『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

MARQUEE.TVのシェイクスピア・コレクション(4)

たまたま直近に観た2作品ですが、現代的な衣装・装置なのに史劇的で古典を感じさせる『マクベス』と、古典的な衣装・装置なのに現代的な家族問題を感じさせる『リア王』。一寸意外な感じです。

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー 『マクベス

(正確にはこちらはシェイクスピア・コレクションの中ではなく、Theater内のRSCのカテゴリーに入っています。) 

 

演出は『ヴェニスの商人』で驚かされたポリー・フィンドレイ(Polly Findlay) 。この門番怖い……という『マクベス』。門番と魔女はややホラー風味、全体的には、王権をめぐる史劇のテイストを感じる『マクベス』です。下のTrailerで見ていただけるように、魔女たちがShakespeare’s Globe版より更に幼い女の子達で、観客が言っているように可愛いけど不気味。

 

通常、というか原作的には門番は道化的存在だと思いますが、このプロダクションでは(ほんの少し笑いは起きていましたが)コミック・リリーフではなく、まさに地獄の門番でした。ふざけた台詞が同時にこんなに不気味だったんだと気づかされます。

 

クリストファー・エクルストン演じるマクベスは、壮年で、実力的にも王に一番近いと思わせる人物です。マクベス本人も実力に裏打ちされた自信を感じさせ、また、マクベス夫人が『ヘンリー6世』のマーガレットのような、夫以上に情勢を読んでいるやり手な雰囲気です。言を弄してマクベスをその気にさせる所は政治家のよう。ダンカン王は老いて車椅子、その息子マルカムはまだ若い、そんななか、政治的計略で王位簒奪に行く感じです。暗殺前にマクベスが悩むところも、良心の呵責というよりは、やはり『ヘンリー6世』でヨーク公がヘンリーに謀叛を起こすタイミングを計って一旦気持ちを抑える時のように、王位奪取の時期や正統性に考えを巡らせているようにも思えます。

 

終盤にマルカムが攻めてくる時も、マクベスの周囲に前半からの臣下がまだそれなりに残っていてマルカム軍に拮抗しているように見えます。王位のために殺人を重ね、内面的にも政権的にもボロボロになったマクベスに鉄槌を下す戦いというより、軍対軍の戦争、王権闘争の印象が強まります。

 

Shakespeare’s Globe版とは異なり(笑)マルカムは原作イメージそのままの感じでしたが、マクダフが武官でなく文官的キャラだったのが意外でした。対決場面が大丈夫なのかと思ってしまうほど。

 

マクベスの最期についてはやや意外な展開で、小田島雄志訳とは順序とニュアンスが違うので台詞も変更されているのかと思っていましたが、この後に観た、2007年のグールド演出、パトリック・スチュワートマクベスもこれと似た最期でした。2本観た後に改めて確認しながら原文を見て、原文のままこういう台詞の解釈ができることに納得しました。具体的なことを書かないままでは意味不明だと思いますが、ここはネタバレを避けたいので敢えてぼかしています、すみません。

 

英語力のなさもあってこんな誤解をしておいてアレですが、下の『リア王』も含め、シェイクスピアの台詞は本当に多様な表現に開かれているんだなと改めて思いました。

 

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Macbeth | Feature Trailer | Barbican, London | Royal Shakespeare Company

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー 『リア王

Gregory Doran演出。演出のせいでしょうか、この数日前にハイバイの『て』を観たせいでしょうか。(『て』は、認知症の祖母の家に集まった家族を、それぞれの視点から描いた現代の物語です。これもすごい作品でした。)こちらの『リア王』は衣装も昔風でその点では正統派なのに、特に前半が横暴な親に抑圧されてきた子の怒りの表明みたいな、もう全然違う物語のように見えました。リア王の長女ゴネリルやグロスター家の庶子エドマンドに、すごく肩入れして観てしまいます。人物それぞれの立場で感じることが違うんだろうなと普段以上に思いました。

 

ware.mobi

 

『て』のネタバレ的なことを書くのは控えたいので、わかりにくい記述になってすみませんが、ゴネリル視点に立てるこの演出が従来の『リア王』との関係でも『て』みたいだな、と。台詞はそのままなのにそれを引き出した演出もすごいですしシェイクスピア作品のポテンシャルってすごいと思いました。視点によって違って見えることが組み込まれた作品だと再認識します。

 

MARQUEE.TVの『ハムレット』と4人のキャストが重なっており、エドマンドがハムレットのPappa Essiedu、コーディーリアがオフィーリアのNatalie Simpson、フランス王がレアティーズのMarcus Griffiths、他に老人役で先王の亡霊役の方も出ていました。

 

ハムレットの時も思いましたが、Essieduはどこか傷つきやすそうで人好きのする魅力がありますね。嫡子の兄エドガーを陥れてやるという最初の独白でエドマンドにすっと同情してしまいます。Simpsonは、コーディーリアもオフィーリアも現代的な女性像に近づけていると思いました。コーディーリアがはっきりと自己主張する感じなのは新鮮です。愛情を示せと言われて何も言わないことは、確かにそう解釈することもできますね。レヤティーズのMarcus Griffithsも素敵だなーと思っていて、出番は少なめながら今回のフランス王もかっこいい……。

 

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(この記事ではオフィーリアが現代的なことは書いておらず、逆の印象を与えそうですが、ハムレットに対しては、Simpsonオフィーリアは結構自己主張しています。そのため少しだけ原作の変更箇所もあります。)

 

MARQUEE.TVの作品については、なるべくネタバレを避けてきたつもりなんですが、ゴネリルとグロスター家の兄弟のことは、以下でかなり詳しく書いています。ご了承下さい。

 


Cinema Trailer | King Lear | Royal Shakespeare Company

 

真面目な長女が父の対応に苦労して爆発する感じなのは、ストラトフォード・フェスティバル版でも類似でしたが、RCSのDoran版ではリア王の横暴さもゴネリルの抑圧描写もそれ以上。リア王は最初からかなり高圧的で唯我独尊のように見えます。(とはいえ、コーディーリアはあまりそう思っていない様子。)ゴネリルは、父・リア王の横暴と家内のまとめに苦労し、父や夫の言いなりになることをやめた人物のように見えました。

 

最初にリア王が娘達に自分への愛を語らせるとき、Nia Gwynneのゴネリルはすごく複雑そうな面持ちで愛を語ります。美辞麗句というよりその場をやりすごすための内容のない言葉に聞こえます。その後も固い表情で、ともかく平穏に遺産分割のセレモニーを終わらせようとしている様子でした。ですが、そんなところで「言うことはなにも(nothing)」と波風を立てる末の妹コーディーリア。このコーディーリアは、誠実さゆえに軽々しく愛を語らないというより、現代っ子的な割り切り方で形に捉われなくていいだろうと思っている風です。(モダナイズした演出でないのに「現代っ子」って変ですが、このコーディーリアは、割と明るくてさばさばしていて、周囲からはそう見えそうだなと思いました。そしてゴネリルは、狡猾で強欲な人ではなく、登場時は権威的な父親に怯えている人で、その点でコーディーリアと違うんです。通常とは逆と言ってもいいイメージですよね。)ゴネリルはその時も“もうなんでそんなこと言うのよ、この娘”と言いたげに、成り行きを冷や冷やしながら見ていました。

 

コーディーリアとの別れ際も、ゴネリルは彼女への心配や愛情を見せます。 “Let your study be to content your lord, who hath received you at fortune's alms. You have obedience scanted, And well are worth the want that you have wanted.” は、小田島版では「慈善のつもりでおまえを拾ってくれたご主人をせいぜいだいじにするんだね。お前には従順さがない、おまえが失ったものは失って当然、矛盾はないよ」ですが、頬に手をやり諭すように “ご主人を満足させるようにしないとだめよ。従順じゃないから、遺産ももらえなかったでしょ。”というニュアンス。“well are worth the want that you have wanted.”の箇所は、こんな事態になったことにゴネリルにも悔恨があるのに、“コーディーリアのせいで仕方ないんだ”と自己正当化している感じなんです。また、ゴネリル自身がそうやって我慢してきたんだろうとも思える言い方です。

 

屋敷の場面ではゴネリルが貧者に施しをしていたりして、情や責任感、生真面目さも感じます。父リア王はその生活を乱したり屋敷の者に乱暴したりの勝手な振る舞いで、多分リア王にしてみれば以前からの生活を続けているだけ(多少は抑えているかもしれない)なんですが、ゴネリルは屋敷の者も守らなければなりません。それなのにゴネリルが嗜めても父は暴言を吐く……。同居トラブルに加え、きっとゴネリルは豪放な父とは反りが合わず、これまでは距離を取って何とかやって来たんだろうと勝手な想像が広がります。夫オールバニ公爵は真っ当そうなことを言うだけで彼女の気持ちをわかってくれず、ゴネリルはキレ気味です。

 

普通に読むと、あるいは従来の解釈では、ゴネリルは父を大切にすると綺麗事を言って領地を相続したのに、父を軽んじて父が屋敷から出て行くように仕向け、オールバニ公がそんな仕打ちに多少の異議を唱えても意に介さずといったところだと思います。

 

ですが、Doran版では、まさに「従順ではな」く自分のしたいようにしているのはコーディーリアという解釈のような気がします。で、これは原作通りですが、フランス王は、自分を貫くコーディーリアをそのまま認め、リア王にあなたが間違っていると言うんですよね。しかもかっこいいフランス王が。フランス王も様々で、彼がコーディーリアよりかなり年上だったり、そこまでじゃない外見(すみません…)だったりすると“コーディーリアは慎ましく内面を大切にするんだな”と思えますが、父のおかしな命令に従わず、結果、財産をもらえなくてもそんな彼女を好きだと言ってくれる素敵な王から求婚です。コーディーリア、もうほとんど勝ち組。ゴネリルはそれを見ているわけです。ゴネリルの方はと言えば、父の期待通りの発言をして領地を得て、オールバニの資産も増やしているはずなのに、後日彼女が父を諫めて父の家臣を減らした時、夫からお前の肩を持てないと言われてしまうんですよ……。『て』補正が入っているかもしれせんが、わー、こんな対比になっていたとは!と思いました。

 

後半のゴネリルの行動は酷いことは酷いですが、前半を見ていると、父の件で夫との関係にも失望し、エドマンドとの恋愛(エドマンドの方は二股の打算でしょうが)で箍が外れてしまったのかなと同情的に解釈してしまいます。

 

そのエドマンドも鬱屈を抱えている人です。こちらも、そもそもグロスター伯爵がひどい父親で(正統な地位を与えてもそれほど可愛いと思っていない嫡男エドガー、可愛がっていても庶子で恥の存在とされるエドマンド)、それをエドマンドが恨んで突け込むのもわかる気がします。このエドマンドは、嫡子エドガーとの扱いの違いを不当とする独白の場面で、憎しみはもちろんこれまでの傷つきを感じさせます。対するエドガーは、まだ遊んでばかりでエドマンドに劣るように見える登場です。人がいいからエドマンドの悪意が見えていないというより、エドマンドの立場や気持ちを考えていない風。そんな雰囲気を一瞬で見せる演出!嫡男としての地位に安んじているようにも、きちんと教育されていないようにも見え、グロスター伯の台詞通りの2人への対応の差を感じさせます。善良なエドガーvs.色悪エドマンドという従来的構図とはやや違います。ただ、グロスター伯がエドガーの陰謀をあっさり信じてしまうことを考えると、確かにこの方が説得力があるかもしれません。どん底を経験して変化・成長していくのが素敵なエドガーで、Oliver Johnstoneの、その都度全く違って見える演技がすごいです。グロスター家の方の決着は、悲劇的でもどこかすっきりする感があります。

 

他方、リア王の家族については、今回、後半の放浪と狂気によってリア王を許していいのかと思ってしまったり、リア王の悲劇に回収されてしまうことに複雑な思いを抱いたりもしました。