『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

6巻25話戦場の遭遇と光について

(薔薇王の葬列アニメ10話対応)

 

ウォリックの死について

(既に24話の記事では言及しましたが)本編では、25話になってウォリックを背後から刺したのがバッキンガムであることが描かれます。バッキンガムがウォリックを殺して次のキングメイカーに野心満々で名乗りを上げるという、これも『薔薇』のバッキンガムの位置づけがよくわかるスリリングなエピソードです。

 

そしてウォリックの最期を見取るエドワード王の場面ですよ!どれだけ菅野先生が2人の愛憎を掘り下げて描いているか、原典との(かなりくどい)比較で是非プレゼンさせて下さい。

 

『ヘンリー6世』(第3部)(以下、HⅥ(3))では、エドワードは瀕死のウォリックが死ぬことを見越しながら放置していってしまいます。

 

エドワードが負傷したウォリックを引きずって登場。

エドワード  そこに倒れていろ、おまえが死ねばわれわれの恐れも死ぬ、ウォリックこそわれわれ一同を恐れさせた化け物だったのだ。さあ、モンタギュー、用心しろよ、おまえを見つけ出し、ウォリックの骸骨の道連れにしてやるからな。(退場)   (HⅥ(3))

 

ウォリックの死を見送るのは(『薔薇』ではこの場面には登場しない)サマセット。24話でウォリックはエドワードにとどめを刺すのを躊躇い、それが結果的に命取りになったわけですが、エドワードの方も情が動いてウォリックを殺すなと命じるところはHⅥと対照的です。25話でも、命令に背いて殺した犯人が誰かと問うています。

 

しかも「おまえが死ねばわれわれの恐れも死ぬ」の同じ台詞を使いながら、倒れたウォリックをエドワードが腕に抱いて「私の憂苦の影……、お前が死ねば私の闇も死ぬ……」と、憂苦(=憎)でありながら半身が削られるかのような言葉にされています。訳文をわずかに違える程度で絶妙です。そして、もう目が見えていないウォリックを「死に神のヴェールに目を覆われたか」「この目はかつて太陽のように爛々と光り、この世のどんな逆謀も看破し得たというのに」と惜しみます。この台詞、実はHⅥではウォリック自身が過去の栄光を語るものですが、それをエドワードに言わせている訳です!この台詞の後半から『薔薇』でのウォリック自身の独白になっています。

 

ウォリック この目は、いまは死の黒いヴェールにかすんでいるが、かつては真昼の太陽のように炯炯(けいけい)と輝き、世のかくれた謀反をたちまち探りあてたものだった。(中略)だがおれの栄光も、いまは埃まみれ、血まみれだ、(中略)ああ、栄華も権勢も、しょせんは土と埃にすぎぬのか?人間、どう生きようと、結局は死なねばならぬのか? (HⅥ(3))

 

この後HⅥでは、目が見えなくなりサマセットを兄と間違えたウォリックがこう言います。

 

ウォリック 兄上、そこにおいでなら、頼む、この手をとり、あなたの唇で、おれの魂をしばらく引きとめてくれ!(中略)おれを愛していないのか、兄上(後略)(HⅥ(3))

 

「あなたの唇で」は、HⅥ(3)では話しかけてほしいという意味ですが、『薔薇』のウォリックにはヨーク公が見え、手を差し出すと、エドワードがその手を取って「こうしてお前の魂をおさえておこう」と口づけるんですよ。そのまま読むだけでもエドワードの愛は十分伝わりますが、HⅥの「愛していないのか」と対になるように、『薔薇』ではウォリックが何も言わなくてもエドワードは手を取っています。

 

更にHⅥでは兄でなくサマセットだとわかる箇所と対になるのが、エドワードの「私は、お前の王だ…」という語りだと思います。ここも、最後にウォリックがエドワードを〈私の王か…〉と本当に認めるという非常に感慨深い展開になっていて、彼は「へいか」とつぶやいて息を引き取ります。そしてサマセットに語った言葉がエドワードとの約束のようにされているのです。

 

ウォリックはこれでお別れだ、天国でまた会おう。(HⅥ(3))

いずれまた、神の御許でーー (『薔薇』)

 

菅野先生の2人への愛を感じる変換です。エドワードがウォリックに駆け寄ってからわずか4頁でこの密度の濃さ。しかも25話はこの後リチャードとヘンリーが、敵同士だったとわかるという怒濤の展開です。

 

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父の亡霊について

戦場にいたリチャードは、「陛下」とヘンリーを呼ぶ臣下の声を聞いてその声を追おうとし、それを一方ではジャンヌが、他方ではヨーク公が、ヘンリーのいる方に誘導しようとします。

 

これ、ジャンヌとヨーク公、どちらに従ってもヘンリーのところには行くことになったと思っているんですが(ジャンヌに従ったら、この時点では会わずに回避の線もあったんでしょうか)、ジャンヌは「愛しいヘンリー」と生きる道を、ヨーク公は「ヘンリー王」を討つ道を示しているのかな、という気がしました。

 

21話でも『ハムレット』オマージュが出てきましたし、ここでリチャードに「私の仇を討て」「誓え」と言うヨーク公は、やはりハムレットに復讐を誓わせる父王の亡霊を思わせます。この類似だけではあるのですが、ただ、ハムレットもこの使命のためにオフィーリアとの愛も育めなくなり、彼自身も命を落とし、デンマーク王家もポローニアス家も全滅という凄まじい結果になります。(オフィーリアとの関係が壊れることについては、母親や女性への不審や揺れとする解釈も、仇討ちのために恋を捨てる解釈もあります。5巻記事で示したのは前者の解釈で、後者の解釈は河合祥一郎先生が『謎解きハムレット 』で示していたと思います。)幻影・亡霊として登場するヨーク公にはそんな呪縛も感じます。

 

そしてここでは、ジャンヌに「さあおいで、君の愛しいヘンリーが待っている」と言われても、リチャードはヨーク公に従い仇討ちを選ぶ訳です。

 

戦場の遭遇について

ヘンリーについては、23話から、HⅥ (3)2幕5場の後半部の、戦場で親とわからず殺した息子と、息子とわからず殺した親が嘆くような話が進行していました。同士討ち状態の混乱で逃げ出した兵士に遭遇し、ヘンリーは「国民よ…、君の苦しみは、私の苦しみだ……、もし私の死でこの悲劇がすべて終わるというなら……」と言いますが、この台詞も(HⅥ では彼らに語りかけはしないものの)多分この場面からでしょう。

 

それに対して兵士は「本当に貴方が王なら」「こんな綺麗なままでいられるはずがない……」「国王がそうやって汚れずにいたから、僕達が血で汚れるはめになった……」と『薔薇』のヘンリーを非難します。この辺は、HⅥ(3)のヘンリーの台詞「この無惨な出来事を聞いたら国民はどうするだろう、王が悪いと決めつけてけっして私を許さぬだろう!」の変換かと思います。また、HⅥ(3)では「悲しみに心をうちひしがれたか、あわれなものたちだ、だがここにいるのはおまえたち以上に悲しみ嘆く王なのだ。」ともヘンリーは言っており、これだけ悲惨な事態を眼前にしながら自分の方が悲しいと言う、HⅥ(3)のヘンリーに対する菅野先生の批評が入ったものではないかという気がします。

 

そして『薔薇』では、その兵士が、同じランカスターの別の兵士によって、ヘンリーの目の前で殺されます。その別の兵は、リチャードに“ヨークの兵”が逃げたと煽られ追ってきたのでした。殺して味方だと気づいた後も、彼は「…俺のせいじゃない」「そいつが俺の息子だろうと親だろうと!殺すしかない!」と言います。皮肉なことに、殺された兵士の血を浴びてここでヘンリーも血塗れになり、また刃を向けられHⅥの殺された親や子に近い立場に置かれます。

 

ヘンリーが血塗れになるところはひねりが効いていますが、この辺は割合ストレートな使い方ですよね。

 

ですが、この2幕5場の使い方は更に凄いと思うんですよ。

 

2幕5場は、前半がヘンリーの例の「いっそ死んでしまいたい、それが神のみ心なら!(中略)私にはどんなにしあわせと思えることか、貧しい羊飼いにすぎぬ身の上で暮らすことが!」の台詞です。この台詞でリチャードとヘンリーを初めて出会わせています。そして、後半の親子が殺し合った話は、2巻で、父を殺され、逃げる途中で初めて人を殺したリチャードにも重ねられていた気もします。ヘンリーが、23話で「私は今まで…、ずっと民の心に寄り添ってきたつもりだった…だが現実の傷からは、目を背け続けていた……」と語るコマで、この時のリチャードがヘンリーに想起されています。(このヘンリーの台詞や態度については、むしろHⅥ(3)の「かつてこれほど国民の不幸を悲しんだ王がいるか?おまえたちの悲しみも大きいが、私のはその十倍だ」とは逆の感じで、ここも菅野先生の評価が入っているかなと思いました。)

 

目を背けていたことを自覚した『薔薇』のヘンリーは、初めて王として戦に目を向け戦場に出向きます。つまり本来の身分の自分として振る舞う訳です。また、血塗れになり殺された親と子に近い立場に置かれたヘンリーと、兵士の同士討ちをけしかけ、間接的に兵を殺したヨーク家のリチャードとが遭遇し、初めて2人が互いを認識します。殺した相手が親や子だとわかった兵士達のように。

 

出会って惹かれる場面と、相手が本当は誰かを知る場面が2幕5場に集約されているんですよね。

 

ヨークの太陽とリチャードの光について

この最中に太陽が現れますが、兵達の台詞で「ヨーク(我々)の太陽だ!」と言われているように、ここは、一方では、RⅢ冒頭の「わが一族の上に垂れ込めていた雲」から「ヨークの太陽輝く栄光の夏」への移行、ヨーク軍の勝利を思わせます。ですが、同時に、太陽=光は残酷な現実を明るみに出すものとして描かれてもいると思います。

 

ヨークの兵達が「ヨーク(我々)の太陽だ!」と言った、次のコマは夥しい兵の死体になっており、数多くの犠牲がまさに白日の下にさらされた形です。ヘンリーは、王たる自分が引き起こしたことを確認し「…私が、殺した…」と衝撃を受けます。

 

リチャードは、父の栄光と王冠を光としてきた頃とは違い、もう明確に〈ヘンリーお前は、俺の光だ〉と思っています。ヨーク公とジャンヌとがリチャードを導こうと争った時、ジャンヌは「リチャードはもうあんたのものじゃない」「本当の君を知っているのは僕だけさ…」と言っていますが、リチャードにとっての光がヘンリーに移行している点では、ジャンヌの言う通りだったりもする訳です。ですが、リチャードを引き戻すように「ヨークの太陽」が出現しているようにも思います。

 

24話の記事で、陽が見えない状況がRⅢ後半の戦争場面を思わせると書いたのですが、実はRⅢのこの箇所の注で河合先生は「リチャードは、最後まで太陽を味方にすることができない」と記されています。RⅢでは陽が見えないことに対してこう言われているのですが、25話では、〈俺は光を、手に入れるんだーー〉とヘンリーを求めたリチャードが、太陽が輝いてきたところで彼に遭遇し、その思いを裏切られることになっています。

 

(※HⅥ は小田島雄志訳・白水社版から、RⅢは河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しています。)
  
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次から7巻です。