『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

MARQUEE.TVのシェイクスピア・コレクション(7)

MARQEE.TVで配信されている、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの『リチャード2世』と『テンペスト』の感想です。目次のクリックで各箇所に飛べます。

 

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー 『リチャード2世』

2013年、グレゴリー・ドーラン(Gregory Doran)演出、デイヴィッド・テナント(David Tennant)主演。

 

DVDジャケットやMarquee.TVのアイキャッチにもなっているポスターは現代風ですが、きっちりコスチューム・プレイでした。生演奏の中世的なトランペットの音楽や美しい声楽も印象的な作品です。

 

先日記事をアップしたデボラ・ワーナー+フィオナ・ショウ版よりは『ホロウ・クラウン』版に近い印象の『リチャード2世』でした。『リチャード2世』のあらすじは以下の記事に記載しています。 

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

やんごとなくいかにも宮廷人の王と、無骨で武人風のボリングブルックってやはり定番なんだろうかと思いながら観ていました。『ホロウ・クラウン』を観たのがかなり前なので記憶と違っている可能性はあるのですが、『ホロウ・クラウン』のベン・ウィショーが不思議ちゃん夢想家系とすれば、デイヴィッド・テナントは、王位を譲るまではやや子供っぽい唯我独尊系の印象でした。王冠譲渡の場面でウィショー・リチャードに感じたのは、王位と切り離せない自分のアイデンティティ崩壊。テナント・リチャードに感じたのは、自分の神聖な王権にでなく力で奪った王権にあっさり靡く臣下や、そんな世の中への怒りと諦念でした。勿論、リチャード2世にも多くの問題がありますが、彼にはボリングブルック側がそう見えていたんだろうな、と。

 

Trailerはないようでしたが、RSC公式で、なんとこの場面の動画を公開しています。

 


Richard II stage footage | Act IV, scene 1 - the deposition scene | 2013

 

上の動画、ボリングブルックが偉そうじゃないですか?途中までは、捻りを加えない一番原作寄りの作品かと思いましたが、イングランドに戻ったボリングブルックは王位簒奪する気満々の豪腕な雰囲気で、こういう風にすることもできるのかと意外でした。(それでもちゃんと『ヘンリー4世』に繋がるように、彼がエルサレム遠征に行こうとしたことと帳尻が合う形にされています。)ここについては『ホロウ・クラウン』やワーナー+ショウ版の方が原作の台詞通りの印象で、ボリングブルックにもそこまでの意図はなかったのに王位を奪う結果になったという作りだったと思います。RSC版のこういうボリングブルックは、王冠譲渡の場面でのリチャード2世の怒りや皮肉とうまく嵌る形にもなる気がします。また、神に仕える司教達が異議を唱えたり謀反を起こすのも、ヨークが息子の謀反計画を告発して忠誠を示そうとするのも、王権の正統性や服従をめぐる話として見えてきました。権力をめぐる対立や移行にどう対応するかという生臭さを感じさせ、そのためシェイクスピア自身の周囲でも類似の話があったことも想起されます。『リチャード2世』が、エリザベス女王と彼女に謀反を起こしたエセックス伯に擬えられている説があるという話を、ワーナー+ショウ版『リチャード2世』記事でも書きました。(同記事ではネタバレ回避を促した後に書いたので、ここで改めて少し言及します。)で、そこでは全く異なる意味づけでその話を出したのですが、RSC版を見ると、このエセックス伯の話について、シェイクスピアの身近にあった謀反や恭順として意識が向く感じです。

 

生臭さと書いておいて、逆になるようですが、こちらを観て、キリストと十二使徒の比喩が台詞だけでなく物語的にも入っているんじゃないかと改めて思いました。キリストの比喩については『ホロウ・クラウン』できっちり映像化されていたのに、今回の方がそういう印象を持ったんです。RSC版の最後場面の演出効果もありますが、そこを見る前から、『ホロウ・クラウン』ほど強調されていないのにキリストの比喩がなんだか響いて聞こえて、どうしてだろうとつらつら考えました。

 

『ホロウ・クラウン』を観てそういう読みの準備ができ、2回目だからということはありそうです。また『ホロウ・クラウン』では、キリストだけでなく聖セバスチャンが出てきたり、側近との愛人的関係が強調されたりして、そちらにも気持ちが行ったせいもあるかもしれません。後は、映像が美しすぎて、シェイクスピアの作劇以上に監督のグールドのイメージの重ね方に注意が向いたせいですかね……。RSC版は、側近のオーマールが、信頼する側近とも愛人関係ともどちらにも取れる形にしてあり(私にはどちらかと言うと信頼できる側近に見えました)、彼がペテロに重なって見える気もしました。RSC版も原作を変えているところがありまして、こういう見せ方ならオーマールについては原作通りの方がいいなと思いました(←また、はっきり書かずに意味不明になってしまってすみません)。

 

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー 『テンペスト

2016年、グレゴリー・ドーラン演出、サイモン・ラッセル・ビール(Simon Russell Beale)主演。

 

私が原作を好きなせいかもしれませんが、『テンペスト』と『夏の夜の夢』は、大抵どのプロダクションでもいい感じに仕上がるように思います。昨年は、MARQUEE.TVの2本(このRSC版とドンマー『シェイクスピア3部作』オール・フィメール版)、ストラトフォード・フェスティバル(以下、SF)が配信した2本、更にメトロポリタン歌劇場(MET)の配信でオペラ版(トーマス・アデス作曲、ロベール・ルバージュ演出)も観まして、皆よかったです。並べてみると女性のプロスペローが2本ですが、男女の違いより、SF版の2本は賢者的なプロスペローで、MARQUEE.TV(両方が英国版)の2本では怒りを抱え気分に波があるプロスペローになっていたのが興味深かったです。MET版は、もっと若くてややマッチョでワイルドな、また違う路線のプロスペローでした。

 

因みに、SFの2010年版のTrailerが以下です(Des McAnuf演出、Christopher Plummer主演)。こちらや、更に最近のマーサ・ヘンリー(Martha Henry)主演のものも、Stratford Festivalのサイトで有料配信されています。

 


The Tempest movie trailer

 

プロスペローがまだ怒りを昇華できていない点ではドンマー版と共通性を感じましたが、ドンマー版では、弟達が彼から全てを奪ったことに怒りが向けられていました。このRSC版では、プロスペローの妖精エアリアルやキャリバンに対する支配や、彼らとの緊張関係も強調されていたように思います。ビールのプロスペローは恣意的でやや強権的で、少しリア王を思わせるところもありました(リア王ほど横暴ではありませんが)。SF版だと、時に短気なったり葛藤も見えたりするものの基本的にプロスペローは和解の準備ができており、娘ミランダやエアリエル達との関係は、パターナリスティックと言っても大局を見通した「父親的温情主義」(1作品では母親ですが)と訳したい感じ。ビールは、島でも王でいたかったんだなとも思える「父権主義的」と訳したいパターナリスティックな印象で、でもエアリエルの問いかけに少しうろたえたり、キャリバンを不当に憎んでいたり、不安や弱さを内に持つプロスペローという気がしました。嵐直後の場面では、ミランダもこの版が一番反抗的。ですが、結婚の時にミランダがプロスペローをぎゅっと抱きしめたりするので、終始いい娘のミランダより余計に親子愛を感じたりしました。
 

ガーディアンの記事によれば、ビールはかつて、プロスペローの支配に反抗したエアリエルを演じて話題になったそうで、おそらくそれも踏まえた解釈・演出になっているのでしょう。検索していたらRSC Shakespeare Learning Zoneに、プロスペローとエアリエルの関係について話している動画もありました。ビールは、ここで、プロスペローはエアリエルへの支配(power play)を楽しんでいるところがあって、その関係は愛情深いものではないと思うと語ってはいました。ただ、それだけとは言えない気もしたんですよね。

 

www.theguardian.com

 


The Tempest Act 1 Scene 2 | Text Detectives Key Scene | Royal Shakespeare Company

 

この先、あくまで個人の解釈と感想で、観る人によって違う気がしますが、若干ネタバレ的かもしれないので、ここで更にTrailerを挟みます。ご了承の上でお進み下さい。

 


The Tempest | Cinema Trailer | Royal Shakespeare Company

 

 

エアリエルに“Do you love me, Master?”という台詞があるのですが、上で紹介したSF版では、その前からプロスペローとエアリエル(Julyana soelistyo)の関係が比較的よくて、エアリエルもプロスペローのことが嫌いではないので別れの前にこう聞いているような感じがしました。で、RSC版だと確かにニュアンスが違うようには感じたんですが、人とは違う感情をもつようなエアリエル(Mark Quartley)が、結婚するミランダ達を見ながらこう聞き、するとプロスペローは一瞬言葉に窮して涙します。手放すことになるミランダと重ねて、初めてエアリエルへの愛情に気づいた気がするんです。

 

エアリエル以上に印象に残ったのが、キャリバンや彼との関係です。なんだかナショナル・シアターの『フランケンシュタイン』の怪物と博士の関係が思い出されてしまいました(カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが交代で演じたやつですね)。

 

www.nationaltheatre.org.uk

 

本来は知性的で人恋しい思いを持っているキャリバンで、彼の思いとプロスペロー・ミランダ親子の考えとの間に誤解や文化摩擦があったり、キャリバンが不当な扱いを受けていたりすることも示唆されていたと思います。一見かなりグロテスクですが、見ているうちにどんどん可愛く思えてきます。魚をお腹にはさんだキャリバンの可愛いらしさを多くの人に見ていただきたい。RSCのサイトに画像がなかったのが残念です。

 

今回、プロスペローはキャリバンの中に自分の醜い感情を見て憎んでいるのではないかとも思え、その辺も『フランケンシュタイン』的な感じがしたんです。やはりミランダの結婚を祝福する途中で、プロスペローの寂しさが示唆され、そうすると彼が急にキャリバンを気にしだして怒る流れになっていて、原作通りの台詞なのですが、それがとても納得できました。そして、キャリバンがプロスペローを許した、と思える最後がよかったです。このRSC版では、弟達との和解以上にキャリバンとの関係の方が胸に沁みました。

 

この場面の前に、プロスペローが祈るように、弱い自分が魔術に頼ることをやめるように杖を折るのも印象的でした。悟った感じでもなく、島でも支配をしてきたプロスペローなので、魔術=力を捨てることには怖れがあるように思えました。その後でプロスペローがキャリバンに向き合うのです。ビールは過去にキャリバンも演じていた気がしたのですが、ググっても出てこないし批評でも言及されていないので、これは私の記憶違いなんでしょう。

 

テクノロジーを屈指した映像的な仕掛けも美しくて、RSCのサイトでも専らそれが説明されていましたが、映像化されたものを観る限りでは、もっとローテクのはずの他のバージョンとあまり印象は変わらなかったですかね……。綺麗だし楽しめるのは確かなのですが、上のガーディアンの記事などでも、どちらかというと演技がよかったみたいな評でした。上述のような支配関係も描こうとする方向性と、ハイテクのすごい仕掛けは一寸そぐわない感じもして、エアリエルがアバターで出てくる場面など、そちらに注意が行ってしまうのは逆に勿体ない気がしてしまいました。