『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター『コリオレイナス』感想

ジョシー・ローク演出、トム・ヒドルストン主演の『コリオレイナス』は、演出・演技の仕方に『薔薇王』的というか、菅野先生の仕上げとの類似を思いました。(ちょうど感想を書いた6巻25話などとの類似です。)ということで、原作戯曲とどう違うかなどを中心に感想を書きます。

 

ネットの感想や批評などで既にかなり指摘されていますが、このローク版『コリオレイナス』では、マーシャス(コリオレイナス)に対する敵軍ヴォルサイの将オーフィディアスの愛憎が強調されていると思います。『コリオレイナス』は、以前、未読・未見でこちらを観に行きました。その後映画『英雄の証明』(『コリオレイナス』の映画版邦題)を観たり戯曲を読んだりしたら “あれ?なんか印象違う……”と記憶が曖昧になってしまいましたが(だめすぎ)、特に最後部がカットされたり改変されたりしていて、やはり違う作りになっていたんだとわかりました。ただ、台詞については、もー本当に英語ができないのでどこまでカットされていたか覚束なくはあります。

 

この演目でもローク主催のインスタライブがあってありがたく見まして、英語力の関係で怪しいところはありますが(←しつこい)、そこでの解説なども入れていければと思います。もう終了したからというのと、解説を入れたり、原作と対照させたりしたらかなり長くなってしまいました……。

 

(以下、ネタバレしています。)


Official Donmar Warehouse's Coriolanus Trailer with Tom Hiddleston | National Theatre Collection

 

 

コリオレイナス』は、ローマの軍人マーシャスが、コリオライを攻め落とした武功を認められ(その武功を称えて与えられた名前が「コリオレイナス」)、執政官になろうとして失墜する話です。彼はエリート軍人意識が強すぎて政治には不向きだし失言もするしで、結局ローマを追われ、自分を追放したローマに復讐すべく敵方ヴォルサイの将軍オーフィディアスの下に行きます。

 

マーシャスとオーフィディアスは、原作でも敵同士として憎みつつ互いを尊敬・共感している関係です。彼がオーフィディアスを訪れるシーンは、台詞などはほぼ原作戯曲そのままで、細かい工夫が見られる場面になっていました。

 

原作ではマーシャスが下っ端の召使いと話す箇所が、この版ではオーフィディアスの副官的部下と激しく闘い、そこにオーフィディアスが来る流れでした。“ヴォルサイの軍に自分を受け入れるか、喉を掻き切って殺すかしろ”とマーシャスが言う時の緊迫感が高まります。原作だとそうは言っていても、なんとなく余裕があって偉そうな印象を抱くのですが、ここでトムヒ・マーシャスは目に涙を浮かべて膝をつき、喉を差し出します。(剣で闘う時の逞しさに対して、ここで繊細さと被虐性を見せるトムヒが見事。)オーフィディアスにとっては、コリオライを奪って自分を敗北させたマーシャスが、そんな姿で自分の下に来ると言う訳ですよ。喜びますよ。きっとリチャードを自分のものにしたバッキンガムみたいな気持ちですよ。オーフィディアスは、喉を掻き切るかに見せた後、彼を抱きしめキスして「高潔なおまえに会えて、おれの心臓は婚礼の夜はじめてわが家に妻を迎えた時以上に喜び踊っている」と言います。ここはむしろ、原作の台詞に非常に説得力を持たせたところと言えそうです。マーシャスと闘った部下が、ここで、“将軍、俺というものがありながら、なぜマーシャスを”みたいな不審の目を向けるように見える(個人の感想です)のも、人物を集約させたことが奏功した素敵な展開です。

 

そして、マーシャスはオーフィディアスと共にローマ侵攻を企てますが、母親と妻に懇願されて侵攻を中止。それを責められてマーシャスは殺されます。ここは、原作戯曲がカットされて異なる印象になる場面です。

 

この版では、オーフィディアスがマーシャスを吊るして切り殺し、彼の血を浴びるという最後になっていました。殺すのも、マーシャスが家族の説得に絆されてローマ侵攻を断念した直後です。裏切り者という台詞も、共に闘う約束をしたのに離脱するマーシャスが許せないからに思えました。戯曲の方では実は違っていて、ローマ侵攻を中止するというマーシャスにオーフィディアスは表面的には一旦理解を示し、コリオライを今度はマーシャスがヴォルサイ側に取り戻して凱旋したところで、裏切り者だと言って共謀者達の助力を得て彼を殺します。(ローマもヴォルサイも、コリオライ領有は讃えつつ別面でマーシャスを排除する訳で、原作の方が『コリオレイナス』の意味は更に生きている気はします。)原作では、ヴォルサイ軍でも頭角を表し傲慢に振る舞いはじめ、オーフィディアスの地位を脅すマーシャスを、オーフィディアスが嵌めた形です。母親達のために侵攻を中止することも、オーフィディアスはそれで「おれももとの権力をとりもどせよう」と利用するつもりであることが書かれています。

 

原作では、ヴォルサイでもローマの二の舞的な、マーシャスの変わらなさのために身を滅ぼすようにも見えるのですが、この版ではマーシャスが信条を変えたから殺された形だと思います。軍人・戦士の極のようであったマーシャスが、家族の情を優先して、国家との契約や軍人同士の約束を違えることになった訳です。

 

インスタライブで、トムヒは、マーシャスが母親の懇願で変わると語っていました。その場面まで、ずっと攻撃的で容赦のない戦士だった彼が、ここで折れるんだと。涙にくれて、オーフィディアスが非難する“boy of tears”になってしまうが、これは脆弱性(vulnerability)や柔軟さ(softness)を受け入れる彼の成長でもあり、その成長の途端に最期を迎えるとしていました。トムヒは、シェイクスピア凄いという文脈で語っていましたが、むしろそういう形の読みと演技・演出だろうと思えます。また、この版での最終場面の刈り込みによってそれが強調されたように思いました。(シェイクスピア作品の主役を何作も務めて熟知しているトムヒの発言に対して、後から読んで“あ、カットされてるんだ”とわかった私が何をか言わんや、なのは承知の上で。)翻訳版の原作で読む限り、マーシャスは殺されるとは思っていなかったようにも見え、“boy of tears”も、オーフィディアスがマーシャスを誹謗して貶めるだけの台詞にも読めるところを、まさに“boy of tears”になるように造形した訳ですね。そして、マーシャスも家族も、ローマ侵攻断念は誓約違反で死ぬことになるのはわかっていたと、トムヒもロークも言っていました。彼と母親が別れた後も母親に照明が当たって赤い花びらが降り、それが暗示される演出だったと思います。

 

マーシャスのその変化については、トムヒがこちらの記事でも語っていました。

www.theguardian.com

 

殺害についても、原作では貴族や民衆の前の公的な場所で「裏切り者」の汚名を着せて処刑、ローク版ではオーフィディアス軍内数人の中で背信への私刑という印象です。『薔薇王』では6巻でのバーネットの戦いの場面で、登場人物が省略されてエドワードとウォリックに焦点が当たるじゃないですか。ローク版はそんな感じです。原作は『ジュリアス・シーザー』でのシーザー暗殺場面に近い印象で、『ジュリアス・シーザー』と対照的なのかもと思いました。ネットの記事か何かの文献か、どこで見たかもうわからなくなってしまいましたが、独裁者になりそうなシーザー/コリオレイナスを、排除するのが両方ともブルータスだという指摘もありました(マーシャスを殺すのはオーフィディアスですが、ローマから追放するように仕向けるのがブルータス)。『ジュリアス・シーザー』では、排除する側のブルータスに、『コリオレイナス』では、排除される側のコリオレイナスに焦点が当たる形になるということだと思います。

 

(逆に、原作の最後の場面の方は、ひょっとして『薔薇王』13巻で民衆が王宮に押し寄せる場面に使われていたのかも、と思いました。原作では、民衆が、自分の家族が戦争でマーシャスに殺された、マーシャスを殺せと騒ぎ出します。)

 

コリオレイナス』は、このローク版も含めて人々の気持ちの変わりやすさや衆愚的な民主主義のあり様を描いたもの、あるいはそれに示唆的だとする解釈もありますが、私は、ローク版にはその含意をあまり感じませんでした。最後の民衆のシーンの削除も含め、どちらかと言えば価値観や倫理観の対立として描いたような印象をもちました。

 

インスタライブの初めの方で、通常想定されるより若いマーシャスにした理由について、ロークは、マーシャスをアスリート(闘士・戦士というニュアンスでしょうか)として描きたかったからというような話を語っていました。そして当時のローマではアスレティックであることに価値が置かれていたから、とも言っていました。マーシャスの勇敢さを評価しコリオレイナスの尊称を送った軍人コミニアスは、そうした価値観を代表する人物でしょう。ですが、その価値観があるとすれば、それとは異なる市民達の生活を第一とする価値観もあることになります。『コリオレイナス』冒頭は、ローマの市民達が飢饉で困窮し、マーシャスを殺して政府の穀物庫を襲おうとする話になっており、国家が決めた以上のものを要求する市民達をマーシャスは軽蔑し悪態を吐きます。マーシャスの方は、国家を守り忠誠を尽くすのが当然で、国家に要求することも、守られている市民が権利を主張することもおかしいと考えている節があります。高潔と言えば高潔ですが(“too noble”)、為政者には向かないだろうことは原作でも明確に示されている気がします。ローク版は、市民達を少人数にし(少なめの人数での上演が最近の定番ではありますが)、戯画的な扱いにはしないことで、私にはむしろ市民達の個人性やその訴えの切実さを見せ、マーシャスとは違う価値観を体現させたようにも見えました。上のガーディアンの記事でも、トムヒもむしろ市民側の論理を尊重してこの作品を捉えているように思えます。

 

そして闘士・戦士的価値観を最も共有していたのがオーフィディアスなはずで、それに対して最後にマーシャスはそれとは異なる家族への思いを優先させるというのがこの版の解釈かな、と思いました。ロークは、特に家族がマーシャスに色々な思いを押しつけたとも言っていたと思います。

 

本編は終了してしまいましたが、ロークのインスタライブは録画されているので、まだ見られます。すごく長くて本編の映像とかは出てきませんが、トムヒは素敵です。

https://www.instagram.com/josierourke/

 

ストラスフォード・フェスティバルでも『コリオレイナス』を配信していたのに、配信中は観なかったんですよ。観るものが多すぎて……ということはあるんですが(しかも作品がいいとトークも見ちゃったりするし)、原作とこんなに違っているとわかり、こっちを観るからいいやと安易に考えてはいけないと思いました。こちらはどういう作りか気になってきましたし、演出がロベール・ルパージュというのも後から知り、Trailerを観たら現代化されていて面白そうでした。ストラスフォード・フェスティバルからはレンタルできる……。まだ配信作品も多いし、Marquee.TVの『コリオレイナス』も観ていないし、そちらが先!ではありますが……。

 

 

(※小田島雄志訳・白水社版から引用しました。表題のみナショナル・シアターに合わせて『コリオレイナス』にしています。)