『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

8月4日再放送!満島ひかり&坂口健太郎『お気に召すまま』

熊林弘高演出『お気に召すまま』(満島ひかり・坂口健太郎出演)が、8月4日WOWOWで再放送ということで、これも是非、推したい作品です。WOWOW加入しないと観られないし加入料金がかかるしでややハードルは高いのですが、1ヶ月の金額は映画より一寸高い程度です。

 

これは昨年のベストと思うぐらい印象に残りました。今年は例年と違って数多くの配信を観ていますが、それでも色褪せることはなく、やっぱり好きだなあと思います。

 

ロザリンド役の満島さんが魅力的で、男装のギャニミードの時にそこまで男の子っぽくはないのに「少女のような、少年のような妖艶さ」(byイーリー司教『薔薇王の葬列』11巻)を感じます。満島さん、リチャードぐらいの年齢ですが、リアルでも少女・少年らしいってあるんだなと思いました。

 

ただ、高評価と辛口評価両方があって結構好き嫌いが分かれそうで、お好みに合わなかったらすみません。

 

下のWOWOWのリンクには「エロスの世界へようこそ」と書かれていて、翻訳から仕草に至るまで相当セクシュアルです。原語の台詞に散りばめられたダブル・ミーニング的な性的掛詞をきっちり拾って新たに翻訳した台本を起こしたそうです。私は原語のニュアンスはよくわかっておらず、想像ですが、多分本来は、そこは性的ジョークで笑ったり、粋なほのめかしになったりする台詞だろうと思うんです。けれど、そのセクシュアルな部分をある意味深掘りしたことが、却って恋愛の真剣さや切なさと結びつくことになった、そんな気がします。いや、ふざけているし、笑えるんですよ。下品といえば下品ですけど、でも真剣に見える。登場人物全員の関係が、何か“想うところ”がありませんか、という風にすら見えてきます。

 

www.wowow.co.jp

 

エロティックな欲望込みの恋愛の切なさ、不安、苛立ちの感覚とか、そして恋愛が成就したらしたで、1つの恋愛を選ぶことや落ち着いてしまうことに対する寂寞感みたいなものが呼び起こされるプロダクションでした。実はそれまで、『お気に召すまま』ってこれほど面白いと思っていなかったんです。

 

『お気に召すまま』の新しい読みを教えてもらったような興奮もありました。ニコラス・ハイトナー演出のナショナル・シアター『夏の夜の夢』でもそうだったように、こちらも性の多様性が意識された作品になっていると思います。

 

一寸ネタバレ的ながら、追放されたフレデリック元公爵(=ロザリンドの父)の側近で厭世家のジェイクスの設定が、この演出効果を高めている感もありました。もう少し詳しいことは下で書きますが、中村蒼さん演じる若くてイケメンのジェイクスが、年配のフレデリック元侯爵(山路和弘さん)に多分想いを寄せていて辛辣なことを言ったり、他の人物に対してもセクシュアルな意味で狂言回し的になったりしているように思いました。

 

Shakespeare’s Globe版では、男装したロザリンドが女性である時以上に生き生きして魅力的だと思いました。満島さんのロザリンドはそれに共通する部分もありながら、オーランドの怪我を聞いた場面だけでなく、恋愛のもつれや自分の振舞に不安定になる感じもあって好きです。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

この後は、一寸うざいかもしれない、この作品が「キャンプ」な感じがしたという話と、更にその後はかなりネタバレ的な話になっています。うざい話は飛ばして、ネタバレでも内容は知りたいという方がいらしたら、こちらをクリックいただくと間を飛ばせます。

 

さて、新しい読みを教えてもらったように思ったことについての話ですが、後から託けて思ったのは、この演出が相当に「キャンプ」な感じがしたということです。2019年のMETガラのテーマにもなったあの「キャンプ」です。

 

www.vogue.co.jp

 

上の記事でも「キャンプ」は、S.ソンタグが提唱した“誇張されたもの”とされていて、“外れたもの、人工的、ありのままでない不自然さとしての美”ととりあえず言えて、ここにクロス・ジェンダーやクイア感を重ねたものだろうと思います。

 

で、ソンタグは、実は『お気に召すまま』をキャンプでない作品としているんですが、それに真っ向勝負を挑むように(それを意識したわけではないでしょうけれど)、キャンプな作品になっている気がしたんです。森に入るシーンで、色とりどりの服が落ちてくるシーンにもそんな印象を持ちました。

 

『お気に召すまま』がソンタグの評価とは逆に、むしろキャンプだという指摘も既にあります(杉井正史「『お気に召すまま』とキャンプ趣味」)。

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_KJ00006955639

 

『お気に召すまま』には「鋭く秘密めいて倒錯的な色合い」がない、としたソンタグに、いや逆だ、ソンタグが『ばらの騎士』に見出した、クロス・ジェンダー的で同性愛的な関係は、『お気に召すまま』にちゃんとある、というのが杉井先生の主張だと思います。すごく面白かったんですが、1つのポイントは、シェイクスピアの時代はオール・メールで演じられたので、少年俳優→女性役→男装という交差があるということです。その点で、女性歌手→青少年役→女装という『ばらの騎士』と同様(逆パターンですが)、同性の恋愛が重ねてほのめかされることになります。もう1つが内容的にで、ロザリンドが男装した時に使った「ギャニミード」の名前は、ゼウスの小姓/愛人から来ており、少年愛の関係を暗示するものだということです。

 

このように解説されると、ソンタグが『お気に召すまま』をキャンプでないとしたことの方がむしろ不思議に思えてきますが、一方で、“気づかぬままにオーランドがロザリンドと本当の愛を育んでいました”だけになってしまうと普通の恋愛喜劇で、ソンタグが萌えを感じなかったのもわかる気はします。例えば『十二夜』の方が混乱が見られて、これまで私が『お気に召すまま』をそこまで面白いと感じなかったのは、こういう危うさを感知していなかったからかも、とも思いました。

 

杉井先生の主張を踏まえると男性がロザリンドを演じてこそとなりますが、この舞台では女優の満島さんがロザリンドで、それでもキャンプな感じはします。多分、最初にも書いたように満島さんに少年のような少女のような危うい魅力があって、“女優だと少年が演じる倒錯感が出ない”とは言わせない素敵な倒錯感があります。そして演出・演技としてもそう作っている気がします。舞台ではこの扮装じゃなくてもっと普通なのですが、下の動画の扮装もキャンプ的な、狙った感じに見えます。その下のポスターの感じとかも。(動画でのコメントは真摯で味わい深い内容で、シェイクスピアの魅力が語られています。)

 

この下から、かなりネタバレになっています。

 


「お気に召すまま」満島ひかりコメント

 

 

 

ロザリンドを女優が演じても秘密めいた危うい色合いになったのは、もう1つは、ロザリンドとシーリアに(特にシーリアの側に)同性愛的な関係が見えたからというのもあるかもしれません。原作でもシーリアのロザリンドへの想いは同性愛的に読める気がしますが、いずれにしても仲が良い設定が通常だろうと思います。ですが、この演出では、最初、ロザリンドとシーリアがなんとなく不機嫌で関係が悪そうに見えて、シーリアがロザリンドに対して高飛車で命令的です。ロザリンドの父をシーリアの父が追放したので2人が対立的な立場になってしまったことに加え、相手への想いを持て余して揺れている感があり、その関係がより濃密で危険なものに見えるんです。シーリアの父の公爵が、いきなりロザリンドも追放すると言い出すんですが、そんなことを言い出したのも、彼女たちの危うい関係を察知したせいではないかと妄想しちゃうくらいです。途中からは通常の仲がよい関係になりますが、ただ、シーリアのオーランドに対するジェラシーのようなものは増している気がします。

 

シーリアの中嶋朋子さんがまたとてもよくて、シーリアは2番手の引き立て役キャラになりがちなのにすごく魅力的でした。ただ、こうなるとシーリアがオリバーと相互に一目惚れするところが腑に落ちなくなるのが難点ではあるのですが。

 

追放されたフレデリック元公爵がアーデンの森で、むしろ自由に生き生き暮らしているのは原作通りながら、これについてもこの舞台では性的に自由に奔放に戯れているという解釈です。(そして、横暴なシーリアの父・現公爵も、ロザリンドの父・元公爵フレデリックも山路さんが2役で演じているのですが、その対照性も見事!)本編後に放映された満島さんのインタビューでは、シェイクスピアの時代に同性間の「火遊び」があったことを演出は踏まえていたと明らかにされていました。ただ、側近のジェイクスは、想像するに「火遊び」では収まりきらない人で、元公爵に対して突っかかっていて本気に見えるんですね。元公爵は奔放に見えるけれど、ジェイクスから見ればそれは本気でなく許される範囲の遊びで、どこまで本気でそこに踏み込んでこられるか、元公爵を挑発しているように見えます。

 

フレデリック元公爵の造形が、ゲイ男性を風刺的にステレオタイプ的に描くものになっているという批判も目にしまして、確かにそうかもとは思いつつ、ただ、キャンプとドラッグ(ドラッグ・クイーンのドラッグですね)の近さから考えるとそれだけではない気もしました。つまり、敢えてのキワモノ感とおふざけ感。そしてジェイクスへの元公爵への挑発があると、同性愛の風刺に落とさないヒリヒリ感が醸し出されるように思うんです。元公爵たちは、まさに遊びにすぎないものとしてそれをしている。でもジェイクスはそうではない、という。

 

それが遊びなのか、本気ゆえに禁忌とされるのか、その境界線を綱渡りする危うさを踏まえた演出に見え、ジェイクスの皮肉屋なところ(というか、ツンデレなところというか)が切なく見えます。

 

(一寸脇道に逸れますが、同じ行為でも「友愛」されるか、「ソドミー」となるか、捉えられ方で違うのだということを『オセロー』について指摘している論文があって、これも面白かったです。多分これに近い形で、許される範囲の遊びか、世間には認められないものかをジェイクスは感じているように思えました。)

https://teapot.lib.ocha.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=39670&item_no=1&page_id=64&block_id=115

 

ジェイクスは、他のキャラクターにも挑発的で、それが影響を与える形にもなります。ギャニミードがオーランドに声を掛ける前に、ジェイクスとオーランドの戯れが入るので(原作では単に冗談を交わすだけですが)、ロザリンド/ギャニミードの立ち位置がすごく微妙になっていました。オーランドはロザリンドのことを好きだと触れ回っている一方で、ジェイクスがオーランドに迫って戯れており、そこに少年ギャニミードが割って入る形です。そのため、男性も好きなんでしょ?みたいな形で関わることになり、ギャニミードとロザリンドが重ならない危うさが出てきます。ギャニミードをロザリンドに重ねて愛を語っているのではなく、ギャニミードを愛しているのではないか、という危うさです。実際、後のインタビューでオーランド役の坂口健太郎さんが、「ギャニミードがもういなくなってしまう」と寂しさを口にするような、ギャニミードにも惹かれてしまったオーランドになって、これは本当に面白かったです。同時に、シェイクスピア自身これをやりたかったのでは、と思うような真正さも感じてしまいました。

 

そしてロザリンド=ギャニミード自身も、そんなこともあって恋愛に振り回され、ロザリンド本人ならできそうもないひどいことをしたり言ったりで自己嫌悪になったり(これは満島さんがインタビューで語っていました)、ロザリンドに落ち着いてしまうことに寂しさを感じているような印象もありました。この辺も少女から大人へというか、青春が終わるような切なさが喚起されていいんですよね。満島さんの少女っぽさが、余計にそう感じさせます。

 

坂口さんは、演出として敢えて未完成にしていて、だから毎回一寸違ってくる、それがいいと言っていましたが、セクシュアリティ的にも完成せずに多形倒錯的なままに終わる感じの演出にも思えました。誰かが特定の性のあり方を体現しているから性の多様性が示されているのではなく、個人の中に層のように性の多様性が存在し、それがどうなったかは、毎回少しずつ違うのかもしれませんし、観客の見方に委ねられる感じもしました。