『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

MARQUEE.TVのシェイクスピア・コレクション(6)

『薔薇王の葬列』宣伝アカウントで、以前読者投票企画で1位になった5巻17話をリツイートしていまして、この回、もしかしたら『じゃじゃ馬ならし』と『タイタス・アンドロニカス』を使っているかも、と以前の記事に書きました。偶々この2つを直近で観ていました。『じゃじゃ馬ならし』はすごく面白くて、辛くなっていく『薔薇王の葬列』14 巻の息抜きみたいな気持ちで、もともと感想記事を書きたかったのですが、嬉しい偶然なので『タイタス』も併せて書きます。考えてみると、『タイタス』も禁断の関係の中での妊娠話がありますね(これは『薔薇王』でのモチーフにはなっていない気がしますが)。こちらは逆にもっときついくらいで、引き気味の感想で恐縮ですが、色々興味深いところも!あったので!

 

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気持ちが乗った『じゃじゃ馬ならし』の方から。もしかしたら、自分は喜劇の方が好きなんじゃないかと思い始めている昨今です。

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーじゃじゃ馬ならし

(こちらもシェイクスピア・コレクションの方ではなくロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの方に新しく入った作品です。)

気性が荒く男達に疎まれるキャタリーナに、変わり者のペトルーキオが持参金目当てで求婚し、彼女を従順な妻にする話です。並行してキャタリーナの妹のビアンカをめぐって求婚者たちが恋の鞘当や滑稽な企みを繰り広げます。

 

じゃじゃ馬ならし』って、今や上演自体チャレンジングなところがあると思うんですよ。半分は怖いもの見たさで、半分はどう料理するのかとても興味がありました。Justin Audibert演出の2019年版の試みはすごく面白かったです!

 

よさを語るために他を落とす必要はないと思うものの、ストラトフォード・フェスティバルの『じゃじゃ馬ならし』もそんな関心から観て、“ああやっぱり難しいんだな”と一寸がっかりしたので、RSCのAudibert版の挑戦には余計に拍手を送りたい気持ちになります。(もし想像通り『薔薇王』で『じゃじゃ馬』が使われているとすれば、『薔薇王』での使い方もとてもうまいと思います。)『ヴェニスの商人』なども新しい視点を入れるからこそ面白く観られたりしますよね。SF版『じゃじゃ馬』も序盤で工夫はあったのですが奏功していない気がして、後半辛くなってしまい……。RSCのAudibert版の方は、(もやもやがなくなった訳ではなくても)最後まで興味深く観ました。エリザベス朝時代っぽい音楽と踊りで始まる雰囲気はシェイクスピアズ・グローブ的な感じも。音楽も素敵な作品でした。プロローグの酔っ払いの話はなしで、本編のみの上演です。

 

その演出・設定については下でリンクしたRSCのサイトにも出ていますし、コロナがなければ来日公演の予定もあったそうで各所に掲載されているのでいいかなと思って書きますが、そこが一番のネタバレでもあるので、知りたくない方は、この下の画像をクリックして下さい。

 

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James Dromgole Linton / CC BY-SA

 

 

Gender swapping Shakespeare on stage | Royal Shakespeare Company

 

で、ほぼネタバレの全てですが男女の逆転です。(よしながふみ先生『大奥』風?)MARQUEE.TV内作品や配信で観た作品では、脇役まで含めるとかなりの割合の作品で一部の男性役を女性役にしていますが、これはほとんど全役の逆転です。キャタリーナと妹のビアンカ(この版ではキャサリンとビアンコ)と未亡人役が男性設定、グルーミオ達ペトルーキオの家の従者は原作通り男性(1人だけ女性)、それ以外が女性設定です。仕掛けは単純ですが台詞のニュアンスが全然違って聞こえるなど、入れ替わるとどう見えるのかが新鮮です。『大奥』でも、元の話が違って見えたりしますよね。女性達のコメディエンヌぶりも楽しめました。人種はもちろん、障害のある俳優が2名という多様性もありました。こうしてみると元は男性割合が高かったんだな、と改めてわかります。キャタリーナ(と夫になるペトルーキオ)が主役と思っていましたが、実はビアンカをめぐる求婚者達のドタバタの方が主筋なくらい見せ場が多いことにも気づきました。これはもちろん当時の演劇・俳優の状況と関連するでしょうが、最近、日本の新政権との比較で各国の政権の写真がtweetされているのを見たりしまして、それを見るのに近い感慨でした。(そして逆に言えば、この現実(落涙)ってことですよ……。ガーディアン紙にも指摘されたし。)

 

ねたばらしついでに更に書いちゃいます。

 

ペトルーキオを女性が演じると、嫌な感じは残るもののなんだか原作キャタリーナのようで、やっぱり似た者同士のところがあるかもと思えます。服を仕立てる場面については、キャサリンをそこまで女々しく造形しなくてもいいんじゃないかと思った一方、原作で女らしくないと言われるキャタリーナなのに、最新のガウンを喜ぶなどそこは女性的に描かれているから不自然に感じるのかとも気づきます。話としてはDV・モラハラ的なので男女を入れ替えたからといってOKという訳ではないですが(やっぱりもやもやする)、太陽を月だと言い張るペトルーキオ(ペトルーキア)に話を合わせる場面などではあまり嫌な感じがしません。2人が最初に出会う時に互いに惹かれた演出になっているのでその安心感もあると思いますが、夫が静かな語り口で“君が月だと言うなら月だ”と言うと、従順さ(obedience)より愛を(私は)感じてしまいます。現実の方の男女関係や力関係でそう見えるところがあるのだろうと思います。

 

オーベロンとタイテーニアを逆にした、ナショナル・シアターのハイトナー版『夏の夜の夢』で、単に支配的な関係が逆転するのではなくオーベロン=シーシュースが愛を学ぶ形になったのと近いかもしれません。ハイトナーの『夏の夜の夢』はアテネの父権的な社会を強調していて、この『じゃじゃ馬ならし』の世界線とは異なりますが、Audibertの演出は原作や私達の現実との関係で、単に逆転だけではない違いを出している気がします。

 

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最後のキャサリンの語りも男性が言うとむしろニュアンス自体が逆に聞こえます。

 

Thy wife is thy lady, thy life, thy keeper

Thy head, thy sovereign; one that cares for thee, 

And for thy maintenance commits her body 

To painful labour both by sea and land, 

 

下線部が変更で、オリジナルの方の小田島版の訳だと

 

夫は私たちの主人、私たちのいのち、私たちの保護者、私たちの君主なのよ、だって私たちのためを思い、私たちが安寧に暮らせるよう、身を粉にして、海に陸に働き続けているのだから。

 

なのですが、(間違っているかもしれませんし、sea and landがあるので無理筋かもしれませんが)painful labourが「出産」のことに聞こえます。だからlife、keeper、sovereignとあっても全然嫌な感じじゃないんですよ。

 

I am ashamed that men are so simple

To offer war where they should kneel for peace;

Or seek for rule, supremacy and sway,

When they are bound to serve, love and obey.

 

でも、恥ずかしいことに、女ってなんてばかでしょう、ひざまずいて平和を求めるべき場合にかえって戦争をしかけ、愛を奉仕と従順を捧げるべきときに逆に権力と支配と統治を要求したりするのだから。

 

menに変わっただけで、“うん、ほんとにね”と思います。

 

Why are our bodies soft and weak and smooth,
Unapt to toil and trouble in the world,
But that our soft conditions and our hearts
Should well agree with our external parts?

 

女のからだがやわらかく、弱く、肌もなめらかで世間のつらい荒仕事にむかないのはなぜでしょう、やはり、私たちの気だてや心だてが外見と同じく、やわらかい、やさしいものだからではないかしら?

 

ここは台詞の変更はありません。でも、我々男性の体も(または人の体は、とどちらにも取れそう)そもそも辛い仕事には向かない実は柔らかな体だけれど、それは心情と一致するものなんだ、という男性の優しさと弱さと発見の台詞に聞こえます。

 

そして、私がチョロいのかもしれませんが、この語りがキャサリンからペトルーキアへの初めての愛の告白に聞こえました(原作的にもそういう位置づけかもしれません)。こうなると、もっとロマンティックにして暴力性を少なくできたんじゃないかとも思いましたが、上のサイトでAudibertは「伝統的な力のある男性役を女性が、男性が女性を演じたらどうなるのかを見たかった」、父親が娘達を売り渡してもショックではないのに、母親が息子達を売り渡すと犯罪的に思える(←持参金で結婚相手を決めようとしていることを言っているのだと思います)と語っており、敢えて力関係や支配性は残して実験的・問題提起的にしたということなのでしょう。何年後かには評価が甘かったという気持ちになるかもしれませんが、更に違う演出に出会ったり価値観がアップデートされているからだと思うので、それはそれで逆に嬉しい気もします。

 

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Edward Robert Hughes / Public domain

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー『タイタス・アンドロニカス』

どうしても苦手で後回しにしていた『タイタス・アンドロニカス』。河合祥一郎先生が、シェイクスピアの時代の宗教上の弾圧や処刑の残酷さは『タイタス』のようで、あれはリアルだというようなことを書かれていたのを読んで考え直すところはあったのですが、考えと感覚は別だったりしますね。1度しか観たことがなくて、今回、途中までは“あ、全然大丈夫!『薔薇王』と併せて読んで読み慣れてきたから?”と思ったのですが、そこまではそれほど残酷でなかっただけでした。やはりきついですね……、『タイタス』。(ちらっと映った客席で、皆顔をしかめていたので、きっと私だけじゃない……と思うんです。)一寸休みを入れて観たりしました。そんな無理しなくていいだろう、と言われそうですが、タモーラとアーロン(奴隷で愛人)がよくて発見的だったので、最後まで観たい気になったんです。

 

Blanche McIntyreの演出は、現代化していても、残酷さについてははっきりくっきりみたいな感じをもちました。以下、印象的だったタモーラとアーロンのことだけ書きます。

 

タモーラがRSC『リア王』でゴネリルを演じたNia Gwynne。今回のタモーラも原作イメージとはやや違って、役の背景を感じさせたり、異なる視点から見せてくれたりする演者だなと思いました。タイタスに復讐するために敵国の皇帝と即座に結婚しつつ、ムーア人の奴隷・アーロンを愛人にしているタモーラはエロティックで逸脱的な悪女の印象がありました。アーロンとの関係も原作で感じたのは肉欲的なイメージ。息子達がタイタスの娘を凌辱する時のタモーラの台詞もいい気味だと言わんばかりの冷淡なものに読め、息子達にそうさせて自分はアーロンに会いに行く箇所は嫌悪感を感じるほどです。ですが彼女が演じると印象が変わります。結婚がより政治的な決意に見えますし、タイタスの娘に対しても、復讐だと怒りながら一瞬彼女を助けそうになり、でも心を鬼にして息子達に彼女を渡します。その後しゃがみ込んで泣くんです。そこからアーロンのところに行く流れ。肉欲からでなく、アーロンに精神的に頼りたくなったように見えます。タイタスの娘の強姦や傷害は最悪で、タモーラの結婚は自分の意志によるものとはいえ、タモーラも、アーロンがいるのに、旧敵の本当は嫌だろう相手と床を共にせざるを得ない境遇か、と考えが広がります。

 

また、こちらのアーロンもそう思わせる造形です。(英語の台詞がちゃんと聞き取れていなかったせいかも、とも思うのですが。)原作アーロンには、タモーラの愛欲につけ込み、復讐に知恵を貸してのし上がろうとする典型的悪役のイメージを持っていました。こちらは、敢えての演出なのか演者の持ち味なのかわかりませんが、ぎらぎらした野心や色欲をあまり感じないアーロンでした。そんなに若くもイケメンでもなく(←ごめんなさい!)、タモーラと抱き合う場面では、台詞からすれば表面的かもしれなくても、むしろ優しさや暖かさを感じます。タモーラと皇帝との方が色仕掛け的で、タモーラとアーロンの方が夫婦のような精神的つながりがあるように見えました。また悪役ではあっても(シャイロックに似て)自分に対する人種的偏見に異を唱えてもいる役です。今回、アーロンが、タイタスには卑劣でもタモーラ達には誠実に見え、人種偏見に非常に攻撃的に批判しているところが印象的でした。考えてみれば、アーロンは自分の子どものために色々捨てて、結果的に自分を犠牲にしてしまう人でもありますよね。

 

ただ、現代化しているせいか、原作の元々のニュアンスなのか、タモーラと息子達が仮装してタイタスを騙す箇所は喜劇のようになっており、前半の悲劇展開やタモーラの陰影の意味が消えてしまう感じはしました。そして喜劇的な中で残忍な展開になると(その残忍さが批判されず、面白く提示されているように見えるので)個人的には更にきつく感じます。『タイタス』が苦手なのは、そういう構造があるからかもしれません。最後が演出的に原作と異なる形になっていて、こういう物語上での皮肉や残酷さはむしろ歓迎できるのですが。