『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

MARQUEE.TVのシェイクスピア・コレクション(3)

期限のある無料配信を追っていたら、MARQUEE.TVはほとんど見ないままでまた1ヶ月経ってしまい、まだ結構観ていないものがあるんですよね……。今回は『十二夜』と『お気に召すまま』の感想を書きます。『十二夜』の方はナショナル・シアターの感想も併せて入れました。

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー十二夜』 (とナショナル・シアター『十二夜』)

 シェイクスピア・コレクションの方には、Christopher Luscombe演出のRSC版が入っています。ヴィクトリア朝時代の設定で、衣装や装置の美しさも見所です。『薔薇王の葬列』ではなく森薫先生『エマ』風味という印象です。“それ、同じなのはヴィクトリア朝っていうだけじゃ……“と言われそうで、その通りなんですが、Dinita Gohilが演じるシザーリオは上品でやや控えめ、インド系です。身分的には『エマ』のハキムに近く(王族ではないですがそれなりに高い身分)、オーシーノー公爵との関係ではエマとかエレノアのように見えました。オーシーノーに密かな想いを寄せ、でも彼がオリヴィアを愛している以上、自分は引かなければと忍ぶ感じのシザーリオというか。
 

シザーリオ(ヴァイオラ)、セバスチャン、道化フェステが衣装も含めてインド系です。シザーリオがインド系の設定やキャストになったことついては、RSCの解説ページではヴィクトリア女王のインド人従者アブドゥル・カリムからインスピレーションを得たとありました。ハキムにもこのオマージュがあったりするのでしょうか。

 

音楽はミュージカル風で、下の解説によるとギルバート&サリヴァンをヒントに作曲されたそうです。この辺も時代設定と合わせて凝っています。

 

www.rsc.org.uk

(『薔薇王』民の皆さまは、プラトニックな関係も指摘される、女王と従者に何かツボを刺激されたりしませんか、しませんか……。)

 

オリヴィアに求婚するサー・アンドリューが不自然なほど高齢だった他は比較的スタンダードな作りかなと思いながら観ていましたが、……そうじゃなかった!この作品にも驚きました。ひょっとしてRSC『ヴェニスの商人』と同じ演出家?と思いましたが違っていて、違うとわかると確かに全体の雰囲気は異なる気がします。

 

シザーリオは女性寄りの造形の気がしました。シザーリオもオリヴィアもとても美人で、その分オリヴィアとのシーンがなんだか対決的に見え(オリヴィアが自分の顔を“悪くないでしょう”と言い、シザーリオが“美しいです、自然の造形なら”と返すところに一寸トゲがある)、シザーリオの対応も冷たく思えます。抑えている分、嫉妬も抱えていそうで、恋する女性の煩悶という感じ。オリヴィアは毅然としていますが、サー・アンドリューが明らかに釣り合わない高齢設定なのは、オリヴィアにもそれなりに結婚の圧力があってそれをかわそうとしていたという示唆なんでしょうか。(単にサー・アンドリューがそんなこともわからない、いいカモということかもしれませんが。)

 

ナショナル・シアターのゴドウィン演出のシザーリオは、もっと少年っぽくて人懐こく、オリヴィアからぐいぐい来る求愛に“え?!困った!”が前面に出ていた気がします。NTゴドウィン版はシザーリオもオリヴィアもかわいい感じだし、オーシーノーも明るくて人好きのするタイプで対照的です。台詞にはない演出で、彼自身がオリヴィアの館にプロポーズに行って追い出されたりします。

 

Luscombe版のオーシーノーは、ある意味で台詞通りですが憂鬱感があって、でも最初からオリヴィアを本当には愛していないようにも見えます。これぐらいまでは書いてもネタバレにはならないかと思いますが、その辺も伏線だったか、という感じ。オーシーノーとシザーリオの前で道化が歌う、失恋を主題にした歌“Come Away, Death”は、オーシーノーのおつきの者達が歌う形に変更されていて、これもこの物語の線に沿う変更だと思いました。

 

セバスチャンを慕うアントーニオが、外見的には 『エマ』メルダース氏風で、パトロン的な感じがする『ヴェニスの商人』の方のアントーニオに近い印象でした。アウトロー的で侠気があって身の危険も構わずというアントーニオが(私の)原作イメージなので、年配の紳士が若いインドの青年を追うのには微妙な気持ちを抱かされますが、その辺もきっと演出上の効果なのでしょう。

 

オリヴィアの執事マルヴォーリオが規律にうるさく居丈高なので、それに反発した侍女や道化フェステたちが、オリヴィアからのラブレターと思わせた偽の手紙で彼を騙すのですが、このプロダクションを観て、手紙の“字がオリヴィアのものにそっくりだった”のも話と掛けられているのか、と初めて気づきました。そこでも見目での取り違えが起こっていたんだな、と。そして、Luscombe版では、マルヴォーリオを騙したことが報復でもあったことを語る道化フェステの台詞に、背景としての人種差別が示唆されているように思いました。“俺も騙した一味だけど、あんたも悪かったんだよ”と軽く白状する形ではなく、かなりシリアスな語りにされています。(マルヴォーリオのシザーリオへの対応にも人種差別を思わせるところがありました。)フェステは、原作的にも大人な知恵者の風情がある道化ですが、女主人に仕える外部者的な立ち位置は、一番アブドゥル・カリムに近いのかもしれませんね。

 

フェステのこともネタバレと言えばネタバレですが、肝心なのは別のところなので!

 


Twelfth Night | Feature Trailer | Royal Shakespeare Company

 

ナショナル・シアター『十二夜

比較で、NTゴドウィン版の『十二夜』感想も。NTゴドウィン版は、ほろ苦だけれど優しい『十二夜』の感じがしました。こちらの記事で、『十二夜』には恋が叶わなかった人もいる、と書いたんですが、その人達に焦点を当てた演出です。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

そして、だからこそ(?)、マルヴォーリオ(こちらではマルヴォーリアになりますが)が主役の感がありました。マルヴォーリア役のタムシン・グレイグが宣伝や批評でも大きく扱われていているのですが、観劇後は納得です。マルヴォーリオを女性にすることにも驚きましたが、マルヴォーリオが主役になる芝居にすることができることにも驚きました。以下の記事では、グレイグが最初はオリヴィアをオファーされて断り、マルヴォーリア役の受諾もかなり考えたと書かれています。

 

www.theguardian.com

Youtubeのインタビューを見たら、女性役にすることを最初からゴドウィンが想定していた訳ではなかったことがわかりました。演出家のアイディアと思っていましたが、“男性役のまま女性が演じる、シザーリオと同様男装の女性にする、インターセックスである”など、ゴドウィンと共に試行錯誤を重ねる中で、女性役にすることでグレイグも腑に落ち、新たな解釈もできたということらしいです。それでもビアン設定になるのは問題がないか(騙されて馬鹿にされる話なので多分PC的にということでしょう)緊張したということでした。マルヴォーリオを女性キャラにしたのは初めてらしいですが、マルヴォーリオが主役に見えるプロダクションはこれまでにもあったのでしょうか……。

 

NTゴドウィン版は、マルヴォーリオ、道化フェステ、ファビアンを女性に大きく改変したにもかかわららず、物語の構造はそこまで変えないまま、報われない恋に焦点を当てた感じがしました。悲しみに座り込むマルヴォーリアだけでなく、アントーニオ、オリヴィアの家から出て行くサー・アンドリューに、道化フェステが歌う歌が切なく響くような幕切れです。(ゴドウィン版のサー・アンドリューは、サー・トビーに失恋したのではとも思えました。)サー・アンドリューがこんなに可哀想に見えた版も、同時にこれほど彼に愛を向けた版も私には初めてです。

 

それに対してLuscombe版は、こういう大きな改変はないのに物語を変えてしまった感があります。部分的にはゴドウィン版でも同様に物語を変えたところはあると言えそうですが、ゴドウィン版は視点の変更、Luscombe版は物語の変更という気がするんです。Luscombe版の内容を書かないままでこんな風に言ってもというところはありますが。

 

Luscombe版もゴドウィン版も、マルヴォーリオに対するいたずらを(途中までは笑えますが)、ばかばかしいものというより人を傷つけるものとして扱っており、Luscombe版は上で少し触れたように、このシーンでマルヴォーリオの怒りと道化との対立を見せます。ゴドウィン版も対立的なところは見られますが、それ以上にこのいたずらがどれだけ酷く、対面や誇りを傷つけるものというより愛情を弄ぶものになったかを示したように思います。ゴドウィン版の『十二夜』の世界では、同性愛自体に忌避がある訳ではないようでしたが、最初からその愛を諦めている人に憧れの人からと偽ったラブレターを受け取らせる訳ですよね……。マルヴォーリアを女性にし、オリヴィアとの恋に夢中にさせたことは、叶わなかった恋の切なさを増幅させるように思います。

 

マルヴォーリアの歌って踊ってのすごい見せ場があるせいもありますが、こちらに焦点が当たると、原作では主役のはずのヴァイオラの恋の成就が脇の話にすら見えてきます。ヴァイオラの話というよりは、マルヴォーリオを中心とする群像劇になる感じです。

 

いたずらに荷担したとはいえ、道化フェステ(ここではフェスタ)が、多分恋の酸いも甘いも噛み分けた姐さんで、しかも雇われているオリヴィアの家から勝手に出て行って酒場をふらふらして、世間から外れた感のある造形にしたのもこの設定とすごく合う変更だと思いました。こちらの方は、フェスタがオーシーノーの館でアドバイスするかのように歌ってこそ、ですね。

 

ところで、こちらはシザーリオとセバスチャンが黒人キャストだったんですが、あまり人種は気にしないで観ていたことをLuscombe版を観て改めて気づいたりしました。むしろマルヴォーリオを女性にした方に驚きましたし、シザーリオ役、男の子みたいでかわいくてぴったりという方が先に来たんですよね。俳優の出演機会などの違いなのか、あるいは、ゴドウィン版は場所も曖昧な現代的な設定で、Luscombe版では衣装もインド的装束にするなど明示化していたせいでしょうか。一寸観る側も問われる気がしましたが、前記事に書いた、ブルック版のレスター・ハムレットとゴドウィン版のエシドゥ・ハムレットの違いみたいなものですかね……。同じゴドウィンの演出でも、人種を意識する場合とそうでない場合があるなと思いました。

 


Official Trailer | Twelfth Night featuring Tamsin Greig | National Theatre at Home

 

 

シェイクスピアズ・グローブ『お気に召すまま』

こちらは、衣装も時代設定も配役も、正統派な感じがする作品です。音楽については現代風、グローブ座らしく最後は踊りが入ります。

 

ナオミ・フレデリックが演じるロザリンド=ギャニミードは、声などは下げたりはしていませんが、かなり背も高く、RSC のLuscombe版『十二夜』を観た後だと、振る舞いが男の子っぽく感じられました。ギャニミードの時は表情がいたずらっぽくなって、それが魅力的。で、『十二夜』と『お気に召すまま』って、同じように男装の女性が主人公であっても、主人公の立ち位置が全然違うんだなと今更ながら思いました。

 

十二夜』のシザーリオは、他の女性を愛しているオーシーノーに本当の自分を明かせない苦しい立場ですが、ギャニミードは、オーランドーに対してすごく優位で、多分ロザリンドでいる時より自由でわがままなんですよね。(Luscombe版の『十二夜』との比較で特にそう思ったところはあります。)少しの遅刻を詰ったり、食事に行くというオーランドーにすねてみたり。オーランドーに初めて会った時の女性としてのロザリンドはお嬢様らしく彼に対応していて、ギャニミードの時と振る舞い方が違うんです。シザーリオは男性の振りはしますがこんなに自由には振る舞っていませんし、『恋の骨折り損』とか『空騒ぎ』では女性達はそのままで結構言いたいことを言っているので、男装によるものというより、これが『お気に召すまま』やロザリンドの持ち味かと思います。

 

本人がギャニミードとしてロザリンドの振りをしているはずなのに(ややこしい!)、違う魅力を持っているように見えます。オーランドーがロザリンドを理想化して、“ロザリンドはそんな風じゃない”と言ったりしても、“僕があなたのロザリンド”と返して、一方では友達として、他方では振りでの恋人として急接近できている。オーランドーがギャニミードの機嫌をとったり、愛を語ったりしていると、必ずしも“振り”ではなく、ギャニミードとの関係も楽しんでいるような、こそばゆさというか、甘さと危うさがありますね。