『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

MARQUEE.TV 『リチャード3世』感想

Marquee.TV内に入った『リチャード3世』を観ました! シャウビューネ劇場、トーマス・オスターマイアー演出、ラース・アイディンガー主演。(比較でプルカレーテ演出・佐々木蔵之介版にも言及しています。)

 

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以下のリンクでキャスト表が見られます。

www.schaubuehne.de

 

幕開き:ラップが入る『リチャード3世』

鉄骨の建物のようなセットや、ドラムを中心にした生演奏がスタイリッシュで、現代または時代不明の衣装になっています。結構カットもされているのに160分と長めです。台詞の間合いを長く取って、その間の表情や、予想外の行動、装置などの視覚的効果で行間を感じさせる演出だと思いました。

 

ドイツ語だった上に字幕がないと思い込んで最後まで観たので言葉的にはお手上げで、この場面だろうと想像して追うのはなんとかなったものの、台詞のニュアンスはあまりつかめなかったと思います。字幕が出なかったのはiphoneから飛ばしてTVで視聴したせいで、PCなら英語と仏語の字幕が出せたと後からわかって、失敗したと思いました(泣)。

 

派手なパーティー的賑わいの中、リチャードが列の最後に登場し、彼の異形性というか他の人々からの疎外が強調される始まりです。最初の独白はこれからの悪事に開き直るというより、リチャードの孤独や遺恨の方が感じられる語り……。と思ったら、再度同じ台詞が元の英語でも語られます。ドイツ語の方ではうっすら涙も浮かべた心情の吐露という感じだったのに対して、英語の方はポエトリーラップやポエトリーリーディングのように奸計や悪を歌い上げ煽るような勢いで、言語を変えてこの両方を見せる形にしたのが面白かったです。これ以後のリチャードの独白もしばしばこういう形にされていました。

 

ただ、いずれにしても最初の独白に身体コンプレックスと疎外がリチャードの王位簒奪の発端と感じさせる重さがあり、終幕もそれに対する結果・結論という作りのように思えました。

 

プルカレーテ演出・佐々木蔵之介主演版や、ITAのヴァン・ホーヴェ演出“Kings of war”の『リチャード3世』などとも印象が重なりつつ、違いも面白いと思いました。この2つと比較するとオスターマイアー版の特徴が見える気がして、所々で比較も入れながら書いていきます。

 

パーティーに浮かれる始まりはプルカレーテ版に近いように見え、後半の展開も似ていると思いましたが、プルカレーテ版のリチャードは、実は最初の場面でパーティの中心にいるし、皆がそれぞれの役柄に移行する前段だし、おそらく障害自体フェイクで「この体つきでは色恋もできず」と言うのも“なんちゃって”にも見えます(これも下に動画を貼りました)。つまり、王位への欲望の底にコンプレックスや疎外があるわけではない気がするのです。ヴァン・ホーヴェ版リチャードは疎外されていますが、こちらは家族や母親からの疎外が強調されていると思いました。リチャードがヘンリー6世暗殺の汚れ仕事をしている間に、家族団欒するエドワード王が息子に王位を譲ろうとしているという『ヘンリー6世』からの繋ぎになっており、リチャードと母親の関係の拗れもしっかり描かれているように思います。それもあってかあまりセクシュアルな感じはしません。このオスターマイアー版は、下のtrailerで少し見ていただけるように冒頭のリチャードの独白を反映するセクシュアルな仕草が入っていて、演者は少なめながら原作通り王宮の人々が恋愛や性愛を享受するなかでそこに入れない(と思っている)リチャードが示されているように見えます。演出ネタバレ部分でもう少し書きますが、母親との関係には焦点が当たりません。『薔薇王』は性愛と母親からの疎外の両方を掘り下げる形ですよね。

 

trailerは、上の方がドイツ語の独白から始まるもの、下が英語のラップ版で始まるものになっています。下のtrailerの最初のラップのシーンはぜひ観てもらいたいものの、0:28ぐらいに裸で血を流して殺されるクラレンス公ジョージが映るので苦手な方は気をつけて下さい。trailerで出てくるのでネタバレと言えないだろうし、注意を書いておいた方がいいかなと思いまして。『タイタス・アンドロニカス』が苦手な私も全然大丈夫な程度ですが、“Ich will König sein.”が出たらすぐ出てきます。上のtrailerも1:18過ぎぐらいにクラレンス公暗殺は写ります(俯瞰で少し小さめ)。そのシーンでは顔が映らないものの、クラレンス公はイケメンで『薔薇』ジョージを実写化したらもしかしてこんな感じ?と思うような風貌でした。

 

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クラレンス公だけでなく、こちらのリチャードも相当どころじゃないほど脱いでいます(『薔薇王』45話=アニメ15話くらい)。下世話な紹介のようですみませんが、冒頭との関係で考えると身体と性愛コンプレックスを強調するための演出にも思えます。あるいは(trailerでどのシーンかわかりそうですが)、王位簒奪や奸計の始まりでリチャードが自分を晒して裸になっているとも言えます。相手の意表を突いたり、そのシーンをセクシュアルに見せる効果かもしれませんが、そこも意味的に『薔薇王』と符合するようにも思えます。妄想入ってそう思うだけで、裸や食べ物のシーンなども含めて敢えて嫌悪感を醸す効果を狙っているのかもしれませんが……。でもtrailerだと気味悪そうに見えますが、そこから想像するほど本編は(内容的に重いかどうかは別として)怖くも気味悪くもないと思いますので!

 

アンが求婚を受け入れ王位簒奪計画が進んでいくと、ドイツ語の独白でも嘲笑的になり企み感が増していくものの、ドイツ語では内面を語り、英語ではそれを露悪的に外に出すようなニュアンスを感じました。

 

プルカレーテ版のゲネプロ動画です。

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baraoushakes.hatenablog.com

 

その他登場人物

どの辺までならネタバレの支障はないかなと迷いながら書いていますが、王子達はちょうど子どもの大きさくらいの人形で、複数の大人達が操る形にされていたのも、原作の「未成年のうちはご意見番」が統治するが「誰が一番おそばにつくか争い」が起きると困るという台詞を思わせてうまいと思いました。

 

ヘイスティングスは、人がいい面もありそうですが、懐疑的で用心深く様子を見ている人に見えました。容易にリチャードに着くことをよしとしなかったため、ケイツビーが排除を決めた印象です。そのケイツビーは秘密警察のようにも見え、得体が知れない感じ。キャスト表を見ればわかるので書いちゃいますが、このケイツビーの演者がマーガレットも演じています(マーガレットは原作より出番少なめ)。いや、実は今回(も)、同一演者だとわからなくて私自身がキャスト表を見て驚いたという見る目のなさです。でも、マーガレットの方は得体が知れない感じはなくて、恨みはあっても堂々とした元王妃の印象でした。

 

あと、思いきり誤解を誘う書き方をしますと、リチャードとティレルのキスシーンがあります(もちろん『薔薇王』と関係性は異なるものの、挨拶とかではないキスシーンです)。ティレルがキャスト表に載っていませんが、役としてもラトクリフを兼ねているようにされラトクリフの名前になっています。私は、ティレルと思って観ていて、ティレルがラトクリフの役回りもするんだと逆に思っていましたが、王子達の暗殺後に臣下になったか臣下のラトクリフが暗殺を実行したかの形です。

 

バッキンガムについては微妙に演出ネタバレ的かなと思って商品画像を挟みます。その先はまた何回か画像を挟んでネタバレ度を上げていきます。

 

商品リンク:これはDVDもあるのですが、こちらも英語・仏語字幕のみです。


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バッキンガムとか……

こちらのバッキンガムは、原作以上に、王位簒奪あるいはそれに伴う粛清に最初から乗り気ではなく、それなのにリチャードに丸め込まれ従わざるを得なくなっている描かれ方でした。リヴァース伯達の処刑に同行する際は後ろめたさと本意でないことが窺え、ヘイスティングスの断罪場面でも、バッキンガムはそれを望んでいない表情で結論が出る前に議場を後にしているように見えました。こういう解釈だと離反の流れが自然です。演説の失敗の説明では、恐る恐るの表情で言い訳する部下のよう。そしてその説明にリチャードはパワハラ上司のように怒ります。リチャードはそもそも暴君ですが、ここではあっさり処刑する怖さではなく部下に怒鳴り散らす感じで、パワハラと書きたくなるんですよね。

 

市民達を引き連れて王位を要請する場面もバッキンガムは自信なさげで困ったようだし、バッキンガムがちゃんとやるかケイツビーが睨みをきかせています。身分は低くてもこちらはケイツビーが優位な印象です。バッキンガムは、嫌々でも尽くしてリチャードを王にしたのに王子達の暗殺まで命じられたらこれは逃げるだろうなと思えます。しかもその場面でもすごいパワハラ。スタンリーはそれを見てリチャードを見限ったように思えました。

 

『薔薇王』以上に最後の方まで「バッキンガム!」と叫んでいるリチャードでしたが、その直前にスタンリーを卑怯者と罵っていたので、ここはリッチモンドに付いて裏切ったことが許せないということかもしれません。

 

Image by Vũ Đỗ from Pixabay
“Their lips were four red roses on a stalk, which in their summer beauty kiss'd each other.”

 「手を貸してくれ」

王位就任場面から、リチャードは首と胴体に矯正コルセットを付けます。王位を得ただけで満足せず外見も繕って無理をするようにも、逆説的にそれで異形性が目立つようにも、更にコルセットに生足なので倒錯的にも思えます。しかもおそらくそのせいで、この時点からカンカンとずっと雑音が鳴ることになっています。こう、正規の意味としては違いそうですが「角を矯めて牛を殺す」みたいな、この矯正でじりじりリチャードが弱っていく感じもしました。 

(こんな格好↓)
theartsdesk.com 

「手を貸してくれ。この高みに王リチャードがのぼるのも、おまえの忠告と協力のおかげだ。」という台詞の箇所で、そのコルセットのためか元々の障害のためかは不明ながら、リチャードは高い玉座(に見立てられたテーブルの上に置かれた椅子)に1人では上がれず、バッキンガムとケイツビーの手を借ります。それなのにその関係を捨ててしまうことになるわけです。 

 

前後しますが、リチャードの母親の公爵夫人(=セシリー)は出てきません。このことからも、最初に書いたように母親との関係の拗れは抜いて、他者との関係や性愛からの疎外の方に力点を置いたのだろうと考えました。公爵夫人部分は丸ごとカットながら、アンとエリザベスと公爵夫人3人の場面のアンとエリザベスの会話はあります。ドイツ語はわからずここは見直さなかったんですが、アンがリチャードに愛されていない話は多分出てきたんじゃないかと想像します。バッキンガムとの関係が破綻した後には(←言い方)ティレルに口づけしていたり、アンを殺した後にエリザベスに口づけしながら娘エリザベスとの結婚を求めたり、それは単なる誑し込みにも思える一方、こちらのリチャードは、他者との関係を強烈に求め、人を丸め込むのはうまくても、結局人間関係を維持できず次の対象を求める人物にも思えます。

 

この後最終場面まで書きます。

Image by PublicDomainPictures from Pixabay

 

終幕

再度プルカレーテ版との比較になりますが、バッキンガムの王位応援演説のあたりから王子達暗殺のあたりまで、リチャードが食事をしていたことにも類似を感じました。吝嗇に自分1人で食べていますが、リチャードはそれを味わっているようには思えず、少しも美味しくないのに食べ続ける、満たされない渇望のように思えます。リッチモンドへの言及はあるものの実物は出てこず、実体でなくその影に怯えている感じもやはりプルカレーテ版と似ている気がします。悪夢でおかしくなってしまったか、悪夢も含めて自分の中で潰れたような末路です。

 

アンだけでなく、バッキンガム(プルカレーテ版)やティレル(オスターマイアー版)とリチャードがキスするなど、関係性をセクシュアルに見せる点も似ている気もします。ですが、プルカレーテ版の佐々木さんリチャードは、原作とはむしろ反対に周囲が自分に魅了されることをわかっている風で、人々は利用する対象であるように見え、何より彼は玉座自体に愛着・執着を示します。他方、オスターマイアー版のアイディンガー・リチャードは、疎外された遺恨もあり、上述のように他者を欲しているようにも思えるので、両者のリチャード像はかなり違っている気がします。

 

悪夢を見た後のこちらのアイディンガー・リチャードの独白が重かったですね。ここもドイツ語と英語、あるいは英語が入っており、「俺を愛する者などいやしない」と虚ろな感じで言います。この後1人で剣を振るう(=戦う)場面が出てきますが、「俺を愛する者などいやしない」が結末に思えました。この版では、バッキンガム離反のあたりからケイツビーもリチャードのことを把握しかねる表情になっていき、最後にも出てきません。本当に1人になってしまいます。愛からも人間関係からも疎外されたリチャードが一矢報いようとしたはずなのに、王になっても満足は得られず、むしろ疑心暗鬼と更なる孤独に辿り着いてしまった終幕という印象です。

 

自分で潰れてしまうリチャードも確かに原作に十分描かれているので、ここが強調されるとリッチモンドが出てこないのもありだなと思えます。ITAヴァン・ホーヴェ版ではリッチモンドは出てくるものの映像メインで、やはりリチャードが1人で自滅していく感じでした。

 

最後に余計な一言を書いてしまいますが、この展開・演出は納得だしとても面白いものの、こういう自滅エンドを観ると、『薔薇王』が別面を別様に解釈してあの結末になったのはいい終わり方だと改めて思い、菅野先生ありがとう!の気持ちにもなりました。

 

(※河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しました。)