選択や、「あなた方の辛苦の源」のジェーンの台詞にも、絵画の主題が掛けられているかもしれません。『荊棘の棺』の中で、菅野先生ご自身がボスの絵画が好きと語っておられて、もしかしたらこの辺も意識されているのではと思いました。もー、69話というか『薔薇王』が寓意や象徴たっぷりのボスの絵画みたいですよね。

 

 

ハムレット』つながりでついでに言えば、河合先生は、ハムレットは、自身の身体=情欲を嫌悪しており、「オフィーリアは自分のなかの罪を意識させる存在」で、「弱き者、その名は女だ」は、ハムレット自身の肉体の弱さ・情欲のことでもあるといっています(投影や転化と考えてもいいのでしょう)。引きつけ過ぎかもしれませんが、リチャードの罪の身体の克服の仕方や、ジェーンの「あなた方の辛苦の源」の台詞は、こことも繋がってくる気がします(『謎解き「ハムレット」』)。

 

リチャードは、裁きを覚悟し、身体(の弱さ)を鋼にして王冠を担うことで、罪の証としての身体を覆すようにも思えます。リチャードは、身体に支配されないことの同義として堕胎を示唆するのですが、それは一方で、楽園追放の受苦の妊娠・出産については、「女」の“呪い”として嫌悪することのようにも思えます。ただ、今の現実の中でも中絶・出産の選択は迫られることはあり、ここは読者の価値観的にも両義的なものと言えそうです。それも「迷い」と裁きが人の中にあるものなんでしょう。薬を用意して与えているジェーンは、それも1つの選択と捉えている気がします。(とまで書きながら、リチャードの妊娠も、まだわからないとも思ってもいます。)

 

前回記事や上の何箇所かでリチャードをヘンリー4世と重ねましたが、「バッキンガムの手紙について」の見出しで言及した、R2のボリングブルックは、H4のヘンリー4世と同一人物です。バッキンガムは、これまでR3のリチャードを担ってもきました。ボリングブルックとの重ね合わせも確かではないのに暴走していきますが、バッキンガムが、自分の要求を通そうとするR2時点のヘンリー・ボリングブルック的であるのに対し、リチャードは、既に血と泥を被って王冠と国を繋げようとするH4最終部のヘンリー4世的になっているようにも思うのです。

 

同じでありながら違ってきた2人のようにも思えてしまいますが、一方、まだR3のリチャードとバッキンガムの台詞の逆転・交差もあるような気がします。2人はそれぞれ進軍をしながらもディーンの森を前に雨に阻まれます。リチャードは、自分とバッキンガムの交わる道は既に断たれたと一旦は思いながら、半身バッキンガムが待っていることを確信して、ディーンの森に向かいました。

 

(※R3は河合祥一郎訳・角川文庫版(注記した箇所のみ松岡和子訳・ちくま文庫版)から、H4は松岡和子訳・ちくま文庫版から、R2、H5、H6、『マクベス』は小田島雄志訳・白水社版から引用しています。)
 
リチャードとバッキンガムが、多分ハルとフォルスタッフの位置づけと書いたので、H4の翻案とされるストリート・ムービー『マイ・プライベート・アイダホ』も紹介させて下さい。この映画では、ハル(この映画ではスコット)と、フォルスタッフ(ボブ)に肉体関係混みの愛が設定されています。もっとも、結構「!」な描写がありつつも、この2人に直接的なシーンはありません。スコットのキアヌ・リーブスが若くてかわいいです。ボブはこちらでもバッキンガムとは重ならない中年のホームレスですが(←結局重ならないのか!)、この2人のヒリヒリ感は格別です。2人の場面はかなりH4のままで、こういう解釈もありなのだろうと思いました。映画の本当の主役は、リバー・フェニックス演じるマイクの方だろうと思いますが、こちらはH4とは別プロットで、マイクとスコットとの関係も切なくて……。