『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

8巻32話夏の祝宴について

(薔薇王の葬列アニメ13話対応)

悲劇の戯画化について

32話の表紙には誰もいない幕のみ。幕開けの形で『ヘンリー6世』(第3部)(以下、HⅥ(3))の最終場面が道化によって演じられます。この芝居で言われる台詞は、抜粋ではあるもののヘンリーの台詞も含めてほぼHⅥ(3)5幕6場の通りです。「見ろ、あわれな王の死を悼んでおれの剣が泣いている」HⅥ(3)という台詞については語りではなく、返り血なのか道化の涙かという画のみで描かれています。7巻の最後を考えると更にその画が意味深に見えますね。

 

(※2幕3場など細かいところまで書く場合はRⅢ2-3のように表記しますが、書いたり書かなかったりです。)
 

HⅥ最後部が道化の芝居にされていたのにはかなり驚きました。7巻からわずか2話。ロミジュリがハッピーエンドに思えるくらいの悲劇的展開だったのに、この相対化。すごい、そして容赦がない!悲劇が英雄譚か笑い話のように扱われる残酷さがあります。

 

芝居は「皆が『神聖だ』と言う『愛』なんてものは」という台詞で始まりますが、HⅥの元々の文脈では、兄弟愛を否定してリチャードがいよいよジョージ暗殺を目論む前置きの感じです。

 

天がおれの肉体をこうねじ曲げて作った以上、今度は地獄がおれの心をそれに合うようにすればいい。おれには兄弟はない、おれはどの兄弟にも似ていない、年寄りどもが神聖視する「愛」などということばは、似たもの同士の人間のあいだに住みつくがいい、おれのなかにはおいてはやらぬ、おれは一人ぼっちの身だ。クレランス〔=ジョージ〕、用心しろよ(HⅥ(3)5-6)

 

実は、この台詞の転用は「お前は誰とも同じじゃない……お前は『ひとり』なんだ」という形で1巻4話にも出てきます。その時には、アンの言葉を誤解してリチャードは孤独感を感じていました。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

『薔薇』では1巻でもここでも兄弟への言及がありません。そのため、HⅥでも確かに異端者としての孤独は感じさせるものの、『薔薇』ではそれ以上に「愛」の否定が強調され、心を悪魔にする決意に重点が置かれる形になっています。アンとの結婚後に、再度同じ箇所の台詞「一人ぼっちの身だ」が引かれる重さ。そしてヘンリーから拒絶され、彼を殺害した後にこの台詞が置かれる重さ。(HⅥでは王位への道としてヘンリーを殺害し覚悟を決める中で言われる台詞なのに、『薔薇』の文脈では愛を拒否されたことで心を悪魔にする、という、同じヘンリー殺害後の台詞でありながら意味が全く変わってきます!)。しかも道化がそれを言うわけです。

 

時の流れも感じさせます。わずか2話ではあっても、(裏表紙の説明によれば)10年が経っているので、戦時の記憶も風化し、ランカスターからの王位簒奪劇が拍手喝采で迎えられる状況があるのでしょう。その一方、リチャードとアンの結婚や、32話で言及されているエドワード王の領地分割で、ジョージと兄弟との間には既に確執が生じています。戦争を起こし王と王子エドワードを殺害して王位を得たのに、今度はヨーク家内が不穏になっていてそれが茶番のようにも見えます。

 

ジャンヌ(らしき人物)が道化としてリチャードを演じていることも、イングランドの権力争いの愚を嗤うような悪意を感じます。と同時に、『リチャード3世』(以下、RⅢ)の冒頭でリチャードは、「出来損ない」の自分の身体では、色事を含む平和な王宮を楽しめない、「己の影でも眺めて、その醜さを鼻歌で歌うのが関の山」とも言っています。ジャンヌが演じる道化にはそんなリチャードの投影もありそうです。

 

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幕開け

そして、その道化がそのままRⅢ冒頭のリチャードの台詞を喋ります。

 

今や、我らが不満の冬も、このヨークの太陽輝く栄光の夏となった。(RⅢ)

 

RⅢでは、この台詞に続けて兄ジョージがロンドン塔に送致される場面、そこからアンに求婚する場面の順番なのですが、史実としてはアンとの結婚がランカスター戦の約1年後、ジョージの処刑(史料では暗殺というより処刑)が7年後なので、『薔薇』ではその順序に沿った展開になっているようです。

 

そのため、これが第2部の実質的な幕開けということなのでしょう。それに続くリチャードの独白数行から、第2部の登場人物を揃える形で、王宮での祝宴が1話を丸々使って描かれます。

 

我らが額には勝利の花輪が飾られ、(中略)いかめしい鬨の声はさんざめく宴の声に、猛々しい進軍は賑々しい踊りに変わった。(中略)武装した軍馬にうちまたがることもなく、今や、淫らなリュートの音に合わせ、ご婦人がたの部屋で器用に軽く飛び跳ねる。(RⅢ)

 

ベス〔姪のエリザベス〕とジェーン〔ショア夫人〕はRⅢには名前しか出てきませんが、ベスは、占いで、リチャードが触れた王冠のケーキを手中にしています。ジェーンは、「ご婦人がたの部屋で器用に軽く飛び跳ねる」象徴という感じで、エドワード王は早速ジェーンと「飛び跳ね」ているだけでなく、彼女をヘイスティングスと“共有”しています。エドワードが5巻で言った「楽しみは分かち合いたい性質なんだ」って……この伏線でしたか……? そしてRⅢの「武装した軍馬にうちまたがる」のフレーズにはかなり露骨な性的含意があったんですね(と、今頃気づく)……。

 

花輪についてもエピソードを交えて描かれていますが、ジェーンがエドワードの身も心も虜にするきっかけが、ドレスを貰っての着替え(の場であれこれ)というのもRⅢの台詞からの遊びが感じられます。

 

リチャード 王のご寵愛を受けるには、あの女〔=ジェーン〕の家来となって、あの女のお仕着せでも着なければなりますまい。(RⅢ)

 

Gの予言について

“Gの頭文字を持つ者が王に害をなす”という予言はRⅢにも出てきますが、RⅢでは、その予言を利用してリチャードがエドワードにジョージへの疑念を抱かせ、ジョージにはエリザベスが唆してエドワードが疑念を抱いていると言って、相互不信を煽ります。

 

『薔薇』では、Gの形の占いのケーキにワインがかかり、その占いの読み解きをジェーンがエドワードに話すという流れです。(この後でジョージはワインで暗殺されることになるので、更に捻りが効いている……というか、更に恐ろしくなっています。)その一方、ジョージの妻イザベルがエドワードにかけた呪いにジェーンが間接的に関わっていたことが34話でわかります。つまり、予言の件で2人の不信を煽るリチャードの役回りを『薔薇』ではジェーンが担っているわけです。11巻50話の記事でも書きましたが、色々な人たちの思惑が絡んで話が動いていく流れは、RⅢよりHⅥの展開に近い感じがします。

 

また、RⅢでは、話の流れの中で読者や観客に“害をなすGは本当はグロスターなんだろう”と想像させるだけで言及はありませんが、『薔薇』ではバッキンガムがそのケーキを見て「グロスターの『G』か」「血まみれの『G』」と言っています。バッキンガムはむしろ積極的にそうさせたい感満々で、ここでも「未来を選べ」と先導するのはバッキンガムです。一方のリチャードは、王冠のケーキに触れても言わなかったり、ヨークの敵になるなら殺すと警告したり、必ずしもバッキンガムに心を許していません。この時点ではリチャードはヨーク家や王を守ろうと思ってもいます。(以下、微妙ですが、11巻ぐらいまでのネタバレ的な記述になりますので、避けたい方はここまでとしてください。)

 

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https://www.pakutaso.com/20160114006post-6545.html 

 

11巻から振り返ると、バッキンガムが共に未来を掴もうとしてそれを先導するエピソードの1つになっていたことがわかりますが、リチャードが牽制したりこの後バッキンガムが秘密を探ったりで、2人の間には何か危険で油断のならない感じもありました。RⅢのバッキンガムが王位簒奪に協力するとはいえ、どう転ぶかわからない緊張感があり、吊り橋効果って言うんですか(←違います)、これが却って気持ちを盛り上げます。9巻10巻、読者は翻弄されましたよね。

 

(HⅥ(3)の翻訳は小田島雄志訳・白水社版から、RⅢは、河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しています。)

 

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