『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

RSC、グレゴリー・ドーラン演出『ジュリアス・シーザー』感想

グレゴリー・ドーラン(Gregory Doran)演出、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台を元にした映像作品です。17日までYouTubeでの無料配信でした。

 

植民地独立後のアフリカの設定になっており、アラブの春とも呼応するものになるということです。この設定によって、独裁への懸念、また、その懸念からの暗殺がテロリズムになって内戦に発展する流れがよりリアルで切実なものに見えました。これは偏見になるかもしれないものの、占い師が登場して予言してもあまり違和感がない気もします。下はYouTubeでのドーランの解説動画リンクですが、それによると、シェイクスピアの中でも元々『ジュリアス・シーザー』は、アフリカでよく上演されたり翻訳されたりしているらしいです。

 

Julius Caesar | Royal Shakespeare Company - YouTube

 

このドーラン版は、皆それぞれに理があり思いがあることがわかり、それでも政情不安や政治的対立から暗殺に走り、暴力性が感受できなくなり、事態の収集がつかないまま内戦に向かう描写になっていたと思います。

 

一寸前に観たITAのヴァン・ホーヴェ演出版(『ローマ悲劇』内の『ジュリアス・シーザー』)も現代設定でしたが、描き方は真逆の印象でした。ITAの方は、皆が胡散臭くて(なんならシーザーが一番普通に見えました)、しかも斜に構えた視点でそれを捉えるような演出だったと思います。今回のRSCドーラン版の方が原作イメージに近い感じで、それぞれの登場人物や物語に入れ込んで観てしまいます。『ジュリアス・シーザー』って、大河の『麒麟がくる』みたいな話、いや、『麒麟がくる』が『ジュリアス・シーザー』っぽかったなと今回思ったんですが、比較で言うと、ITA版は、いい人が一人もいなくてそこが楽しい『真田丸』みたいな感じ。ITA版は、更につきはなした視点で作られていると思いますが。

 

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今回のRSCドーラン版は、キャストがまたすごく納得感がありました。パターソン・ジョセフ(Paterson Joseph)のブルータスは、思慮深く誠実そう。“your gentleness”(これはキャシアスに対してgentleということですが)という、gentlenessが滲み出ている感じで、でも文人というより軍人風。シーザー(Jeffry Kissoon)は登場時のカリスマ・オーラの一方で、野心的で王になろうとしているようにも見えます。レイ・フィアロン(Ray Fearon)のアントニーは若くて精悍で、シーザーに忠実な側近。シセロ(キケロ)も、台詞を語る前から信念のある知識人の風格。そして今回特に“なるほど”と思えたのがキャシアス(Cyril Nri)でした。キャシアスについては、後から話と絡めて書きます。

 

意表を突く演出やキャストも大好き(むしろその方が好きなくらい)ですが、どちらのパターンも登場人物の理解を深めてくれるなと改めて思いました。もっとも、アントニーは、原作イメージより清廉でヒーロー寄りかもしれません。やや意外だったのは、ポーシャで、これまで観たポーシャより強い人でした。これは逆に発見的で、ブルータスとの会話場面で太腿を刺していたり、亡くなり方を考えれば強くていいよな、と。ポーシャの、女の心は弱いという台詞に囚われすぎていたかと思いました。このポーシャは錯乱ではなく覚悟して死を選んだ気がします。

 

Trailerの下から演出のネタバレになり、かなり最後まで書いています。

 

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序盤

アフリカンダンスでの始まりが祝祭的で、観ているこちらも晴れやかな気持ちになったところで、兵士(の格好のフレーヴィアス)が登場し、取締るように「さあ、帰れ、帰れ、怠け者めが」と命じます。場面的にも、観ている方も冷や水を浴びせられたようになります。う、うまい。気持ちが動くし、この台詞をこんな風に考えたことがありませんでした。冒頭の台詞を既に自由を抑圧するものと解釈して、しかもシーザーの専制を危惧するキャラがこういう振舞ということなのか、と、この最初の場面で心を掴まれました。

 

とはいえ、市民達はそれで大人しく帰らず、シーザーの凱旋を出迎え歓喜します。先ほども書いたように、シーザーはいかにもなリーダー感があります。その時やってくる占い師もアフリカの呪術師的で納得感がありました。

 

洞察的なキャシアス

この後に、シーザーの悪口を言うキャシアスと、ブルータスの対話になりますが、今回このキャシアスのキャラクターがとても納得できるものでした。キャシアスは登場時にシーザーより自分が優っているようなことを言いますし、後からブルータスとも揉めては友情を再確認したりで直情型にも見えるのに、シーザーの台詞では、キャシアスは本を読みすぎる、行為を奥底まで見抜くとされていて、これまでは今一つそこが繋がらなかったんです。そのため洞察的なキャシアス像は、彼を嫌うシーザーによる見方と思っていました。

 

今回、シーザーが川で溺れた話(自分が泳げないほどの川を渡ろうとした)などをキャシアスが暗い面持ちで語ると、これまでと印象が変わりました。「勝利の栄冠を独り占め」と嫉妬し、「意気地のない弱虫」とシーザーを蔑む以上に、後先を考えない小心者でもあるシーザーが支配者になる懸念を語っているように見えます。また、だからこそ、シーザーはキャシアスを危険視するのかとイメージが統合されました。キャシアスは王政に反対するとも言っていて、それはそれで理解していたつもりなのに、ここも更に繋がりが見えるものになりました。

 

また、この版では、シーザーが、 “キャシアスは行為を奥底まで見抜き、彼より偉大な人物には心が穏やかでなくなる、危険だ”と、一同とキャシアスがいる前で言ってしまうので、もう政治的対立が避けられない形になります。周囲もいかにも気まずい雰囲気ですし、観ていてキリキリしちゃいます。シーザーは牽制したつもりなんでしょうが、キャシアスは対決しなければ後がない。

 

シーザー暗殺

キャシアスからシーザー暗殺を持ちかけられ、ブルータスは悩みながらも暗殺を決意しますが、この場面もその後も、暗殺には批判的な描き方になっていたと思います。いくつか観たので、ブルータス自身の台詞にその判断のおかしさが示唆されていることに気づいたこともあるでしょうが、今回はそれが強調されていた気がします。

 

殺害前のシーザーが罪人の赦免を拒否する場面の台詞は、“法を私情で曲げない”とも“自分が支配者になる”とも取れるものになっています。ここで、ブルータスとキャシアスが互いを見交わす表情が交互に入れ替わるカメラワークになっており、2人が“シーザーはやはり王になる気だ”と暗殺を決意したことがわかる(でも、シーザーがそういう意味で言ったかはわからない)ようになっていました。

 

暗殺場面は血腥く、また20世紀の時代背景で、穏健的だったブルータスがシーザーの血に手を浸そうと言い出すのはかなり危うく思え、「平和だ、解放だ、自由だ」の台詞も血に酔ったように語られると皮肉にしか見えません専制を回避したはずが暴力的なテロリズムで、それがもう彼らには見えなくなっています。暗殺を迷うブルータスの台詞は、マクベスにも似ているんだなと思いましたが、正義だと思っている分、ブルータスの方が危ういかも。

 

そこにやって来たアントニーは、驚愕したり恐れたりする風ではなく、あわれみの心だと言い訳するブルータスを、怪しむように批判するように見つめます。アントニーがそれぞれと握手するところも冷静で、自分を貶める台詞を言いながら、シーザーの敵討ちを決意している静かで考え抜いたような語りです。

 

演説シーン!

ブルータスとアントニーの市民の前での演説も、ブルータスの方は血だらけの手がすごく目立ちます(それが目立つ仕草の演技)。そんな手のまま語るところが元のブルータスでないというか、ここでは尋常でなくなっているというか、やはり自分の行為に酔ったような感じがします。ITA版とこれを観るまでは、アントニーの演説よりブルータスの演説が好きだったんですよ。少し前の松岡和子先生と河合祥一郎先生の配信レクチャーで、アントニーの演説がいかにブルータスより優れているかという説明を聞いて驚いたくらいです。(その意味ではITA版は原作に忠実だったとも言えるかもしれません。)演説の巧拙については英語のリズム(弱強五歩格)がわからなくて理解できなかったことが大きいですが、これまでブルータスの台詞を額面通りに美しく捉えすぎていたかもしれないと今回は思いました。逆に言えば、ドーラン版は、真摯なブルータスのキャラクターはそのままに暗殺・テロリズムを批判的に捉え、ヒロイズムに流さない演技・演出にしており、またアントニーをその点での対抗軸にもってきた感じもしました。なので、その分アントニーがヒロイックになっていました。

 

そして、そのアントニーの演説が圧巻でした! ブルータス達の行動に(多分)懐疑的な演出なので、アントニーが「高潔なブルータスは諸君に語った、シーザーが野心を抱いていたと」と繰り返しながら、だが実際は、と疑いを畳みかけると、まさに見方が覆される感じ。“市民の気持ちをアントニーがなびかせてしまう〜”と思って観ていたこれまでの演目とも印象が反転し、自分も市民と一緒に気持ちがなびいてしまいました。

 

しかも、英語のリズムがわからないと上で書いた私も乗っちゃうようなパワフルで音楽性もある語り。この辺は全然詳しくないですが、キング牧師の演説などを彷彿とする独特のリズム感のような気がします。シーザーのマントを掲げるところもヒーロー感満載。で、この演説場面、マントを掲げるシーンまでは出ませんが、RSCが動画公開しています!!

 

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リズム感についての解説はありませんが、パターソン・ジョセフとレイ・フィアロンの説明動画も文字リンクしておきます。ここでジョセフが語っている、ブルータスは名誉の人で、アントニーと違って市民達を操ろうとしていない(not manipulative)というのは私の従来通りのイメージなんですが、作品になったものはそれとも違う印象なんですよね。

 

Man of Honour VS Man of Action | Julius Caesar | Royal Shakespeare Company - YouTube

 

後半、アントニーは味方を利用して切り捨てると影で言い、その狡猾さが顕になるのですが、そこでも私にはあまり悪印象にならず、自分でも一寸不思議。単に英語がちゃんと追えなかったせいかもしれませんし、演説で“操られちゃった”のかもしれません。最後のブルータスを弔う場面が本心だろうと思えるアントニーでした。

 

終盤まで

後半には市民の登場場面は多くないものの、多分アントニーの演説に煽られた市民がシナを殺害する場面も恐ろしい描き方でしたし、市民の心が離れていってブルータス達が劣勢になるのもリアルに感じました。テロリズムとしても描きながら、ジョセフのブルータスは、追い詰められても鷹揚で懐の深さを感じ、皆が彼を頼るのがわかる気がして、その分複雑な気持ちになってしまいます。

 

亡霊を見るブルータスには葛藤や狼狽も感じますが、ここで因果応報的な覚悟を決めたようにも見えました。

 

後半は割合想定通りというか、前半の流れからストレートに展開したように思います。Youtubeの説明には“Julius Caesar is also a love story between two men united by an explosive act of political violence.”と書いてありましたが、love storyの方は、あまり意識に昇って来ませんでした。(私、英語の意味を取り違えていますか?)ブルータスとキャシアスの別れが美しいのは原作通りですが、どちらかと言えば、これまでより濃く感じたのは、ブルータスと従者ルーシャスの関係です。自殺幇助的にブルータスにとどめを刺すのが小田島雄志訳版ではストレートー、こちらはルーシャスになっていました。これは元々そういうものもあるんでしょうか、演出でしょうか。若者に残酷な役目をさせてもいるんですが、「顔をそむけてくれ」と言うだけじゃなくてちゃんとそむけさせる優しい主人でもあり、こんなことがあったら、この後ルーシャスがアントニー達に報復感情を持つ可能性も想像させます。感傷的でもあり怖くもある作りでした。

  

(※「」内の台詞は、小田島雄志訳・白水社版『ジュリアス・シーザー』から引用しました。)