『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

5巻17話 祝!読者投票1位全話公開記念 リチャードを着飾らせる王子エドワードについて

40話があまりにも凝ったすばらしい構成で、記事を書くのに時間がかかっていたら(『メタルマクベス』を見たせいもありますが)、読者投票1位の17話が宣伝アカウント(twitter) @baraou_infoで全話公開になっていました。もう1週間ぐらい経ってしまいましたが、お祭りに乗れればと17話の記事を書きました。

 

17話は、ウォリック伯に謀反を起こされ捕らえられたエドワード王を、リチャードが奪還に向かう話です。ウォリックが謀反を起こして、王をエドワードからその弟のジョージにすげ替えようとしたのは、彼がエドワードとフランス王家との婚姻を結ぼうとしている最中に、エドワードが身分の低い未亡人エリザベスと勝手に結婚してしまったためでした。ウォリックは、エドワード王を打倒するため、旧敵のランカスター家とも盟約を結びました。

 

(※『ヘンリー6世』(第三部)はHⅥ(3)、『リチャード3世』はRⅢ、『薔薇王の葬列』は『薔薇』と表記します。)

 

HⅥでは、ウォリックによるエドワード王陣営の襲撃も、襲撃の声とともにエドワードが捕らえられ、リチャードたちについてはその横を逃げるとト書きで処理されるくらい、かなりあっさりした場面です。また、リチャードたちのエドワード奪還も以下の引用部ぐらいで片が付いています。

 

リチャード わが兄、国王エドワードは、ここの大司教に囚われの身となっておられるが、結構厚遇もされ、かなり自由も与えられている、そしてしばしば、わずかばかりの護衛につきそわれ、気晴らしのためにここへ狩りにやってこられる。そこで私は、ひそかに兄に通じておいたのだ、もし今日、この時刻に、いつものとおり狩りを口実にここへおいでになるならば、お味方するものが馬と部下とを用意して、幽閉のお身を救出すべく待っているだろうと。(HⅥ(3))

 

“え……、これは軟禁にすらなっていないのでは?”という感じですが、上演時間の制約のなかで、エドワード王とウォリックの対立や王位が移行する経緯を示す必要を考えると、この位が妥当なのかもしれません(史実はどちらに近いのでしょうか……)。

 

その点、『薔薇』はここも緩急のある奪還劇としての展開を楽しめます。

 

そしてこの台詞が、リチャードに(なぜか)同行することになるランカスター家の王子エドワードの17話の終盤での語りに使われていることがわかります。「寛大なるネヴィル家の方々は王を丁重に遇し……、できうる限りの自由を与えようと私に『彼女』を遣わさせた」「エドワードに」「獲物を狩らせてやるんだよ」。

 

17話はオリジナル色が強い回だと思いますが、それでもオマージュや伏線が盛り込まれていると思います。(もちろん怪しいので話半分に取って下さい。)

 

身分を隠してエドワード王を追うリチャードが立ち寄った酒場では、エドワードが王位を取り戻すか次兄のジョージが王になるか、男たちが賽を投げて賭けをしていました。(読み込み過ぎの感もありますが)「俺はエドワードに賭ける」と言うリチャードにはRⅢの台詞「この命、投げた賽に賭けたのだ」が連想されます。

 

その他にも、細かいところでは、ジョージと結婚して「王妃になるなんて」「夢みたい」と喜ぶイザベルとか。この点は、8巻まで既読でネタバレOKな方は以下にオマージュ・伏線説を書きました。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

また、イザベルはアンに、エドワード王がヨーク公の実の子ではないと語ってもいます。RⅢの転用的でもありますが、実は史料によれば、ウォリックが反乱時にエドワード王が庶子だという噂を流したということで、それがこの形にされていたのでしょう。RⅢでは、リチャードがバッキンガムにエドワードが実子ではないという話を流布させています。

 

更に8巻以降の伏線について一言だけ書きますが、画像と広告を挟みます。この辺、後になってこそわかるところですね。こういう伏線があちこちに張ってある素晴らしさ! 8巻以降の内容を飛ばしたい方は下の薔薇画像をクリックして下さい。

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イザベルがヨーク公夫妻について言った「円満そうに見えて内実は破綻していたなんてこと、よくあることじゃない」という関係は、8巻以降のアンとリチャードのようですよね。そして『薔薇』ではアンの息子がリチャードの実の子ではありません。

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首を差し出すウォリックについて:『タイタス・アンドロニカス』

エドワードを捕らえたウォリック伯は、食事の時にエドワードにエリザベスの父の首を差し出します。しかも、その前に「女の首ですよ」と言ってエリザベス殺害を仄めかし、エドワードを精神的にいたぶります。

 

ここは『タイタス・アンドロニカス』オマージュではないかと思うんです。『タイタス』では敵を本当に食事に饗してしまいますが、食事時に皿に乗せた首を出すという多少マイルドな表現にしているのではないかな、と。エリザベスに『タイタス』のタモーラを被せている?と思ったのが、この17話でした。

 

『薔薇』のエリザベスは、亡夫グレイ卿の仇をとろうと、かつての敵側の王エドワードに敢えて近づいて王妃となりました。話の途中までは、ヨーク家の王位を自分の子供に継がせることが、彼女にとっての仇討ちです。他方、HⅥやRⅢのエリザベスには夫の仇をとろうする裏心はなく、HⅥではグレイ卿はヨーク側の将という設定になっています(RⅢではランカスター側だった設定)。

 

『タイタス』では、ローマ軍将軍タイタスが、敵戦国の女王タモーラの長男を殺したため、タモーラはその仇を取るためにローマの皇帝の妻になります。タモーラは皇帝の前では猫を被って良い妻を演じつつ、生き残った彼女の2人の息子と共に、タイタスに復讐する機会を窺います。そしてタイタスの家族が復讐の犠牲にされると、それに怒ったタイタスが、今度はタモーラの息子を殺した上で文字通り料理してしまいます。抑え気味に書いていますが、シェイクスピア作品の中でも最も残忍と評されるものすごい話です。

 

17話のこの場面は、エドワードに裏切られたウォリックの深い恨みやエリザベスへの嫉妬のようなもの(があると思います)を描きつつ、『薔薇』のエリザベスのこの後の恐さと復讐を予感させる挿話になっている気がします。どこまでタモーラに寄せてくるかはわかりませんが(というか、タモーラを被せているということ自体推測ですが)、11巻までの時点で既にエリザベスは相当恐いです。

 

リチャードを着飾らせる王子エドワードについて:『じゃじゃ馬ならし』(の逆転?)

HⅥで、リチャードと共にエドワード王奪還に赴くのはヘイスティングスとスタンレー。『薔薇』では、ケイツビーとランカスター家の王子エドワードが同行します。王子エドワードは、秘密裏にウォリック伯の客人としてイングランドに来ているという(本当はなかったことはずの)設定です。リチャードは王子であることに気づかずウォリックの客人としてしか認識していませんが、どちらにしても本来はリチャードやエドワード王と対立する関係です。

 

ですが、ウォリックがジョージを王に選ぶとなれば、ランカスター家がウォリックと盟約を結んでいる意味がなくなるのはその通り。「(エドワード4世)王が復位すれば」ウォリックが「我々を頼ってくる」という論法も、やや無理はあるものの、恋に目が眩んだ王子エドワードが考えたものとすれば“あり”でしょう。

 

リチャードの方もその“客人”を利用し、その愛人としてエドワード王移送の列に潜入します。

 

宣伝アカウントで「使命のために変装したところ、敵の王子となぜかデート」(←まさに!)とされたこの場面。ドレス選びと、王子のハイテンションは、一寸じゃじゃ馬ならしを思わせます。

 

じゃじゃ馬ならし』は、気性が荒く男たちから敬遠されているキャタリーナが変わり者のペトルーチオと結婚する話です。そんなキャタリーナに対してペトルーチオは“かわいい”、“女神ダイアナのようだ”と言ってハイテンションでプロポーズ(但しこちらは財産目当ての計画的行動)。結婚後には、キャタリーナを「飾り立てる」と言って仕立て屋に品を広げさせますが、流行の型なのに、ペトルーチオは「なんだ、これは?袖口かまるで大砲の口だ。それによくもまあ……アプル・パイのように切り刻んだな……穴だらけ」だと却下(但しこちらは最初からケチをつけるつもり)。

 

最後には、ペトルーチオの計算尽くの型破りな行動にキャタリーナが折れて従順な妻になります。ここだけを今の視点から見ると問題含みで(キャタリーナの妹の夫もやばい感じだし)、演出の工夫がないとそのまま喜劇とするのはもう難しいだろうと思いますが、もし逆転して使われているなら面白いなあ、と。

 

17話で、王子エドワードの選んだドレスを、剣が振りにくそうな、あちこち引っかかりそうと似たような(でも逆の)理由で却下しているのはリチャード。そしてその後に出てくる「アプル・パイ」ならぬ、いちごのパイのエピソード。ペトルーチオはキャタリーナの食事を奪いますが(酷い!)、エドワードは〈いくらでも買ってやる〉とパイを購入し、自分の分も食べるかと聞きます。乱暴を働くキャタリーナは叱られたり敬遠されたりしますが、女性の姿で兵を撃退したリチャードは、宿のおかみから「強い女は大好きさ」と歓迎されています。気の強いキャタリーナを無理に“しとやかだ”と言って褒め、そこに押し込めるのがペトルーチオ、リチャードを〈難しい女だ……、だがそれがいい!〉と思うのが王子エドワードです。

 

そしてこの話はプロローグがあって、キャタリーナたちの本編は、劇中劇として演じられる体裁になっています。そのプロローグには、シェイクスピア作品にはレアな、女装する少年が登場します。路上で眠り込んだ酔っ払い(鋳掛屋スライ)を皆が騙して、夢から覚めて正気に戻った領主と思い込ませるという本当にばかばかしい計画のために、小姓にその妻のふりをさせるのです。「あの小姓なら……みごと貴婦人に化けてくれよう」と、こちらにも着飾らされるエピソードが出てきます。(そのため、「しとやかな奥方」のふりは小姓にも真似できるものだと実はプロローグで言う形になっていて、キャタリーナたちの本編自体が壮大な冗談とも取れなくはありません。)

 

あなたが正気でなかったので一人寝の寂しさをかこっていたと言う妻(小姓)に「奥よ、さあ、着物を脱げ、さっそくベッドに行こう」と誘うスライ。それをうまくあしらって余興で見せる芝居が『じゃじゃ馬ならし』です。

 

つまり相手の性別を誤解しているスライが、その相手と寝ることを許されずお預けを食らったまま見ているのが、キャタリーナたちの本編ということになります。そして、ドレス選びを含むその本編は、領主と奥方/ウォリックの客人とその愛人、という偽の関係(本来の立場ならありえない関係)のなかで与えられる楽しい遊びの時間とも言えそうです。

 

(翻訳については、HⅥ(3)、『じゃじゃ馬ならし』を小田島雄志訳・白水社版、RⅢを河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しました。)
 
『タイタス・アンドロニカス』はグロ注意、という感じです。紹介しておいてすみません。ミュージカル『ライオン・キング』のジュリー・テイモアが監督なので、演出や美術としては面白いと思いますが……。
 

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