『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター、ジェイミー・ロイド演出『かもめ』+メイヤー監督映画『かもめ』感想

ナショナル・シアターライブの『かもめ』が面白く、また少し前に観たマイケル・メイヤー監督の映画版も結構好きで、2つがとても対照的な作りだったので感想記事にしました。ナショナル・シアターの『かもめ』は関西地区以外は終了していると思いますが、もうすぐNTatHomeに入るようです。映画版は現在amazon prime videoで観られます。

 

NTLiveの公開記念トークイベント(鈴木裕美さんと上野紀子さんの対談)も面白かったのでリンクします。

 

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2作品の話をしていたり、『かもめ』は『ハムレット』が下敷きらしいという話をしていたりするので、今回は好きなところだけご覧いただけるように目次を作りました。

 

『かもめ』は『ハムレット』が下敷きらしい

今回も『薔薇王』でもシェイクスピアでもないと思えるでしょうが、あの、どうやら『かもめ』は『ハムレット』を下敷きにしているらしいのです。ハムレット=コンスタンチン(トレープレフ)、ガートルード=イリーナ(アルカージナ)、クローディアス=ボリス(トリゴーリン)、オフィーリア=ニーナということらしいです。以下のリンクの論文では『ハムレット』が示唆されていることが指摘されています(p.210以降)。

 

http://www.sipec.aoyama.ac.jp/uploads/03/f92ec8e8ffd35402536bc9bd46744875bed63d14.pdf

 

気づかないまま観ていましたが、コンスタンチンとイリーナがハムレットとガートルードの台詞を言ったりもしているのですね。(記憶が定かではないのですが、NTの方ではこの箇所はカットされていたかもしれません。)

 

ということで、シェイクスピア関連ですよ〜、と暗示をかけます。

 

対照的なメイヤー監督の映画とロイド演出のNT版

ロイド演出NT版の方は斬新さで話題なので、どれと比較しても対照的と言えそうな気もしますが、映画とNTで、対照的に思えたのは以下の点でした。

 

メイヤー監督映画版:

・台詞が少し削られたり変えられてもいる一方、台詞にない描写の映像も追加され、よく言えば丁寧に悪く言えば説明的に作られている。

・風景等映像の美しさがいっぱい。

・芸術や人生への苦悩よりは、(得られない)愛情が強調されている印象。

シアーシャ・ローナンのニーナは、前半は比較的(私の)原作イメージ通りの夢見るお嬢さん風。

 

ロイド演出NT版:

・(アーニャ・ライスによるリライト脚本で)台詞はかなり削られ抽象度が上がり、会話の不成立、台詞の含みや裏を感じさせる作り。

・椅子しかなく、演者たちも通常の演技すら抑えた会話のみのような進行。

・愛情よりは、芸術や人生への苦悩に焦点が当たっていた印象(ここは本当に印象にすぎませんが)。

エミリア・クラークのニーナは前半もやや大人っぽい。ボリス(トリゴーリン)の人物像が一番違っていて、ニーナとボリスに割合対等感がある。人物像についてはシャムラーエフもかなり違う。

 

映画版のコンスタンチン(トレープレフ)は、昨年とても印象的な(というか私が好きなタイプの)ハムレットを演じたビリー・ハウルでした。人気の俳優が有名な役を演じたということかもしれませんが、繊細で内向的なのに攻撃的な雰囲気がキャラクターの印象も重なる感じがありました。と言いながら、以下、『ハムレット』と絡ませた内容の考察とかはほぼありません、ごめんなさい。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

NTコンスタンチンのダニエル・モンクスは“Teenage Dick”というアメリカの高校を舞台にした『リチャード3世』翻案作品でリチャードを演じて脚光を浴びたそうです。今回のコンスタンチンはやはり繊細で一寸頑なな雰囲気がハムレットに似合いそうで、彼のリチャードはどんな感じだったんだろう、観たかったなーと思いました。

 

www.theguardian.com

 

trailerも2つ並べます。雰囲気の違いが一目瞭然。(映画版の方はyoutubeに飛ばないと再生できないかもしれません。)

 

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マイケル・メイヤー監督映画版『かもめ』

キャスト

イリーナ    アネット・ベニング
ニーナ    シアーシャ・ローナン
ボリス    コリー・ストール
マーシャ    エリザベス・モス
コンスタンチン    ビリー・ハウル

 

俳優、特に女優陣には高評価でも映画自体は低評価だったらしいですが、舞台では表現しにくいだろう自然の美しさも堪能でき、私自身は面白く観ました。映画版も台詞はチェーホフの原作からそこそこ変えていたり、カットしていた気がします。一方、場面を描写する映像が足されています。上に書いたように悪く言えば説明的でしょうが、わかりやすくなり、私には人物の性格や関係性、話の流れも納得できるものになっていました。英語→日本語の台詞も直截的な印象になりますね。

 

戯曲を読んだ時には全くよい印象がなかったボリス(トリゴーリン)でしたが、ニーナとの恋愛と破局以外の点では、映画版で一番共感したのが実はボリスでした。世間的に成功していても、自分は二流、偽物と思いながら仕事を続けるしかない感じとか……。有名作家の人生に“素敵、素敵”と憧れの目を向けるニーナに対して、“そんな風ではないんだよ”と諭すようなコリー・ストールのボリスが割合誠実に見えたのかもしれません。(このニーナとボリスの場面は、上のリンク動画で鈴木裕美さんが解説する、いい大人が10代の女の子に延々と自分の仕事が辛い話を聞かせているという感じとはやや違う印象でしたし、私が戯曲でなんとなく感じた、自分の名声に悪い気はしないのに辛そうな振りで自己卑下するスノッブな感じもありません。)その後がなければ好印象だった気がします。ニーナと恋人になろうとするあたりからはもう冷めた目で見てしまいましたが、それでもイリーナ(アルカージナ)と別れようとしながらできないところも、ストールのボリスは優柔不断ではあってもあまり不誠実には見えなかったんですよね。

 

コンスタンチンとニーナについては、芸術や人生との関係より、(得られない)愛の方に焦点が当たっているように思えました。『かもめ』はそもそも皆が片想いのようなところがあり、そちらの面が強調されている感じかもしれません。コンスタンチンが撃ったかもめをニーナに持ってくる場面も、2人の芸術理解や価値観のすれ違いを示すものというより痴話喧嘩的に見え、コンスタンチンもイリーナも、ニーナとボリスが一緒にいるのを気にしている様子が描写されます。

 

ニーナの「私はかもめ」からの台詞でも、愛の方に比重があるように思いました。ここは特に私の想像と違っていました。戯曲を読んだ際は、「私はかもめ」に、諦観というか、若かった自分がボリスの予言のようになってしまったことを振り返った皮肉な含意を想定していました。また、台詞の肝はその後の「私は女優」の方で、そんな自虐や自己憐憫を否定して、現在をぎりぎりのところで肯定する台詞と考えていました。酷い生活であっても女優としての人生を肯定し故郷にも帰らずコンスタンチンともよりを戻さず生きていく、と。ですが、シアーシャ・ローナンのニーナは、結構強迫的というか神経症的に「私はかもめ」と言っていて、ボリスに生活を破滅させられたことを憎んでいるようにも、憔悴しているようにも見えます。また、何も知らずに幸せだった過去を懐かしむ一方、それでもボリスを愛しているからコンスタンチンと一緒になることはできないというニュアンスが強く、コンスタンチンもそれに一番絶望したという作りのように思います。

 

戯曲では登場人物への皮肉な視点を感じるところがあったのですが、映画版は、それぞれの人物への理解や愛おしみの感覚が残りました。

 

ナショナル・シアター、ジェイミー・ロイド演出版『かもめ』

キャスト

ニーナ エミリア・クラーク
ボリス トム・リース・ハリーズ
コンスタンティン ダニエル・モンクス
イリーナ インディラ・ヴァルマ

マーシャ ソフィ・ウー
イリヤ・シャムラーエフ ジェイソン・バーネット

 

ジェイミー・ロイドの演出は明確にこれまでと違う作品を志向しています。宣伝やtrailerでも明らかになっている通り、全員が出ずっぱりで舞台装置も椅子のみというミニマルなもので、映画と対極的です。ただ、私としては、その演出以上に、キャラクターの作りが印象的で引き込まれました。

 

一番違う印象を形成していたのはボリス(トリゴーリン)で、彼がコンスタンチン(トレープレフ)と同じ年齢くらいに見えます。原作的にはおそらくコンスタンチンより10歳くらい年上で、既に社会的に成功した、あるいはコンスタンチンより現実を踏まえた人物といったところじゃないでしょうか。映画のtrailerでシアーシャ・ローナンと一緒にボートに乗ったり、“I envy you”と言われているのがボリス、NTのtrailerの方は、エミリア・クラークと見つめ合ってかもめの話をしているのがボリスです。ボリスのキャラも、ボリスとニーナの関係も全然違いますよね! NTの方はこのかもめを語る台詞に恋愛の雰囲気があります。この画像の下から、ネタバレ感想になります。

 

Image by Michael Koll from Pixabay

 

NTのトム・リース・ハリーズのボリスは、有名人が“大したことありません”と自己卑下するスノッブな感じも、自分の才能の限界やつまらなさを理解している老成した感じもありません。外見・実年齢的にも若いし、それ以上に精神的に若いというか幼くて驚きました。自分の小説のどこがいいのか、小説のよさとは何かわからないまま創作を続けてしまっている感もあり、心許なく自信がない様子です。原作コンスタンチンに近いキャラになっている気がします。批評的・客観的捉え方は不得手でも傑作を生み出す天才型なのかもしれませんし、凡庸なのにもてはやされているだけなのかもしれません。

 

一方、ダニエル・モンクスのコンスタンチンは、前半では自分の批評眼に確信と自信があるように見えます。原作を読んだ印象では、コンスタンチンは口では母親やボリスの芸術性を批判していても、世間的に評価はされておらず自信のなさと攻撃性が表裏一体のようにも思えます。ですが、モンクスのコンスタンチンの悩みや苛立ちはそこではなく、よいと思えないボリスが評価されていたり、ニーナの心もボリスに靡いている点の気がするのです。(後から読み返したら、どちらにも取れる書き方になっているのだと気づきましたが。)NT版は、コンスタンチンがボリスを評して「もっと賢い奴だと思っていた」という感じの台詞がありました。日本語翻訳だと「なんだってお母さんは、あんな男に引きずり回されるんです」あたりのところになるのでしょうか。この辺も読んだ時には“芸術的でなく俗物的”というニュアンスに思えましたが、NTの「もっと賢い奴だと思っていた」は文字通りボリスがよくわかっておらず、なんなら頭もよくなさそうという意味にすら思えます。コンスタンチンとボリスが、入れ替わり可能なキャラクターになっているような気がします。その2人が、イリーナ(アルカージナ)とニーナとなんだか複雑な三角関係を作っている感じです。

 

そしてボリスと対話するエミリア・クラークのニーナは、第一幕の時点から、ものを知らず名声に憧れる小娘の感じがしません。ボリスの悩みに耳を傾けて、“あなたは素晴らしい”“私なら苦労を厭わない”と力を与えるミューズ的存在に見えます。だから彼は初めて感じる愛だと言うのでしょう。trailerでの、死んだかもめを見て思いついた“美しく若い自由な娘の人生を、やってきた男が破壊してしまう”という台詞に皮肉が感じられないんですよね。こちらのニーナとボリスは純粋に惹かれ合っているようにも見えます(互いの幻想が入っているとしても)。現実に倦んだ大人のボリスが純粋な若いニーナにふらっと惹かれてしまう構図とは違います。同時に、こういう作りによって、コンスタンチンもまた、自分の創作を支えてくれるミューズとしてニーナを求めていたのではないかと思えます。

 

ニーナに惹かれたボリスはイリーナとの関係を解消しようとしながら元の関係に留まってしまうわけですが、イリーナがボリスを思いとどまらせるところも映画版とNT版では相当印象が違いました。(映画のネタばれですみませんが)映画はなんだかんだイリーナの泣き落としというか、「友人」関係と言ってはいても本当は恋愛関係だったことをどっぷり思い知らせる感じで、「私を捨てるの?」的な重さで食い下がってそれに彼が負けてしまう感じでした。やはり得られない「愛」の方が主軸にある感じですし、映画ではボリスが現実的世俗的判断に戻る印象です。

 

NTの方は、イリーナの「私は嘘を言わない」「ニーナはあなたをおだてているだけかも」という言葉に、再びボリスは自信を奪われ、自ら望んでイリーナの元にとどまると言います。この場面、イリーナの巧妙な支配が嫌な感じに描写されていてすごいです。でも母と息子っぽいんですよね。(NT版ではニーナとボリスの方が恋人らしく見え、イリーナとボリスの方が不釣合いでボリスがいかにも年下の愛人、息子的にも見えます。映画では、原作イメージ通り、恋人らしく見えるのがニーナとコンスタンチン、イリーナとボリスで、イリーナの方がボリスより年上なのは確かですがそれは目立たず、ニーナとボリスでは、ボリスの年上感が際立ちます。)

 

そこで一旦諦めたボリスでしたが、ニーナが家を出る決心をしたことが彼に再び希望を与えたように思えます。ハリーズのボリスは、卑怯または二股な人にはあまり見えず、でも結果的に、まさに甘い雰囲気の中で語られたかもめの話のように、ニーナの人生を壊すことになったということかもしれません。

 

後半になると、創作に対する心許なさはコンスタンチンに移行します。ボリスの方は、コンスタンチンの才能と得られた評価に嫉妬しているように見え、ここにも原作でも映画でも感じなかったボリスの未熟さ大人気なさを感じ、原作前半のコンスタンチンに近い印象をもちます。コンスタンチンに創作に迷いが出てくるのは原作通りですが、コンスタンチンとニーナの再会場面での会話が、前半でボリスがニーナに創作の悩みを語る場面と同様の構図に見えてきます。“あー、またか”に見える作りが素晴らしいと思いました(そう見えること自体私の印象にすぎないかもしれませんが)。コンスタンチンもニーナに救いを求めていて、けれども今回は彼女は救いになることを拒否したように思えました。何のためにどう創作するかという芸術に対するコンスタンチンの問いや迷いは彼女には重要ではなく、「耐えて」続けていくことに価値を見出しているように思えます。

 

クラークのニーナの「私はかもめ」は、あれほどボリスとニーナのかもめのシーンを濃密に作ったにもかかわらず、コンスタンチンとの思い出を“そんな時もあったわね”と懐かしむ様子で語っているようにも見えました。かもめは、失ってしまった憧れと若さの象徴のようにも思えます。コンスタンチンが「僕はこんなふうに自分を殺す」と撃ったかもめ、ボリスが「若く美しく幸福で自由な」ニーナと重ねたかもめ。おそらく、ニーナはもうそんな対象ではなく、憧れを失っても生きていくのがニーナで、ニーナも目的も見失っては生きていけないコンスタンチンという印象です。かもめの剥製も強調された演出に見え、ボリスは、ミューズ的ニーナを手元に留めようとしながら、その中身ー彼女の憧れーを失わせ、戯れに物語った通りにニーナの人生を壊したことに大きな呵責を感じているようでした。

 

最後のこの場面あたりは、台詞の内容が割合そのまま受け取れそうにも思えます。ただ、NTの方は特に、台詞がむしろディスコミュニケーションを示すというか、会話の不成立や失敗であることをかなり意識的に示していた気がします。おそらくそれが一番出るのがシャムラーエフの台詞で、NTのジェイソン・バーネットは、語っている内容と雰囲気が違って不穏な感じでした。原作でも、空気が読めないまま得意げに延々と喋ったり、実務的なことを考えない雇い主に腹を立てたり、階級性を意識させる人物なのでしょうが、更に屈折している感じがします。あるいは、彼の意味するところがイリーナ達上層の人々には見えていないというか。NTではシャムラーエフと妻は黒人キャストになっていて、彼は含むところがあるのに白人/上層の側にはそれが見えないことを示しているのかも、と思ったりしました。チェーホフの、台詞の字義通りの内容とメッセージがずれるような特性はこれまでもなんとなく感じていたものの、それも強調されていた気がします。そのずれも、これまではやはりチェーホフの皮肉な眼差しに思えましたが、今回は皮肉なだけでないもっと豊かな印象になりました。