『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

新国立劇場『白鳥の湖』(ピーター・ライト版)感想

NHKで放映された新国立劇場の『白鳥の湖』(ピーター・ライト版)、物語の作り方もゴシック的な衣装もすごく好みでしたし、特に米沢唯さんのオデット/オディールと福岡雄大さんのジークフリード王子に心を揺さぶられました。このキャストだからこそ、の部分もあるかもしれません。

 

ピーター・ライト版はシェイクスピアのようだとか『ハムレット』のようであると言われているので、それに託けて感想を載せてしまいます。とはいえ、シェイクスピアのことはほとんど書いていなくて、英国ロイヤル・バレエのリアム・スカーレット版(高田茜さんのオデット)との比較のような、こんな風に見えたという妄想垂れ流しのような記事です。

 

第1幕

以下のリンクの解説にもあるように、序曲のところで先王の葬儀が描写され、通常は王子の成人祝賀の第1幕が、沈んだ王子を慰めるために臣下で友人のベンノがこっそり祝宴を催すという演出です。王子の花嫁選びも王位継承のためのものであり、王子としてはそこに気持ちが切り替えられない一方、王位の責務のようなものも男性臣下を中心にした踊りで表現されているように思い、なるほど『ハムレット』的な雰囲気があります。

 

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第1幕パ・ド・トロワの女性2人はクルティザンヌ(高級娼婦)の設定だそうで、コケティッシュで明るめで、第1幕では彼女達が多分セクシュアルな意味で、第3幕の花嫁を決める王宮舞踏会では各国王女が結婚のために王子にアプローチするわけですが、喪失感を抱えた王子とは明らかに温度差があります。少なくとも今の王子にこの女性達と愛を育むことは無理だろうと思える作りが丁寧だと思いました。通常パ・ド・トロワのところが、王子も入ってパ・ド・カトルになったりもするんですが、少し踊りのテンポをずらしていたり。これは福岡さん達ダンサー側の工夫なんでしょうか。そこでも福岡さんの上体を使った踊りが大きくて、主役感と王族感があるのもよかったです。

 

第1幕最後の華やかな舞曲(以下リンクの曲)が男性中心の重厚な踊りになっていたのも驚きました。雰囲気で言えば、マクミランの『ロミオとジュリエット』の「騎士達の踊り」で最初に男性達が踊る感じに近く、曲が全く違って聞こえます。この曲の振りで一番驚いたのはマシュー・ボーンの『白鳥の湖』で場末のバーでの踊りに使われたものでしたが、それに次いで意外性がありました。

 


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第2幕

解説に「ライト版『白鳥の湖』は、あくまで王子の物語なのだ」とあり、第1幕で王子に感情移入する構成にもなっているのですが、更に驚いたのは、第2幕の湖のシーンのオデットと王子はほぼ通常版と同じでありながら、米沢唯さんのオデットによって、やはり王子の視点で物語に入り込む形になったことです。米沢さんのオデットはひたすら優しく人間的な感情も超越してしまったようにも見え(白鳥を狙う弓を退げさせるところも、ロットバルトに対抗しようとする王子を止めるところも優しいし、第2幕ではそこまで悲しみを見せていない気がします)、踊りの軽やかさでこの世のものならざる美しさを感じます。オデットの感情より王子の憧れとしてのオデットが表現される印象で、それに惹かれていく王子視点になります。王子がオデットの手をとった時に、空気の中に消えてしまいそうな存在を繋ぎ止めた王子の感動が胸に来ました。

 

ここはかなり私の主観や観た時の気分が入っている気もしますが、全体の構造に沿う踊りが凄すぎる!と思いました。昨年放映された英国ロイヤル・バレエ(リアム・スカーレット版)のやはり素晴らしかった高田茜さんのオデットを観る時とは逆の視点になりました。以下の動画の少し前からのパ・ド・ドゥから最後のオデットのソロまでのところです。(こちらは新国立のライト版でもキャストが違う小野絢子さん・奥村康祐さんのもので、米沢さん他の動画はなかったのですが。)

 


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高田さんの第2幕の踊りは、迷いながら王子の愛を信じるオデットの心情の方に目が行きます。これも妄想を綴っている感はあるものの、高田さんは、白鳥の核に1人の女性を感じるオデットで、オデットから王子の肩に触れる時、オデットは既に王子に惹かれつつ、王子とのパ・ド・ドゥでも彼女の迷いや葛藤が伝わり、それを王子(フェデリコ・ボネッリ)がゆっくり解いていく印象です。最後のオデットの羽ばたくようなソロでは心を決めた強さが感じられました。米沢さんのオデットは肩に鳥が止まるようにふっと王子に触れ、最後のソロでは美しく羽ばたく姿に恋する王子の気持ちになります。オデットのソロで、今回、一瞬王子も一緒に収めてくれるカメラワークが本当によかったです、これは王子を入れなければ!

 

同じスカーレット版でもマリアネラ・ヌニュスのオデットはもう少しロマンティック寄りというか主流的というか、王子と相思相愛的なパ・ド・ドゥになっている気がして、ダンサーと振付家両方の相互作用的なところがあるかもしれません。

 

第2幕の共感の仕方という点では、やはりボーン版の『白鳥』に近く、(こちらもキャストによって違ってくるのかもしれませんが)ボーン版だと圧倒的に王子視点で、白鳥の感情よりはその存在の美しさと王子がそれに触れられた喜びが中心になると思います。ボーン版の白鳥は人に慣れない野生の獣的でもあって、そういう意味の近寄り難さとは逆ですが、米沢さんのオデットは儚げで容易に触れられない感じがあり、王子側への共感が作られる気がします。

 

Matthew Bourne's Swan Lake - YouTube

 

第3幕

第3幕の舞踏会シーンも、通常だと花嫁候補の大人しい王女達vs.蠱惑的オディールの構図のところが、ライト版の特性かダンサーの工夫か王女達が結構誘惑的で華やかに思えます。王女達にややライモンダを思わせるような目立つソロがあるので、元々の振付意図かもしれません(ライモンダのキャラ自体は無垢で可憐ながらパッセが続く見せ場のソロは強くて華やかで、そんな雰囲気。スカーレット版もそれを踏襲してか王女達がやはり強めな気がします)。で、当然、王子が既にオデットを愛しているからでもありますが、こういうアピールがやはり今の王子には受け入れられないだろうなーと思えます。優雅に微笑みながら王女達には全くその気がなく受け流し、オディール登場で浮き立つようになる福岡さんの王子。黒鳥とのパ・ド・ドゥでも王子に多幸感があって物語を感じます。

 

米沢さんのオディールは、グランフェッテでダブルもトリプルも入る凄技を涼しい顔でかましながら、でもオディールとしては比較的上品で清楚な気がします。ここも私の感じ方に過ぎませんが、もちろん妖艶さはあるものの、妖艶さで圧倒するのでなく王子のことをわかっていて清楚なふりをしているところに悪女ぶりを感じるというか。そこがライト版での王女達との対比の点でも、涼しい顔で凄技という米沢さんの持ち味の点でもうまく嵌ると思いました。もうどんどん妄想入りますが、更に王子から見れば、儚げだったオデットが舞踏会の場で「公的な顔もできます」と、他の王女達を凌駕するよう振る舞ってくれたと思えるんじゃないかと。昨晩とは全く違う魅力で王子を誘惑したというより、王子側とオディール側、それぞれの理由でオデットとの連続性が感じられる作りにされているような気もします。

 

別の版の別ダンサーの話になるものの、上野水香さんが、インタビューで通常版とブルメイステル版だと黒鳥の表現が変わると語っていてなるほどと思いまして(通常版は誘惑の駆け引き表現が必要で、ブルメイステル版だとすっと立って上から目線の感じ)、米沢さんのオディールもまたライト版にフィットするように思いました。

 

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第4幕の結末部分はそれぞれの版で違って、これもライト版・スカーレット版最後まで書いてしまいます。バレエとはいえネタバレを避けたい方もいると思いますので、画像を挟みますね。ネタバレOKな方は進んで下さい。

 

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写真AC

 

第4幕

ライト版、いきなり結末を書いてしまうと、オデットが死を選び王子が後を追う展開です。王子がオディールに愛を誓ってしまったので、王子と結ばれることも呪いを解くこともできず、ロットバルトの元に留まるしかなくなったことでの結末ということでしょう。王子の亡骸をベンノが抱えて終幕なので、ホレーシオに最期を見取られるハムレットのようでもあり、愛する2人が死を選んだロミジュリ的でもあり。後ろでは亡くなったオデットと王子が手を取り合う姿も出て来ます。悲劇的ではあるものの、ロイヤルのスカーレット版は(私には)もっとやりきれないので、比べるとハッピーエンドに見えます。スカーレット版の話を飛ばして新国立の感想だけ読みたい方はこちらをクリックして下さい。

 

スカーレット版はオデットが1人で死に、残った王子が人間に戻ったオデットの亡骸を抱え、背景には白鳥のオデットという、ライト版+(オデットが人間に戻る)ブルメイステル版のオマージュがあるかもしれない結末です。こちらもやはり、呪いが解けないままロットバルトの元に留まるしかなくなったオデットが死を選んだと思うんですが、ロットバルトがジークフリード王子の王国を狙う描写があったり、オデットが王子を庇うような振りもあり、人魚姫的というか椿姫的というか自分を犠牲にして王子を守ったということかもしれません。

 

第4幕には両版とも同じ曲でオデットと王子の同様のパ・ド・ドゥがあるのですが、この印象も全く違って、やはりそれぞれのストーリーラインに合うと思いました。ダンサーの個性もあるかもしれないものの、ここはスカーレット版のヌニュスと高田さんに類似のニュアンスがあります。スカーレット版の方は、高田さんが見事なバランスのアラベスクを1人で長く立っているところや手の離し方など、オデットが心を閉ざしてなかなか王子を許してくれない雰囲気を感じます。その一方で王子に支えられるカンブレは(すごい反りなのですが)くったりと凭れかかるようで悲嘆的にも一寸官能的にも見え、複雑な魅力があります。なんとなく、高田オデットはどうしようもなく王子を愛していても、完全には許していないような気もして、大人的または現代的な印象です(愛していることについては抱き合う振付がちゃんとありますが、後はかなり妄想入っています)。オデットが身を投げた後、王子が何もせず倒れたままで、最後にオデットの亡骸を抱えて嘆く結末なので、王子の無力さも強調され、彼の過ちを重く見る演出なのかもしれません。第2幕でオデットが迷いつつも王子の手を取ったのに……と思ってしまいます。リアム・スカーレットの事件のことに一言だけ触れるので、リアルで重い話が嫌な方は下画像をクリックして下さい。

 

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写真AC

 

スカーレット版は素敵なのですが、結末まで見るとどうしてもリアム・スカーレット自身がセクハラ・パワハラ加害のため解雇され自死したことが思い起こされて、暗い印象を強めます。(当初、英国ロイヤル・バレエでの「証拠はなかった」という調査結果の記載を、事実関係未解明と誤って解釈し、スキャンダルという書き方をしてしまいました。証拠自体はなかったが、事実はあったと判断するという調査の結論と捉えた方がよいので書き換えました。)上演されなくなれば残念と思う一方、ロイヤル・バレエは、しばらくこれを上演し続けるのだろうか……とも思います。

 

マリアネラ・ヌニュスがオデットを踊ったものは販売されています。

 

ライト版または米沢オデットは、王子が彼女のところに来て謝ったことで救われたような、その時点で彼を許しているような感じです。もう本当に天使的で“それは少し王子に都合がいい作りでは”と頭で思う一方、気持ち的に私はここで完全に米沢オデットに落ちてしまいました。謝る王子の顔を手で優しく包むように上向かせるシーン、好きすぎる……。王子がオデットの元に来る場面では、スカーレット版も含め、白鳥達に隠れているようなオデットを複数の白鳥の群れから王子が懸命に探すパターンが多いと思いますが、ライト版は白鳥たちが弧を描くようにオデットを囲み、王子を彼女に導くようにも見えるので、半分くらいはライト版の意図がありそうにも思います。

 

この後のパ・ド・ドゥは、2人が想い合っていて、オデットが王子の手から離れる振りの時も、悲嘆的・拒否的というより呪いで引き裂かれる感じで、離れがたい手を外からの力で離されるようなニュアンスがあります。どちらの版も、王子が来る前に一度オデットが死のうとして白鳥達に止められていますが、ライト版ではその時はロットバルトもオデットの前に立ち塞がっていて死ぬことすらできない感じを受けます。オデットが王子の愛を実感したからこそ、その愛を全うするために死を選び、王子も愛に殉じて、死という形であったにせよ呪いを解くことができた印象が残ります。スカーレット版と比べると愛に対する信頼が根底にある作りの気がして、悲劇であっても救いがあるように思えました。

 

ロイヤル・バレエの高田茜さんのものはBD/DVDもなく、もうNHKオンデマンドにもありませんが、Takada Akane Swan Lakeで検索するともしかしたら……。