『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

リチャード・エア監督、アンソニー・ホプキンス主演『リア王』感想

2018年、リチャード・エア監督作品。『ホロウ・クラウン』シリーズの『ヘンリー4世』の監督ですね。

 

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ドーヴァー城、ロンドン塔、ハットフィールド・ハウスなどが出てくる美しい映像ですが、現代の設定です。「21世紀の“架空の国”」になっているとのこと。

 

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現代設定の効果はあまりわからず、貧困者のテント・シティーのような雨宿りの場や、市街地に及ぶ戦闘シーンなどでは違和感を感じてしまったものの、久々に日本語字幕で観ることができたせいなのか、俳優陣がすごくよかったせいなのか、とても惹きつけられる作品でした。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)ドーラン版のような視点を転換する面白さというより、キャラクター設定と演者達の個性が嵌って、細かい工夫や精妙なニュアンスが映画だからこそ際立って胸に迫ったのかもしれません。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

全体のキャスト情報は以下のリンクにあり、Trailerや短い映像も見られます。WOWOW番宣に書かれていたように豪華キャストです。で、そのWOWOWでの番宣には載っていなくて知らずに観ましたが、エドガーがアンドリュー・スコット! 個人的にはもうスコットのエドガーが観られただけでも満足ですが、本当に全体がよかったです。主要登場人物は無論のこと、道化役がデレク・ジャーマン映画によく出ていたカール・ジョンソン(道化は主要登場人物に入るかもしれませんが)、長女ゴネリルのところの執事オズワルドが、RSC版マクベスを演じた上のアイキャッチ写真のクリストファー・エクルストンだったりします。

 

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キャラクター設定も巧いと思いました。ということで、また画像を挿みながらネタバレ度が上がる形で書いていきます。この下からキャラクター設定についてです。

 

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“Through the sharp hawthorn blows the cold wind.”   King Lear

 

この「架空の国」は、軍事国家風で、最初の場面ではリア王自身も地味な軍服を着ており、軍の統率もしていただろう雰囲気です。これがリア王の専横的なところや、彼の家臣達の騒ぎで長女ゴネリルと揉める背景として説得的になるように思いました。

 

他の登場人物についても軍人と文人がキャラクターと絡めて半々ぐらいに割り当てられ、うまく嵌まる形になっています。長女ゴネリルの夫アルバニー公は最後は軍の制服だったものの、貴族・文化人風で、次女リーガンの夫コーンウォール公は血の気の多そうな軍人設定です。これも、2人の性格や、特にグロスター伯にコーンウォール達が制裁を加える物語の展開と合いますし、そこでコーンウォールに逆らう家臣も軍の部下の設定になり、不当な命令に抵抗した形になっていました。

 

臣下の2人の方は、グロスター伯が法律顧問や文官官僚風、コーディリアを庇うケント伯は実直な軍人風。また、グロスター伯の庶子エドマンドは軍人で、しかも最初はそれほど官位も高くなく見え、父親の後を継ぐ形にはならない彼の立場と、エドマンドがコーンウォール公グロスター伯を密告することのつながりもわかりやすくなっています。嫡男エドガーは天文学者グロスター伯やエドマンドの占星術的な台詞を生かしているのでしょう)。こちらは本人の意向として多分父親の職業を継ぐ気はないオタッキーな研究者風で、人間関係や世事に疎そうです。騙されて流離っている時のエドガーの衣装も注目です

 

コーディリアに求婚するフランス王とバーガンディ公についても、フランス王は正装の軍服、バーガンディー公はアフリカ的な民族衣装(2人とも黒人キャストでした)。いつもながらの妄想ですが、軍備のあるフランスとは違って、バーガンディー公にとっての領地や大国の後ろ盾の重要性や、それらと縁が切れたコーディリアが彼にとって意味がない背景まで窺えるように思うのです。

 

道化がリアと同じぐらいの年齢で、リアをからかいつつ諭すような、友人的にも見える距離感なのも味わいを感じました。原作ではいつの間にか登場しなくなりますが、そこの扱いも感慨深いです。

 

この先、作品の場面進行と登場人物設定を絡めて述べます。

 

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Alke Made Pixabay

 

リア王が娘達に自分への愛を語らせるシーンでは、愛を語っても固苦しく建前であることを隠しきれない長女ゴネリル、一番抜け目なく立ち回りそうな次女リーガン、その茶番や姉達の振舞いを批判する三女コーディリアという感じでした。“I shall never marry like my sisters, To love my father all.”辺りの台詞が“お姉様達も自分の家庭があるのにいい加減なこと言わないで。お父様も現実を見ないとだめ。”みたいなニュアンスに聞こえます。口下手というのは言い訳で、むしろ遠慮のない物言いから、これまでリア王に諫言していたのがコーディリアだったんだろうと思えるしっかりした三女の印象です。

 

独白も削られているので“言葉より真心”的な理想主義者というより現実主義者に見えるコーディリアは、やや融通が効かなそうでもあり、介護問題等をなあなあで済まそうとしている場でちゃんと考えようとか言って(←例です)疎まれそうなタイプ。疎まれても大事なことを言うのは愛情があるからなんですよね。でも一寸冷たそうにすら見え、“So young, and so untender?”(そんなに若くて、その冷たさなのか)、“So young, my lord, and true.”(若いから真実を言います)を、こういう風に作れるのかと思いました。新鮮ですし、コーディリアとケント伯が仲が良いというか似た者同士にもなって納得です。

 

ここでのリア王の表情で“ああ、ボタンの掛け違いが起こった”という気がしました。リア王はもう領地分割も決めていますし、ホプキンスが軽い語り口にしていたり、ゴネリルやリーガンの語りも流している風だったりするので、愛情確認は単なるセレモニーや引退後の生活保障の確約であることが伝わります。儀礼の場で現実のシビアな話をすると、葬儀の場で介護問題の話までするなとか(←例です)、愛情がないのかとか、今でも誤解から感情がエスカレートしそうで、お伽話的世界の話がリアルな家族の行き違いに見えます。

 

この後のゴネリルの館での悶着についても、ゴネリル側の事情も十分わかる形にされています。ゴネリルにも共感できる作りなのはもう定番なのかもしれません。あるいは以前からそうだったのに、私にはわからなかっただけなのかも。(ただ、ゴネリル共感的にするならもう一工夫ないと、後半のエドマンド絡みの展開はチグハグになる気が今回はしました……。)RSC版と似てリア王とゴネリルはいかにも相性が悪そうです。とはいえ、口論になるまではRSC版ほどリア王達の振舞いが酷い感じはしません。引退して肩の荷を降ろし側近の兵達と狩りを楽しむリア王の様子と、ゴネリルとアルバニー公夫妻の静かな邸宅に、荒っぽい大勢の兵達が狩った獲物を下げ泥靴でどかどか入ってくる様子とが描かれ、両方の立場がわかるようになっています。ゴネリルも父を真正面から説得しようとしてぶつかります。この作品では、コーディリアと姉達との違いが示されるというより、コーディリアに始まって娘達と次々に衝突するリア王という印象でした。

 

次のリーガンは、ゴネリルの館を出たリア王に“まー、可哀想にー”などと言いながら彼女のしたいように持っていき、次女の要領のよさを感じます。原作が、作劇上繰り返しを避けつつ長女と次女の違いをうまく出していたのかもしれませんし、描写や演技がいいのかもしれません。姉妹2人で兵達を解雇するか館から出ていくかを迫り、怒ったリア王は出ていきますが、ここでも主にゴネリルが怒りをぶつられていたような……。

 

父娘両方の事情を丁寧に見せる映像や機微を感じさせる演技のためか、よく観るアンソニー・ホプキンスだからなのか、観ていて、暴言を吐く箇所では“くそじじいー”と思いつつも、まさに老いた親のような愛しさを感じてしまいます。この作品の流れだと、悲劇がリア王のせいだけにも思えません。

 

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Thomas H.  Pixabay

 

逆に、グロスター伯の方は、原作以上に酷い父親になっていました。エドマンドは衛兵として警備に当たっていたところを、たまたまグロスター伯とケント伯が通った形で、あまりきちんとケントに紹介してもらっていません。グロスター伯はエドマンドの母を蔑むように語り、エドマンドの方が可愛いと思えるという台詞の方はカット。足早に通り過ぎるグロスター伯をエドマンドはムッとして見送ります。

 

グロスター家の親子の方は、キャラクター的にあまり変化球な感じはしなかったものの、エドマンドが父や兄を欺いたのは、野心を抱いたからというより彼らを憎んだからのように思えました。

 

嫌な父親だったグロスター伯は盲目になった後、エドガーのことを悔いながら、そのエドガーだとは気づかずに彼に助けられて共に旅をし亡くなります。原作では、エドガーが父の死までの経緯を細かく語る形ですが、それは全てカットされ、ここでは、原作でグロスター伯が最後に登場する場面で亡くなる形にされていました。もうここで死んでもよいというグロスター伯に、エドガーが「人間はいつ死ぬか決められないものだ、その時が来るまで」と言い原作では2人で歩いていくシーンです。この作品では、この台詞の直後にグロスター伯が息を引き取ります。加えて、ここでエドガーが自分の顔をグロスター伯に触らせ、死の間際にエドガーとわかったという描写。舞台でできない訳ではないでしょうが、細かい表情を捉えられる映像ならではですね。生きようとする原作もいいですが、こちらも感動的でした。

  

最終場面での、リア王がコーディリアの死を嘆くところも、通常予想されるのと違うというか、少なくとも私が想定したのとは異なり、叫ぶように悲しみを訴えるのではなくむしろ淡々としているほどで、更にぐっときました。本当に見事。そしてこの作品では、ゴネリルとリーガンの亡骸も出てきて、リア王はそれを見て“This is a dull sight”と言います。「ひどい光景だ」と訳されていました。彼が3人の娘を葬る形になるのもよかったです。

 

ケント伯がリア王の亡骸と共に退場するところも胸に沁みましたし、最後のエドガーの台詞が、人が生きていかなければならない辛さを述べるものであることも、スコットのエドガーの語りで実感しました。