『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ギルフォード・シェイクスピア・カンパニー『ハムレット』感想

トム・リトラー演出、フレディ・フォックス主演。

 

鑑賞翌日にツイートしたように、酔ってクローディアスに皮肉を言うハムレットという、『薔薇王』6巻21話的な展開があります。各紙レビューはほぼ高評価です。教会での上演で、音楽もチェロやパイプオルガンの生演奏行われ、これも高い評価に結びついています。オフィーリアのロザリンド・フォードがチェロを演奏し、観ている時はわからなかったもののポローニアスのステファン・ベドナルチクがパイプオルガンを演奏していたそうです。

 

www.britishtheatreguide.info

 

ただ、『ハムレット』については、原作萌え(というより私内『ハムレット』イメージ)が強すぎるのか、私のストライクゾーンはかなり狭くて、このプロダクション全体が好きかというと正直微妙でした。以下の感想は、かなり偏っていると思います。作品のよさを感受できないで感想をアップするのはどうかと迷いましたが、酔っ払いハムレットについての記事をブログ内に残しておきたい気もして、割引いてお読みいただけると幸いです。個人的にはクローディアスの造形が新鮮に感じられ、こちらのクローディアスはよかったです。

 

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写真AC
“There's fennel for you, and columbines”  Hamlet

 

ハムレットとクローディアス

眠い時間の視聴で注意力が散漫だったことも多分にありそうですが、フレディ・フォックス演じるハムレットは行動原理が子どもっぽく困った人に思えて、その芯が私にはあまりピンと来ませんでした。ハムレットの最初の登場シーンはすごくいいと思ったんですよ(『薔薇王』的だからということではなく)。母と結婚した叔父クローディアスにわが息子と呼び掛けられた後のハムレットの最初の台詞は無礼にも取れますよね。このシーンでハムレットが酒瓶を手に酔っていてガートルードが酒瓶をすっと取り上げて度数の低いシャンパンを渡します。父の死を悲しんで、ややヤケになっている感じの作り方には説得力を感じました。

 

ガーディアンでも「アルコール依存の王子」と書かれていて、この演出を評価しています。この後も続いているという解釈なのでしょう。同記事で言われる、手の震えがあってクローディアスを途中で殺せなかった風には私には見えなかった/わからなかったのですが……。

 

www.theguardian.com

 

父の亡霊に会いに行く時も飲んでいますが、亡霊は酔っていて見えた夢や幻覚ということでなく、ホレーシオ達にもちゃんと感知できています。ただ、ガーディアンに書かれているようにその後までハムレットのアルコール問題が続いていたのか、単に脆く感情的な人物なのか、また彼の苦悩がどこにあるのか私にはうまく捉えられませんでした。パンフレットを入手しそびれて確認できないものの、ハムレットその人がアルコール依存というよりは、クローディアスも窮地に立たされると自棄になったかのように飲んでおり、2人ともが弱さを抱え飲酒はそれを象徴するようにも思えました。再びよいと思ったのは、ハムレットが、最後のレアティーズとの試合の時に祝杯を断るのが原作以上の意味を持ってくることです。もしかしたら離脱症状なのか苦しそうにしながらも(汗もかく原作設定ですし)、ここでハムレットが飲まないと言うことで彼の変化と決断が強調される気がします。

 

ノエル・ホワイトのクローディアスは温和であまり企みを感じさせなかったり、懺悔のシーンでかなり苦悶していたり、正気でなくなったオフィーリアのことも慮っているようだったりで、この作品内で一番了解可能な人に思えました。レビューなどに言及がないのでこれは完全に私個人の見方だと思いますが、途中から、小心気味なマクベスを観る気持ちで“クローディアスの悲劇”のようにこの作品を観ることになりました。無実ではなく実際に兄を殺してはいるものの、『クローディアスの日記』的視点です。こちらのクローディアスは、ふとした出来心だったんじゃないかと考えたくなりました。

 

その他の登場人物達:素晴らしい複数役の演じ分け

少人数での上演になっていて、演者の多くが1人2役以上です。クローディアスは旅芸人の座長、ポローニアスは墓掘、レアティーズはギルデンスターン、フォーティンブラスはローゼンクランツ(+墓場での司祭、他多分守衛のどちらか)、オフィーリアはオズリックを兼ねています。最初は複数役だとわからないほど違う雰囲気で演者の方達が本当に見事でした。レアティーズは通常イメージ内の爽やか好青年だなと思って見ていて、相当後まで内気なオタクっぽいギルデンスターンと兼ねていたことに気づかず(現時点でも違うかもと自信がないくらい)、かなり驚きました。逆に言えば、この後も色々書いているものの、同じ演者だと気づかない程度の鑑賞眼での感想ですので……。

 

劇場のページに写真やTrailer、キャスト表があります。

www.guildford-shakespeare-company.co.uk

 

クローディアスは紳士的な雰囲気なのに、座長は胡散臭いちょいワルオヤジ風(死語?)なので、小心で温和な感じのクローディアス像は演者の持ち味というよりそう作ったんだろうと思いました。旅芸人達の芝居は実際に上演されるのでなく、それをクローディアス達が観ているところのみを見せる形なのでクローディアスと座長の2役が可能になるのですが、芝居場面の前にこの2人が重ねられることになります。また、亡骸を探され蛆虫に食われているとハムレットに言われたポローニアスが墓掘役になっていて、この辺は意味的にも面白いですね。

 

そして、女性率がとても上がっています。ホレーシオ、守衛のマーセラスとバーナードー(ぼーっと見ていたのでここは誰が兼ねていたかはっきりしません)、ローゼンクランツ/フォーティンブラスが役としても女性設定です。

 

仲が良い婚約者風のローゼンクランツとギルデンスターンは、最早定番になってきていますね。このバターンは最近かなりよく見る気がします。

 

男性性強めに思えるフォーティンブラスを女性にしたことにはやや驚きつつも、これは意外にうまくいっていると思いました。生意気な若者というよりハムレットよりは年上で統率力あるリーダーの感じです。仮にこちらのハムレットが王位に就くとなるとかなり不安ですが、フォーティンブラスは、クローディアスやハムレットよりちゃんと統治してくれそう……。

 

ホレーシオとオフィーリア

ペプター・ルンクス(?Pepter Lunkuse)のホレーシオは同級生的で明るく賢い女性になっていて、登場時はなるほどこれはありかと思いましたが、後半に行くにつれて違和感が大きくなり、最終場面は腑に落ちなくなってしまいました。バディ感はあったと思うんです。でも、1つは友人感が強すぎて、ホレーシオが後を追って死にたいと言うことにも、王位継承も含めた後のことを任せるのにも、臣下感が足りないのかもしれないと思いました。男女の友人となると、その臣下感と友人感の重なりを出すのが難しくなったのかもしれません。もう1つは、女性が男性の後を追って死にたいと言うと夫婦的または恋愛的繫りを想定したくなる一方、この版では友人同士に思えるし彼女自身も健全に思えるキャラなので、死のうとするのが納得しにくくなりました。ただ、男女でなくても現代設定にすると納得しにくくなる展開かもしれません。

 

また、これも単に私の好みかもしれないものの、キャラ的にホレーシオがオフィーリアより魅力的に思え、オフィーリアの存在感や、ハムレットとオフィーリアの関係も薄まってしまうように思いました。こちらのオフィーリアがあまり葛藤なく父親ポローニアスの言いつけ通りに行動してしまういわゆる良い子の印象で、ハムレットからのラブレターをクローディアスやガートルードの前で彼女が読みあげてしまうなどややデリカシーに欠けるようにも精神的に幼くも見えて(原作で読み上げるのはポローニアス)、余計にそう感じます。尊敬でき対等に話せるホレーシオでなく従順なオフィーリアを恋人にするハムレットということになり、オフィーリアに対するハムレットの恋愛の切迫感や両価性も萎んでしまう気がします。尼寺の場も台詞が省略されてあっさりめで、2人の感情のありかが私には今ひとつわかりませんでした。尼寺へ行け、と言った後、ハムレットの方が司教コスチュームで狂気を装うのは一寸面白かったですが、尼寺の場で悲劇が感じられないと、オフィーリアの狂乱の場も、墓場でハムレットが彼女を愛していたと言う場面も、あまり響かなくなるように思いました。狂乱の場面は、オフィーリアがチェロを演奏しながら歌う形になっているのに(多分マタイ受難曲のコラールのメロディーで、これも意味があるのかもしれません)勿体ない気がしました。

 

以下のデイリーメールのレビューは、狂乱の場も高評価で、オフィーリアが子どものような犠牲者ではなく裏切られた知的な女性になっているとしていますが、私の印象はむしろ逆で、裏切られることになった恋愛や彼女の成熟を感じ取ることはできませんでした。知的とした理由は書かれていないもののチェロを弾いたり穏やかな雰囲気だったりするところかと想像しますが、その点が私には、おとなしいお嬢様の印象になったという違いがあるかもしれません。

 

www.dailymail.co.uk

 

墓場の場面にも省略が入るので、オフィーリアの死の知らせとレアティーズの敵討ち決意場面の直後に、(台詞なしで仕草のみの)にこやかに雑談するハムレットとホレーシオのシーンになったのも強い違和感になりました。原作ではこの間に墓掘2人のコミカルなやりとりが入ります。ハムレットとホレーシオは軽口を言い合いますが、それは墓掘2人のジョークを受け、それに対するものになっています。ですが、この版では墓掘のジョークに向けられたものというニュアンスが消え、少し前のオフィーリアの狂気の場にホレーシオは居合わせているのにただハムレットとの再会を喜び笑い合うような場面になってしまいます。もしかしたら異化効果的な狙いかもしれませんが、墓掘2人のジョークが省略されることで随分印象が違い、しかも嫌な感覚を残す気がしました。

 

様々な工夫を面白く感じるところはありつつも、それが話の展開や登場人物の心情を却ってわかりにくくしてしまった面もあるように思います。登場人物たちがよくスマホを使うなど現代的な味つけもありますが、それも同様の印象です。ハムレットがガートルードの早期の再婚を不義と怒ったり、ポローニアスがハムレットとオフィーリアの恋を貞操の点で心配したり、クローディアスが芝居で狼狽えるのが証拠と考える等々、現代人の行動としては色々無理がありますよね。その辺の無理が演出的にうまく調整されないままに時代が現代にされているように思い、ちぐはぐ感が残ってしまいました。