『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

演劇ユニット戯曲組『令和X年のオセロー』感想

演劇ユニット戯曲組、吉村元希、作・演出・主演。

配信あり9月10日まで。

https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=67823&

 

『オセロー』へのアンサーソング(というかアンサープレイ??)のようでもあり、批評的読み換え的にも思える作品でした。本編は1時間強ぐらいだと思います。配信もアルテイシアさんをむかえたアフタートークつき。13時の会の方では、本作解題と『オセロー』のフェミニズム批評のようでそこも聞き応えがありました。17時の配信にもアフタートークはあるそうで、こちらは男性の辛さにも言及されているとのことです。

 

シェイクスピアの四大悲劇の一つとして有名な『オセロー』を、ジェンダーギャップの観点から翻案し、またそれを身体によって表現する舞台」と公式紹介文にあるように、人種というよりは、女性に対する支配を中心に再構成した印象です。あるいは、人種問題を含めて、男性間にあるまた社会の中にある差別や抑圧に男性自身も傷つきつつ、その救いを女性に求めたり、その傷つきを女性を犠牲にする形で癒そうとしたりする、そんな『オセロー』の構成を明確化した感じがしました。オセローにとっては人種差別や幼少時の故郷の破壊と放浪、イアーゴにとっては彼の身分の低さのために業績が評価されず昇進を横取りされたこと(と彼は思っている)、キャシオーは身分は高くても男らしさコンプレックスがあるかもしれません(酒に弱い、戦場の経験がろくにない)。人種はその1つという扱いに思えました。確かに『オセロー』はそんな風に読めますよね。

 

spice.eplus.jp

 

吉村脚本によるオリジナル部分はありますが、中盤はデズデモーナの場面を中心に彼女を主役にした『オセロー』演出・上演のようでもあります。仮に今回のオリジナル部分なしに原作を刈り込んでデズデモーナを主役に演出してもちゃんと成立しそうに思え、そこも発見的な驚きがありました。

 

以下のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのカーン版やナショナル・シアターのハイトナー版は、軍の暴力性を強調していましたが、吉村版(創作ですが敢えてこう書かせて下さい)は、軍に限らず暴力性がもっと普遍的で多面的で、男性も被害者である面も示しつつ、それが更に女性の抑圧・支配・暴力に向かうことを見せたように思います。加えて、オセローがイアーゴに騙され不倫疑惑を抱く前から、デズデモーナとオセローの関係の危うさや歪みが示唆されるようでもあります(やや創作部分や演出にも関わることなので、ここは画像を挟んでもう少し書きます)。その点で序盤の2人の関係を理想化するストラトフォード ・フェスティバルのウィリアムズ版とも解釈が異なります。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

これら3本のデズデモーナ(特にRSCカーン版)は、彼女の主体的・能動的な面に注目させ、そんな彼女がどう暴力に絡めとられてしまうのかを描いた感じだとすれば、吉村さんのデズデモーナは、おっとりふんわりしていて、彼女が対象化された存在であることを強調しているように思えました。原作でやや口ごたえ的に弁解している箇所すら少し減らされていて、オセローが一方的に彼女の振舞いに意味を読み込んでいるのが際立つ印象です。女性支配を問題化する方向は同じであっても、描き方は対照的と言えるかもしれません。

 

個人的にはオセロー役(正確には「男1 オセローと名乗る」)の、西本泰輔さんがとてもよかったです。こう書いてきて“オセローがよかったって何!?”と言われそうですが、こんな構成の『オセロー』なのに、わかりやすい暴力性や悪役感はなく、真摯で誠実にみえるオセローなんです。デズデモーナ殺害場面でも、彼自身は彼の論理でデズデモーナを愛しているんだろうと思えて、そこにむしろ怖さと虚しさを感じてしまい、その見せ方が素晴らしいと思いました。

 

そしてエミリアの台詞はやはりいいなと思いますね。原作からしていいと思うんですが、その原作のよさをうまく引き出す省略や強調がしてあり、中山侑子さんの落ち着いた語りによって説得力が増したと思います。夫イアーゴへの感情的反発という形ではなく、デズデモーナの思い込み≒世間の価値観への問いかけ的な台詞にされたこともよかったし、原作を補完するあるいは返歌的に追加されたオリジナルの台詞もよかったです。

 

若干演出ネタバレ的ですが、ビアンカも兼ねる女性3人と、原作ではデズデモーナの(柳の歌の箇所の)台詞で語られるだけのバーバラの登場も興味深く観ました。シェイクスピア連想では、女性3人が『マクベス』の魔女的な感じに思えますし、バーバラとデズデモーナが重ねられて亡霊っぽく見えます。加えて、バレエを思わせる衣装+トゥシューズなので『ジゼル』的だとも思いました。私はどうも何かと『ジゼル』を連想しがちなのですが、今回は、先に亡くなっていて柳の枝を持つバーバラがミルタ、3人の女性がウィリー、殺されたデズデモーナがジゼル。でも恋人の命乞いをするジゼルでなく、ウィリーになってしまうジゼルという感じ……。トゥシューズについては「“⼥性はこうあるべき”と定められた美しさの象徴」ともされていて、身体の抑圧も含意される衣装になっています。アフタートークでは纏足が掛けられていることも語られました。観ていてそういう意味にしているだろうことは推測でき、元々はエアリーな存在を表現するために工夫されほぼ女性だけが履く点ではその掛け方に納得できるのですが、一方で、トゥシューズはトレーニングして足が強くならないと履けず、動きの可能性を広げる点で纏足との重ね合わせは微妙に思う部分もあります。(現在のバレエについては、シューズより、痩身や体重制限の方が纏足的な気がします。)

 

更にややネタバレ的な話を画像を挟んで書きます。

Unsplash Markus Spiske

 

上で書いたように、カットされていても中盤は原作『オセロー』の感じですが、プロローグのようなオリジナル場面があり、死後のデズデモーナとオセローらしき男が出会う場面で始まります。でも2人とも記憶がなく、その後の本編が、リンボでの2人の関係の繰り返しのようにも思えます(いつものように妄想的感想ですが)。原作にある、オセローの身の上話を聞いたデズデモーナが「かわいそうに」と言って2人に愛情が芽生えた場面は、2人のやりとりで実際に演じられます(原作ではオセローが語るだけ)。死後であろうデズデモーナからの始まり、「かわいそうに」と言うデズデモーナに救いを見出したようなオセローが、とても美しいシーンなのに既にやや危うく見えます。深く話を聴くデズデモーナの資質は美点である一方、“オセローのメンタルケア役割をしてしまっているな”とも思いました。また、アフタートークでは若いデズデモーナと倍くらい年齢の離れたオセローの関係が「グルーミング」とも言われていました。

 

2人の関係に危うさは感じるものの、デズデモーナの結婚が、魔法で誑かされたものと彼女の父から悪様に言われるのも板挟み的です。ここは原作通りですが、台詞・場面の前後の入れ替えと、父親の非難をデズデモーナが一緒に聞くシチュエーションにしたことで、原作ではオセローへの偏見に思える台詞が、ここではデズデモーナの判断力を否定するものにも聞こえます。ここもなるほどと思いました。そう、確かにデズデモーナの判断も正しいとは言い難いものの、魔法で誑かされたと言われたらそれも彼女を否定するものだし、父親による支配も窺わせます。

 

終盤では、原作の「あなたは何者だ」「あなたの妻」の台詞を使いながら、エミリアに「ここにいるのは最初から最後までずっとデズデモーナ、あんたの妻なんて生き物は存在しないのよ!」とそれを否定するオリジナルの台詞を語らせています。原作では更に、デズデモーナ自身が「貞淑で忠実な妻」とまで言っていてむしろそこに重点がありますが、今作では当然“オセローのもの”でもなく、社会的な地位に相応しく振舞うことが重要であるのでもなく、(仮にどういう行いをしようと)彼女自身に価値があるのだと思わせます。また、今作エミリアはデズデモーナに対して「見てはいけないと言ったのは嘘だった、見なくちゃいけなった、いろんなことを」と言っています。“見ない方がいい”的な台詞は原作にはない気がするので、こちらは原作でエミリア自身が見ていなかったことを示唆したオリジナルの台詞なのでしょうか。

 

やはりオリジナル部分でキャシオーが有害な男性性を否定する見込みのあるキャラにされているんですが、原作キャシオーって、女性を遊ぶ女と敬える女に分けて遇する感じがあって、この作品でキャシオーをここまで見込みのあるキャラにしていいのかなとは思いました。

 

最終部は『オセロー』をひっくり返すような結末です。シェイクスピアに引きつけすぎかもしれませんが、やや『マクベス』や『リチャード3世』的なニュアンスがある気も……。