『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

MARQUEE.TV 『お気に召すまま 』『尺には尺を』感想

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの2019年のこの2作品を続けてみたら、両方ともすごく現代的な作品になっていました。演者もかなり重なっていましたが、爽やな幸福感のある『お気に召すまま』と暗くて重い『尺には尺を』、と、印象は反対です。

 

『お気に召すまま』つながりで、漫画『ダブル』についても最後に少し書きました。

 

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー『お気に召すまま』

 

2019年、キンバリー・サイクス(Kimberley Sykes)演出。

 

現代的なコスチュームで演じられます。“この世界は舞台”の台詞と掛けて、森に入るシーンから演劇を演じるような設定にされていて、この辺ですごく気持ちが上がりました。下にリンクした演出家のインタビュー記事に森と「舞台」についての考察があり、記事を読んだのは後からですが、こういう演出的な挑戦が私の気持ちを盛り上げたのかもしれません。

 

これまでの『お気に召すまま』の感想記事では、原作ではあまり感じなかった倒錯性が見えるところがよかったと書いてきましたが、この作品では逆に、それほどセクシュアルでも怪しくもないのに、軽々とその先に行くような清々しさがありました。そして、爽やかでのんびりした雰囲気なのに、これまでギャニミードとオーランドーの危うい関係を楽しんだ自分の価値観を問われるようでもあり……。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

ルーシー・フェルプス(Lucy Phelps)のロザリンドは、かなり明るく元気はいいものの大人のセレブ女性の印象で、それがギャニミードとして男装するといたずら小僧のように変わるのが面白かったです。早口で動きもすばやくて、少年ギャニミードとオーランドーとの危うい関係はあまり感じられず、途中まではオーランドーがいたずら小僧の口車に乗ってしまった雰囲気です。途中で、もしかしたらオーランドーがロザリンドだと気づいたかなとも思える箇所があり(でも明確にされている訳ではなくどちらにも取れる形)、そこから2人の雰囲気が変わってきます。

 

そんなロザリンドに、逞しくておおらかなオーランドー(David Ajao)が意外にマッチします。これまではなんとなく、オーランドーって、見た目上品な文学青年的イメージを抱いていました。だからロザリンド達が心配してレスリングの試合を辞めさせようとしたり、そんな彼が試合に勝つのが面白いのかと。下に挟んだ絵もそんな感じですよね?右前方がオーランドーで、左は対戦相手。このRSCのオーランドーはむしろレスリング強そうで意外だったんですが、“he looks successfully“という台詞があったんですね。試合に勝てば素直に喜び、公爵が勝ちを認めないと落胆し、飾り気なく素朴なキャラ設定です。森で従者のために食べ物を強奪しようとしながら寛容な元公爵にすぐ謝ったり、兄の不当な扱いを恨んだものの、自分の命まで狙った兄を庇って怪我をしたりといったエピソードを考えると、素朴で優しいオーランドーもありだなと思いました。

 

彼が木々に愛の言葉を貼り付けるのも、恋する詩人というより、素直な彼が森に来て更に解放され、だれかれ構わずロザリンドへの想いを語るような開けっぴろげな雰囲気です。この演出では森で木が出てこなくて、木の代わりに人を使うので余計にそう見えます。木々に愛の言葉を刻むというシチュエーションに今まで目を眩まされていたかなと思ってしまいました。夕陽に向かって“好きだー!”と叫んだり、浜辺に好きな人の名前を書いたりする青春ものとあまり変わらないかもしれません(え?)。

 

歌と音楽がなんとも素敵で雰囲気がよくて、結婚式のシーンでは大きなパペットが出てきて幻想的です。RSC版の『テンペスト』とは違って手動ですが、個人的にはこういう仕掛けの方が好きかも。

 

       ↓パペットこんな感じです

 

キャスト表を見ると多分ある程度わかることですが、この先、やはりネタバレ的なので画像を挟みます。最近、MARQUEE.TV演目も内容を書きすぎていますね……。画像をクリックいただくと、『尺には尺を』の見出しに飛びます。

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Daniel Maclise, The Wrestling Scene in 'As You Like It', Public domain, via Wikimedia Commons

 

このサイクス版では、元公爵の側近ジェイクイズと羊飼いシルヴィアス他、何役かが女性になっています。熊林版でも男性ジェイクイズが元公爵に想いを寄せているように見えましたが、サイクス版でも女性ジェイクイズがツンデレ的で元公爵と相思相愛的。最後の場面で、ロザリンド&オーランドーの他、従姉妹シーリア&オーランドーの兄、ロザリンドの道化&村娘オードリー、羊飼いシルヴィアス&村娘フィービーが一緒に結婚式をしますが、その皆がカップルになる時に、ジェイクイズは元公爵のもとを去ることを告げ、“stay”と言っていた元公爵は諦めて“proceed”と言います。甘い場面にほんのり苦い話が混じる感じです。

 

また、このカップル達に多様性がありました。村娘オードリーはろう者で手話が出てきます。で、シルヴィアスが女性役ということで、シルヴィアス(ここではシルヴィア)とフィービーがレズビアンカップルなんです。原作では、羊飼いシルヴィアスが求婚したフィービーは、ギャニミードを好きになるものの、ギャニミードが実は女性ロザリンドなので結婚できずシルヴィアスと結ばれます。原作のその設定を逆転させている訳ですね。こちらではロザリンドがフィービーと結婚しない/できないのは女性だからではなく、(そこまで説明的にされている訳ではないものの)多分オーランドーを愛しているからということになるのでしょう。フィービーは、女性シルヴィアを拒否して男性を好きになったはずが(この辺は原作より残酷に見えます)、相手が男性でなくても好きになるだのとわかると共にシルヴィアの献身に気づいたというところかと思いました。

 

そのバランスもあってか、こちらのロザリンドとシーリアにはビアン的な感じはなく、ガールズ・トークのできる気の置けない友人同士、漫才コンビのようでした。

 

ギャニミードがロザリンドに戻り皆ヘテロカップルに落ち着いてめでたしめでたしでなく、逆に同性間の関係の危うさを見せるのでもなく(このもどかしい二重的な関係も大好きですが)、幸福に爽やかに、ジェイクイズ達のほろ苦さも加えて締め括られます。最後の結婚式では、ロザリンドに戻るというかロザリンドとして現れるのが通例だと思うのですが、この版では、ウェディングドレスっぽい衣装にはなっても、口調や振る舞いがギャニミードっぽいんです。そうか、ギャニミードが消えて“元のロザリンドに戻る”必要はないんだ、と、これを見て思いました。

 

サイクスは、ロザリンドが自分や観客に問いかけながら変化し、満足の行く道を探していることを指摘しています。熊林演出+満島&坂口版の、ロザリンドに戻ることが切ないと思え、皆が揺れているようなバージョンも素敵でしたが、こういうのもとてもいいですね。熊林版だと元公爵とジェイクイズについても、やはり遊びの終わりの切なさがあり、サイクス版は、連れ添った夫婦の円満離婚というか、元公爵と、生き方を譲らないジェイクイズの新たな出発(proceed)の感もあるなと思いました。

 

www.franklymydearuk.co.uk

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー『尺には尺を』

2019年、グレゴリー・ドーラン(Gregory Doran)演出。

 

『尺には尺を』は、リンクしたwikiにも書かれている通り、喜劇にも問題劇にも分類されることがあり、RSCのサイトによれば、これを問題劇と捉えて#MeTooムーブメントに繋がるものとしたようです。メインの人物以外の箇所ではコミカルですが、メイン場面は暗い作りです。

 

尺には尺を - Wikipedia


Trailerでも、観客が「暗くて深淵」とか「今日的」「問題提起的」と、問題劇的に受け止めています(そういうコメントを拾っているのでしょうけれど)。主演のルーシー・フェルプスを始め、『お気に召すまま』とかなりキャストが被っているのですが、他バージョン以上に爽やかな『お気に召すまま』に対し、こちらは、悪い意味でなく、嫌な後味が残ります。

 


Measure for Measure | Feature Trailer | Royal Shakespeare Company

 

あらすじもwikiにある通りですが、衣装や装置など、時代設定は19世紀末ウィーンあたりでしょうか。この頃のウィーンであれば、死罪はないとしても、性風俗の爛熟と同時に性的な抑圧が指摘されているので、時代の変換も面白いです。wikiの説明にもクローディオとイザベラ兄妹とアンジェロの主筋だけが載っていて、私もこの主筋だけが頭に残っていたのですが、厳しい統制の一方で特権を享受する支配者側の腐敗はもちろん、娼館取締りの話とか、官僚的な警察・刑務官がしっかり描かれていて、かなり風刺や皮肉が入っていたんですね。イザベラ達の主筋は、これらのメッセージを包むオブラートのようにも見えてきます。

 

ウィンナワルツで優雅に開幕です、が……。

 

アンジェロが、イザベラの兄の赦免と引き換えに彼女に肉体関係を要求することは、明確にセクハラとして描かれます。しかも、その取引の提案を告発すると言ったイザベラに、アンジェロは「だれがそれを信じよう」「汚れのない私の名前、(中略)国家における私の地位、これらをもってすればおまえの非難は崩され(中略)中傷者の汚名がおまえに帰されることになろう」と冷酷に言い放っているんですよね。#MeTooとの繋がりを指摘されると、なるほどと思います。

 

また、取引を持ちかけられる時点で既にイザベラはアンジェロに触られており、その嫌悪や恐怖がわかるような演技・演出になっています。兄を救えないのに彼女がそれを兄に告げに行くのも、その被害を兄にわかって納得して欲しかったからのように思えました。取引に応じないだけでなく、あまり迷いも見せず兄の死刑は仕方がないと言うイザベラの台詞や、“そうだな、でもなー”と彼女を説得する兄クローディオとの対話は、元々は笑いを意図したものだろうと思います。ですが、ここでは、イザベラに取引に応じるよう頼む兄が、彼女の被害を十分理解していないことにも焦点が当たっているように思いました。アンジェロが婚外交渉を厳しく処分する一方でイザベラへの肉欲に翻意するところも、喜劇的にできると思いますが、やはりとても暗い作りになっています。

 

最終場面でも、イザベラの告発は否定されたり茶化されたりし、イザベラの身代わりとなってアンジェロと関係を持ったマリアナは、「娘でも未亡人でも人妻でもない」「とすればなんでもないわけだな」と彼女の身分を指す言葉がありません。そしてそこに「きっと淫売女でしょう、淫売女は娘でも未亡人でも人妻でもないのがいくらでもいますから」と茶々が入ります。公爵はアンジェロを嵌めるために敢えてイザベラの発言を否定し、マリアナがどういう立場なのか知らないふりをしているわけで、観客にはそれがわかっているコミカルな場面のはずですが、今の感覚からはこういう否定も風俗業蔑視も相当嫌な感じを醸します。その後公爵がイザベラに求婚するとなるともう最低の印象です。そしてそんな印象形成を明確に意図した演出だったと思います。

 

フェルプスのヒロインには2作品とも強さを感じましたが、はじけた感じのロザリンド/ギャニミードとは違い、イザベラは硬質な雰囲気でした。他に、シーリア役(Sophie Khan Levy)がマリアナ、公爵&元公爵役(Antony Byrne)がこちらでも公爵、そしてオーランドー役のアジャオも登場。こちらでも協力する女性同士のイザベラとマリアナをこの2人が演じるのはいいですね。オーランドーだったアジャオは、純朴さのかけらもない、いい加減な口先だけのコミック・リリーフ、ポンピー役。こちらも合うなと思いましたが、オーランドーの方がむしろ意外性があると言えそうです。オーランドーへのキャスティング、グッジョブ!と思いました。

 

(※『尺には尺を』は、小田島雄志訳・白水社版から引用しました。)

 

野田彩子先生『ダブル』と『お気に召すまま』について

『ダブル』は役者と演劇を描いた漫画です。各話を「幕」表記にしていて、第1幕(第1話)タイトルが「お気に召すまま」になっています。2020年の第23回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で優秀賞受賞作品だったそうですが、つい先日まで知りませんでした。 サイトの説明には「無名の天才役者・宝田多家良と、その才能に焦がれ彼を支える役者仲間の鴨島友仁。ふたりでひとつの俳優が『世界一の役者』を目指す!」とあり、何話かは無料で以下から読むことができます。

 

ダブル - 野田彩子 / 第一幕 お気に召すまま | コミプレ|ヒーローズ編集部が運営する無料マンガサイト

 

各話タイトルが全て演劇作品タイトルで、それぞれオマージュになっていたりタイトルと内容が掛けられている心憎い構成。シェイクスピアからは「じゃじゃ馬ならし」と「マクベス」もタイトルになっています。

 

(『薔薇王』民の皆さま、第22幕でプラトンの『饗宴』に触れられていたり、『神曲』がタイトルになっていたりもしますよ〜。)

 

なかでも第1幕の「お気に召すまま」は、主人公・多家良がジェイクイズを演じ(もう一人の主人公・友仁も代役で演じます)、『お気に召すまま』や登場人物の解説もあって他以上に作品との関連が見られます。演じるのがジェイクイズというのが渋いですし、元公爵に惹かれているのに皮肉屋で、元公爵が日の目を見ることになる時に彼の元を去るジェイクイズと友仁が重なるのがいいですね。

 

初めの箇所での『お気に召すまま』からの台詞の引用も『ダブル』を象徴するように使われていて素敵でした。