『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ケネス・ブラナー監督・主演、『シェイクスピアの庭』感想

かなり今更感がありますが、最近観ている配信や放送がシェイクスピア関連でないものが多く、しばらく更新していなかったので、少し前に見た『シェイクスピアの庭』(原題:All is True)感想を書きます。

 

この映画、ハドリー・フレイザーも出演していて、5月29日にフレイザーとラミン・カリムルー(『オペラ座の怪人』25周年のファントムとラウルのペア!)の配信コンサートがあったので、色々強引ですがそれとも引っ掛けて。と言いながら、ハドリー・フレイザーは大好きなのにもかかわらず、実は最後まで長女の夫役が彼と気づかないまま観ていました。私よ……orz。妻役がデュディ・デンチ、『ソネット集』のモデルともされるサウサンプトン伯爵役がイアン・マッケランでした。

 

シェイクスピアの庭』は、ケネス・ブラナーが監督も企画もしていたそうなので、シェイクスピア作品を全く知らなくとも仕事で疎遠にしていた父と家族の再生の物語として味わえそうですし、同時にオタク心をくすぐられる映画にもなっていると思います。しみじみとしていて、シェイクスピアの晩年とブラナーのキャリアと年齢の積み重ねを感じました(と言っても年齢的には2人ともそれほど歳ではないと思いますが! ブラナーもポワロ・シリーズでは依然としてやんちゃ感がありますし)。爽やかな感じの『空騒ぎ』や『恋の骨折り損』が春、重厚な『ハムレット』が夏だとすれば、秋の味わいといったところですね。

  

ストーリーについて、史料との関係やオマージュが知りたいと思って検索したら以下でかなり網羅的に書かれていて、ありがたく拝読しました。ここでは、それ以外のシェイクスピア作品の連想などを中心に書こうと思います。

 

www.ehills.co.jp

pdmagazine.jp

 

息子ハムネットを亡くしたことが『ハムレット』に影響しただろうという説は以前にも読んだり聞いたりしたことがありましたが、公式サイトでは、発端としては『冬物語』の主人公リオンティーズが息子を亡くす話から、ブラナーがシェイクスピアの息子の話をリサーチしたと書いてあります。

 

hark3.com

 

映画のストーリーとしては両方を生かしているような気がしました。『冬物語』は、息子は亡くなりますが失われた娘(パーディタ)が主人公の元に帰ってくる話なので、こう見せてくれると、もしかしたら本当に娘デュディスへの思いがあったかもしれないな、とまで考えたくなってしまいます。映画はハムネットが父の期待に苦しむ話も出てきて、ここは『ハムレット』を入れているんだろうと思いました。

 

それほど重くまた詳細には扱われていないものの、宗教上の対立を想像させる内容もかなり出てきます。これは字幕監修もしている河合祥一郎先生の本とか、『7人のシェイクスピア』とかにも出てくる話ですね。映画では、シェイクスピアが、彼の父親がミサに出ていなかったことについて尋ねられる場面があります。元はカトリックであった父親が清教を快く思っていなかったからかと問われたシェイクスピアが、父が町の半分の人に借金していたためだとユーモラスに答えたシーンも、両方ともそうかもしれないし(All is true)、はぐらかしかもしれないと思えます。『恋の骨折り損』が、実は宗教弾圧事件を仄かしたものという説がありながら、それが全く出てこない喜劇になっていることを連想しました。(途中ですが、本は以下のものです。)

 

ハドリー・フレイザー演ずる長女の夫は清教徒で、演劇や娯楽を快く思っていないため、その点でも岳父シェイクスピアと反りが合わず、また夫婦仲も冷めています。長女が不倫疑惑を告発される一方、シェイクスピアは夫の方に別の女性がいることを疑います。また、次女と結婚する男性も、別の女性と婚前交渉があってその女性に子供が生まれたりして、建前の厳しさとそこには収まらない現実の関係が描かれます。長女の不倫が噂になったことも次女の夫のことも史実らしいのですが、この辺も、主に悲劇での不倫や再婚への厳しい言及と、喜劇での婚外の性関係の仄かしと笑いが併存することを思わせました。シェイクスピア劇の恋愛する登場人物達は結構奔放だったりしますし、『尺には尺を』の建前と実態の乖離を地で行くみたいな話にも見えますね。

 

ソネット集』が出てくるシーンは上の記事でも、他でもその素晴らしさが言われています。ここでは、ソネットでの青年のモデルとされるサウサンプトン伯爵と、作者=シェイクスピアの立場を反転させる面白さもあったかと思います。ソネットでは、作者の方が自分の詩の中で青年の美しさが永遠になるとしているのに対し、映画では、サウサンプトン伯爵が、自分は既に老いたがその美しさは詩で永遠のものになったと語りました。シェイクスピアがあのソネットはあなただけに私の想いを捧げたもので出版の予定はなかったと自身の想いを告げても、サウサンプトンは、自分に愛情を傾けたシェイクスピアではなく、永遠に残る偉大な詩人シェイクスピアこそを愛し尊重しているのです。

 

以下は主筋のネタバレを含む内容になるので画像を挟みます。多分、観ていないとわからない書き方をしており、映画での話の展開自体は書いていませんが、ネタバレを避けたい方はここまでとして下さい。

 

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“I know a bank where the wild thyme blows, Where oxlips and the nodding violet grows……”

 

亡くなったハムネットは次女ジュディスと双子で、タイトルへの言及や台詞の引用もなかったと思いますが『十二夜』の取り違えを掛けたようなストーリーにもなっています。『十二夜』では、セバスチャンとヴァイオラが男女の双子で、ヴァイオラはセバスチャンが海で溺れて亡くなったと思い、彼を真似て男の振りをし、彼女を男だと思い込んだオリヴィアに愛を告げられ、自分が愛するオーシーノーには真実を言えません。『十二夜』では偽の手紙による愛の取り違えも起こります。これを、シェイクスピアが愛した子の取り違え(ハムネットとジュディスの入れ替わり)、デュディスが父に真実を言えないままでいること、文字による取り違えのストーリーにしているような気がしました。

 

うまく『十二夜』を使っているだけでなく、映画を見て、改めて『十二夜』が男女の双子の物語で、亡くなったと思っていたきょうだいが再会する話だったと気づいたんですよね。ハムネットの没年は1596年、調べたら『十二夜』が書かれたのは早くとも1599年だそうです。シェイクスピアの家族と重ねてみて、そういう話を書いていたことに気づかされる感慨もありました。また、息子が亡くなる場面は、オフィーリアを思わせるところもあり、ここも男女を入れ替えているような感じもありました。構成と脚本に感嘆です!

 

その真実(true)が明らかになるところは残酷である一方、『十二夜』の大円団のようでもあり、娘が戻ってくる『冬物語』のラストのようでもあります。更に、それでもハムネットは疫病で亡くなったのだと妻が言い続け、それもAll is trueとする、trueに対する見方が映画の美しさにもなっているように思いました。