『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター(at Home)、イアン・マッケラン主演『リア王』感想

ジョナサン・マンビィ演出、イアン・マッケラン主演、2018年デューク・オブ・ヨークス劇場。

 

日本での上映期間は終了してしまいましたが、National Theatre at Homeで配信が始まりました!(英語字幕のみ)

National Theatre at Home

 

なんとなくではありますが、老いによって持つもの(能力も含めて)を失う残酷さと、それに抗おうとして逆に事態を悪化させる悲劇をストレートに打ち出したプロダクションに感じました。こちらのリア王の頑固さや不遜さは、元々のパーソナリティ以上に加齢のせいという作りの気がします。しかも周囲が彼を否定し力を奪おうとするので(周囲にしてみればそうする十分な理由はあるのですが)余計意固地になって理不尽な行動をしてしまう悪循環が描かれていたように思いました。原作『リア王』の元々の力点はおそらくそこにあり、以前記事にしたロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのドーラン版の方が新機軸だろうと想像します(ドーラン版の方は私が勝手にそう思っているだけかもしれません)。とはいえ、このマンビィ版も原作準拠の古典的上演ではなく、現代化もされ、序盤の工夫など新しい切り口に引きつけられ、それによって加齢の問題がわかりやすく提示されていると思いました。老いによる壊れ方を“表現”するマッケランが素晴らしいのはもちろん(パーフェクトに演じているし、ずぶ濡れになるし、マッケラン自身は体力も能力も凄いですから、当然、表現です!)、演出や演者達全体で、高齢者をめぐる今日的でリアルな雰囲気を醸成している気がします。

 

ガーディアンのレビューでも、この版でのリア王が、過去にマッケランが演じた大仰な君主ではなく、早々に壊れてしまうリア王だとされています。確かにそんな感じがしました。

www.theguardian.com

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

新しい切り口としては、序盤のコーディーリアの勘当場面に工夫があり、コーディーリアは従来イメージとも少し違う造形になっています。またケント伯が女性になっています(女性にすることは新しいと言えないくらいよくありますが)。女性版ケントは、様々に効果的で、かなりうまく嵌ると思いました。ただ、ケントが男性のままでもこの作品の印象自体は変わらなかったかもしれません。グロスター伯は、やや難ありな昔風の男性面が強調されていた気もします。他の人物については、従来イメージというか(私の)原作イメージに割合近い感じがするんですが、すごく精度がよいというか、相互関係が精妙というか、人物も関係性も生き生きと浮かび上がっている感じがしました。

 

評判もよかったので楽しみにしていましたが、私としてもお勧めです。

 

演出の面白さを書こうとするとやはりネタバレ的になってしまうので、まずは画像を挟みます。序盤場面の工夫があるので、これから観ようという方はここまでにして、ぜひまたご訪問いただければ幸いです。

 

写真AC

※「」内の台詞は、白水社小田島雄志訳から引用しています。

第1幕第1場

「王はコーンウォール公よりオールバニ公をご寵愛だと思っていたが」という最初のケント伯とグロスター伯のやりとりで、おお!と掴まれました。この台詞が、既に想定外のおかしいことが起こっている感じで語られ、遺産相続=領地分割の場面に繋がります。この版では、領地分割のために娘達に愛を語らせるのも規定路線の行事ではなかったようで、娘達も周囲も“なぜそんな話になってるの?”というリアクション。領地を与える時のリア王の行動も異様に見えます。姉のゴネリル、リーガンが場を取り繕うようにそれをセレモニーに仕立てるスピーチをするのに対し、コーディーリアはおかしいことを指摘するかのように“Nothing, My Lord.”ときっぱり言います(独白はカットでした)。“ここで言うことなんて何もないですから!”的なニュアンスに聞こえます。その後も彼女が父を諭すような作りになっています。

 

元々この集まりは、コーディーリアの結婚相手決定・発表のためという設定のようで(リア王の台詞の前後が入れ替わっています)、間もなく結婚する彼女はそれまでのようには父の側にいられないので真剣なんですが、最初に書いたように、愛娘に否定されてリア王は更に暴挙に出ることになるという……。“私の心は十分表現できない”無口なコーディーリアではなくて、言い方には不備があっても言うべきことを言って頑張ったのに勘当されたコーディーリアという印象です(「口にするより実行しようとする悪い癖」)。

 

コーディーリアが後から姉達のやり口はわかっていると怒るのも、愛を語るスピーチの“内容”が嘘だという以上に、おかしな事態にちゃんと対応しないのは愛がないということなのでしょう。原作を素直に読むと、姉達の本性がわかっていて敢えて何も言わず何もせずに、後から姉達に警告するコーディーリアもいかがなものかと思ったりしますが、本作では何もしなかったのは姉達で、コーディーリアはそれに怒ったように見え、私としてはとても納得できました。後で戦争まで仕掛け戦地に出てくるコーディーリアを考えると、この強さと怒りはあっていいと思うんですよ。ウェブの感想などでは、こちらのコーディーリアがあまり好かれていないようで悲しいですが、今回も“こんな風に作れるのか”と驚きました。

 

ケントもリア王を諫めて追放されますが、彼女も普段から割合対等な関係で王に歯に衣着せず進言してきた大切な臣下だったように思えます。非礼を承知で決死の諌言というより元々多少は気安い間柄に見え、リア王の方が変わったのだろうと想像させます。

 

バーガンディー公とフランス王は、台詞通り、コーディーリアに以前から好意を寄せて競っていたことがよくわかります。特別な演出はないのに不思議です、距離感や視線のせい? こんな事件が起きてバーガンディー公を回避できて却ってラッキーで、コーディーリアとフランス王は結ばれるべくして結ばれた感じがします。ここについてはむしろオーソドックスな作りかもしれません。

 

女性版ケント伯

女性のケント(シニード・キューザック)は、序盤は『冬物語』のポーリーナのようだし、追放後にカイアスとしてリア王に仕える時には男装するので『十二夜』や『ヴェニスの商人』を思わせます。同時に、年配女性の男装は新しくもあると思うのです。こちらのケントは、追放されても影で尽くす誠意の忠臣というより、切れ者でよい意味で策士に見えます。ポーリーナやポーシャも策士ですよね。『リア王』では策士の術も悲劇を防げなかったという感じ。

 

また、地位と権力に守られなくなった女性ケントには、リア王の周りの従者達の集団は粗暴で怖い感じがするだろうことも伝わります。そうすると、彼らがゴネリルの館で厄介な存在になることが更にわかりやすくなります。ただ、中盤の、コーンウォールの館でケントがオズワルドと対決して捕まるところだけは違和感がありました。女性だと無理があるというだけでなく、こちらのケントのキャラとして一貫しなくなるような気がします。(リア王絶対で腕に覚えのあるケントならオズワルドを懲らしめたくなるのもわかるのですが、一計を企てリア王を守ろうとするケントならオズワルドに構うのは逆効果だと思うので。個人的にはここはカットしてもらう方が見やすかったなーと思いました。)

 

グロスター親子

ケントが女性であると、グロスター伯が庶子エドマンドを紹介する場面で、愛人関係をひけらかす無神経さも一層際立つ形になります。ケントもエドマンドもそのノリに着いていっていませんが、グロスターは気づきません。グロスターは行動もかなり粗野で、愛情表現のつもりでエドマンドを何かと叩くような昔風の男性です。“昔は許されたかもしれないけど、今それはないわー”みたいな、現代の世代間や男女間の感覚の差が示され、何も言わないエドマンドが怒りを溜めていたり、その後リア王とゴネリルが感覚の違いで衝突する伏線になる点でも効果的だと思いました。グロスターはかっかとしやすい単純思考の人でもありそうで、彼ならすぐ騙されるのもわかる気がします。

 

とはいえ、こちらのエドマンドは、どちらかといえば怒りや恨みより野心と計略の方が目につきます。最終場面までは野心家キャラと思っていました……。外ヅラが良くスマートに見えます。嫡子の兄エドガーの登場時や、オールバニ公との対比だと、確かにエドマンドがかっこよく見えるんですよね。エドガーが誠実だけれど頼りなさそうで、この兄弟もイメージ通り。意外だったのは、決闘場面でもエドガーの方が実力的には弱い設定になっていたことで、少し頼りなくて優しいエドガーのまま、彼の奮起を見せる感じがありました。

 

ゴネリルとリーガン

最近はゴネリルに同情的というか共感できるように描く演出を見ることが多かったのですが、この版はゴネリルと夫のオールバニ公についても比較的従来イメージに近い感じです。とはいえ、狡猾で冷たいというよりは、自分の思いのままにできていたやや意地悪な姉娘の感じです。そんなゴネリル(クレア・プライス)も、この版にとても合うと思いました。

 

館でリア王とゴネリルが口論になる場面は、従者達までゴネリルを揶揄して相当悪いし、原作通り道化は茶々を入れるし、彼女はそれにも刺激されエスカレートする感じがあります。ですが、最近観ていた生真面目な長女の抗議とは一寸違う印象を受けます。“ああこれ見たことある”感じの、自分の決定権を盾に高齢者を少し馬鹿にした態度というか(私も気をつけないと)。言うことは正論でも上から目線の皮肉な物言いに見えます。いや、リア王と従者達に確かに非はあるんですよ、あるんですけどね。

 

従者を取り上げると言われて腹を立て、リア王は更に理不尽な発言や行動をしていく感じでした。リア王の「その胎内を不毛にしてくれ」という発言は本当に酷いものですが、その前のゴネリルの態度がどういうものかで印象が違うなと思いました。しかもこちらのリア王は感情が昂って涙を拭いながら言っていたりしますし。酷い言葉についても、判断が危うくなっているせいかもしれないとも思えます。

 

オールバニ公は、その言葉でショックを受けたゴネリルを(台詞はないものの)気遣っているし、2人をなんとか仲裁しようとしているのがわかるし(間に入ろうとして喋るタイミングを逸している)、いい人オーラが出ています。感情的になっているゴネリルを冷静にさせようとして却って気持ちの行き違いを生み出し、この版では、父との同居が夫婦関係も壊してしまった気がしました。

 

リーガンの方は、優しい振りや被害者の振りをしながら更に操作的な人の印象です。リーガンと夫のコーンウォール公は、行き違いはなく悪事にも躊躇がない相性のよいカップルですが、今回はそこに(セクシュアルな興奮を含む)猟奇趣味が加わっていました。

 

嵐の場から終幕まで

元気で元から横暴に見えるリア王だと自ら進んで娘達の家から出て行った感じがしますが(ゴネリル達に同情的になる)、序盤から彼の少しおかしい様子が描写されていると、多分原作ニュアンス通り娘達がそう追い込んだように見えます。加えて、嵐の場は本当に雨をふらせて高齢のマッケランをずぶ濡れにさせるので、嵐なのにそこまでしたらだめじゃん、と余計に思ってしまいます。アンソニー・ホプキンスリア王も映像作品で暴風雨に晒されていましたが、舞台だとその後もそのまま演じ続けることになるのでむしろ一層リアル。ケントやグロスターの“ともかく濡れない所に入って下さい”と言う台詞にうんうん肯けます。

 

雨のシーンの写真のある記事リンク。

playbill.com

 

グロスター親子については、トムになったエドガーは相当別人感があり、嵐の場で父のグロスターが彼を見ても気づかないという演出で(原作的にもそうですが、うまく影に隠れたり、暗闇で見えなかったという演出もあるので)、ばれなかった安堵と更なる傷心の両方がありそうでした。それが、盲いたグロスターとエドガーが2人で旅をしている時、「りっぱなお祈りだ、お父っつぁん」(Well pray you, father.)、「おまえさんはどういうお人だな?」の会話で、こちらのグロスターはエドガーだと気づいた感じもするんです。明らかではなくどちらにも取れる形であったと思いますが、目が見えていた時にはわからずに、盲目になった時に“father”と言われて気づくのは味わい深いと思いました。
 

また、決闘に敗れ亡くなりつつあるエドマンドが、ゴネリルとリーガンの死を聞いて「エドマンドはやはり愛されていたのだ」とぽつりと言うところも印象的でした。エドマンドが本当は愛を求めていたことも想像させ、姉達の死が彼を慰めるものになったんだな、と。そこからリア王達の暗殺計画を告白する流れが、今回、とても納得できました。

 

リア王の登場場面については、嵐の場から先は演出的に特別な工夫をする訳ではなく、いよいよ正気が失われ心身が弱っていく様子を、マッケランがじっくり見せ/魅せています。最終場面では、時々意識が戻ったように意味のあることを言っても、もう命が尽きかけている気配が濃厚です。ホプキンスのリア王が最後に昔の威厳と力を取り戻すかのようだったのと対照的だと思いました。勿論どちらも素晴らしいです。

 

最後にリア王がケントがカイアスだったと理解し、彼女が跪いて王に尊敬を示すところが、看取りのようで胸に滲みます。

 

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