『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ストラトフォード・フェスティバル他『コリオレイナス』感想

ストラトフォード・フェスティバルのロベール・ルパージュ版『コリオレイナス』、ナショナル・シアターのローク版とはまた全然違って面白かったです!

 

現代の設定にしてあり、例えば最初の市民達のシーンはTV討論番組のようになっていたり、LINEでやりとりがされたりします。後から書きますが、『コリオレイナス』と今日のソーシャル・メディアやマス・メディアと政治状況との関係が重なると考えてのことだそうです。舞台なのに、多分プロジェクション・マッピングなどを効果的に使った贅沢でスピーディーな場面転換で、車を走らせるシーンもあり、映画を見ているようでした。ですが、それ以上に面白かったのは、特にコリオレイナス(マーシャス)が全然違う印象だったことです。ローク版とは場面や台詞のカットの仕方がかなり異なっているせいもあるのでしょう。

 

(ナショナル・シアター版についての過去記事では、主人公をマーシャスと記載していますが、SFルパージュ版では、プログラムやトークコリオレイナス呼びなので、コリオレイナスの記載にしました。視聴者へのプレゼンの違いかもしれませんが、ロークやトムヒは割と“マーシャス”呼びだった違いも面白いですね。小田島雄志訳を引用するのでコリオレーナスの方がいいんだろうと思いつつ、この表記については前記事と同じくコリオレイナスにしました。)

 

MARQUEE.TVにもロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの『コリオレイナス』が入っていて、MARQUEE.TVのシリーズで書こうかと思っていたのですが、ストラトフォード・フェスティバル版を観たらすっかり気持ちを持っていかれてしまったので、SFルパージュ版感想をメインにすることにしました。その前にRSC版に一寸触れますー。SFルパージュ版の方にすぐ進む方はこちらをクリックして下さい。

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーコリオレイナス

RSCの演出家のアンガス・ジャクソンも、やはり『コリオレイナス』が現代的だとして、現代設定というかifの未来設定にしたそうです。ジャクソンの方は、飢饉、戦争、階級格差、そして予想外な形でリーダーが交代したり、本来の利益に反するものに人々が投票したりする事態に現代との類似を述べていました。ジャクソン版では、コリオレイナスの執政官就任を阻む護民官シシニアスとブルータスの2人を女性にしています。それも、今の人々が自分達の声を代表する人を選ぶなら女性である可能性が高いからという理由だそうです。

 

(以下、微妙にネタバレになっていたらすみません!避けたい方は次の見出しまでうまくスキップして下さい。)

 

www.rsc.org.uk

 

とはいえ、印象としてはむしろ原作通りの感じで、そこまで現代は意識せずに観ました。下のローク版の感想記事で原作と比較したのですが、そこに書いた原作イメージに近いです。ただ、Sope Dirisu演じるコリオレイナスはそこまで傲慢で危険な感じはしないので、その分シシニアスとブルータスが姑息で当面の政治局面しか考えていない人物に見えます。(ローク版でのこの2人は卑劣さはあったものの、それなりの理を感じました。また、後から書きますが、ルパージュ版だともっと狡猾で老獪です。)その2人を人々の代表として選ばれた女性にしたことは、却って微妙にも思えます。オーフィディアスとの関係については、ライバル/朋友設定のみの演出がちゃんとあるんだなと確認できましたね。

 

baraoushakes.hatenablog.com

  

 

ストラトフォード・フェスティバル『コリオレイナス

最初にも書いたように、アンドレ・シルズ演じるコリオレイナスは、他とかなり印象が違いました。もちろん、それぞれの演者で役の印象は異なりますが、特にこちらのコリオレイナスは、多少短気で不器用なところはあっても高潔(noble)な人格者の印象で、あまり傲慢な感じもしません。というか、コリオレイナスがこんなに人格者な感じになるなんて!『ジュリアス・シーザー』の方のブルータスみたい。(コリオレイナスとブルータスでは政治的な見解は異なるでしょうけれど。)ブルータスは高潔なために逆にアントニーにしてやられてしまうんですが、そんな感じでした。本作の護民官ブルータス(←たまたま同名)とシシニアスの方がアントニー的な立ち位置に見えます。

 

比べると、トムヒ・コリオレイナスは、若いエリートの潔癖さと高慢さ、同時にその底にある自信のなさのようなものが出ていた気がします。ローク版は、デキる一方で脆い主人公の悲劇をはらはらしながら観る、ルパージュ版は、律儀な主人公が陥る策謀と不運を歯噛みしながら観るといったところでしょうか。

  

以下から、かなりネタバレになります。

 


Coriolanus Trailer | Stratford Festival On Film

 

例によってyoutubeトークを見たりプログラムも一寸見たりしちゃったんですけど、こういうコリオレイナス像はやはり演出意図なんだろうと思いました。(ストラスフォード・フェスティバルもここからプログラム提供しています。)

 

www.stratfordfestival.ca

 

コリオレイナス』と現代の状況との近さについて、ルパージュの方は、ソーシャル・メディアやマス・メディアのあり方や、時にフェイク・ニュースが意志決定に影響することなどを述べています。市民の意見表明の必要性もあるし、他方で誤った情報の拡散や世論におもねる政治の問題性があるとし、そのバランスを考えたとき、ルパージュは、以前よりもコリオレイナスに味方したくなったと述べています。市民を非難するマーシャスの台詞は(記憶や英語力が怪しいですが)多少とも削られていた気もして、清廉さを打ち出したんだろうと思いました。youtubeトークの方では、「コリオレイナスは英雄か悪人(villain)か」と質問されたシルズが、「どちらとも言えず、いわばアンチ・ヒーローだけれど、信念に裏打ちされた人。戦場には向いているが、そのエネルギーをどう制御するのかが課題になる人だと思う。」と言っていましたが、この版では、ハムレットなどよりよっぽどできた人に思えます。

 

オーフィディアスのコリオレイナスへの気持ちや、オーフィディアスと副官の関係は、ローク版では“妄想が捗る”感じの微妙なラインになっていたのに対して、ルパージュ版では公式です。ルパージュ版でも複数の人物が副官に集約されて、こちらはオーフィディアスと副官が周囲には伏せているだろう愛人関係であることが示唆され、すごい効果を発揮しています。(あらすじ順的に、メディアと市民との関係を先に書きますので、オーフィディアスとの関係だけ読んであげてもいいという方は、蝶の画像の下に進んでください。)

 

ソーシャル・メディアやマス・メディアの状況を重ねようとしたルパージュ版では、市民達が実体としてはほとんど出てきません。最初に飢饉への対応に怒るシーンはTV番組に寄せられる声のみ。(メニーニアスがその番組で議員ゲストスピーカーのように発言する形で、やや胡散臭くも見えます。)シシニアス達が、市民達に働きかけてコリオレイナスを追い落とそうとするシーンは、シシニアス達が電話で一方的に話す形で市民の台詞はカットされています。市民の声を代表し守るというより、その名目で自分達の利権を守ろうとして、まさにフェイク・ニュース的に世論を操作しているように見えます。この版では、貴族側の元老院・対・市民の選んだ護民官の区分はあまり見えず(見せず?)、シシニアス達は対立する政党や派閥の議員のように見え、コリオレイナスもあまり問題のある人ではないので、一層、権力や利権をめぐる彼らの権謀術数を感じさせます。コリオレイナスの執政官就任に人々が反対の声を上げる箇所は議事堂建物の窓からその影だけが見える形にされています。また、追放されたコリオレイナスがローマ侵攻を企てた後にそれを断念し、市民も含めてローマ大喜びみたいな場面もカットされ、シシニアス達が電話で報を聞くだけになっています。シシニアス達はもちろんほっとしますが、コリオレイナスの苦渋の決断も、あっさり受け取られる印象にもなります。最後のヴォルサイの場面は、広場でなくオーフィディアスの私宅で展開する形になっていて市民達は登場しません。

 

唯一、市民が登場するのが、コリオレイナスが執政官の推薦票をもらう場面のみです。6人市民が出てきますが、うち1組は高齢者と介護者、もう1組はろう者と手話通訳者にされていました。ろう者と手話通訳者に、“Your voices: for your voices I have fought(中略)for your voices have done many things,”とvoicesを繰り返すという皮肉でコミカルなシーンにされています。同時に、この場面の日本語訳では、voicesは「推薦」になっていて、多分英語でもここでは票や推薦が想起されるものを、もう一度“人々の声とその代理との関係”を考えさせるものにしているようにも思えます。高齢者と介護者の方では、高齢者の方はコリオレイナスに色々条件をつけているのに介護者の方が“推薦するよね”と勝手に言うような感じで高齢者から手を叩かれるなど、細かく工夫されています。また、この舞台では、まがりなりにも直接市民に会ったのはコリオレイナスだけにされています。考えすぎかもしれませんが、これも従来とは逆に、コリオレイナスの誠実さを示唆している気もします。

                                                                                                                                                                

シルズ・コリオレイナスのいい人感は、家族との関係でも示されているように思いました。妻ヴァージリアとの関係が他の版よりいいように思うんです。ヴァージリア自身が他の版より穏やかで柔らかい雰囲気なのに加え、お互いを理解している感があります。マーシャスが妻に「おれが棺桶に入って帰れば笑顔を見せてくれたのか、勝利の帰還を泣き顔で迎えるとは」と言う台詞があるのですが、(こんな台詞なのに)とても愛情を感じる言い方なんですよ。ローク版では、愛情はありそうだけど表現下手!な感じでした(こちらの微妙な空気もよかったです、演者の方たちすごいですよね)。これまで私はこの夫婦に価値観のズレを感じていましたが、トークでシルズが「ヴァージリアはコリオレイナスの自由意志の現れだと思う。母親とは反対の静かで穏やかな女性を彼は選んだ。」と解釈していて、それも新鮮でしたし、その雰囲気が伝わる演技に感動しました。ヴァージリアをちゃんと見ているコリオレイナスなんですよね。

 

苛烈な母親にもそれなりに折れ、でもあまりマザコン感が出ないのも、妻への愛を感じたり、あまりムキにならないからかと思いました。トムヒ・コリオレイナスは、執政官にしようとする母親ともギスギスした感じになりましたが、こちらは“はいはい、仕方ないな”となんだかんだ母親を甘やかして折れちゃう感じです。ローク版では、その分オーフィディアスがコリオレイナスと本当にわかり合える者同士に見えましたが、ルパージュ版にはそこまでの孤高感はありません。(なので、ルパージュ版では、コリオレイナスに片思いのオーフィディアスの方がむしろ孤独に見えます。)

 

このようなコリオレイナスと、対するシシニアスやブルータスの造形なので、コリオレイナスが執政官就任を拒否され、シシニアス達の挑発から暴力を働きそうになっての弁明シーンも、コリオレイナスに同情的に観てしまいます。ローマに尽くしてきた自分を「裏切り者」と言われ、それが耐えられなかったんだろうな、と。トムヒ・コリオレイナスがそこでどんどんまずい発言をする様子には、“メニーニアスやコミニアスは、早く止めてあげて”と思ってしまうのに対し、シルズ・コリオレイナスには、怒りで机までひっくり返す彼に“もうローマでこんな仕打ちに耐えなくていいよ”と言いたくなります。

 

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makieni      写真AC

 

オーフィディアスのコリオレイナスに対する気持ちや、オーフィディアスと副官の関係については、youtubeトークでも語られていました。追放されたコリオレイナスをオーフィディアスが熱烈歓迎するシーンが同性愛的だというのはどうも大前提のようで、演出家がどう処理するか考えなくてはいけない箇所らしいです。芸術監督のチモリーノが、オーフィディアスに同性パートナーがいる設定にしたことは面白いと言及。ルパージュは同性愛的文脈を強調はした(underline)が、オーフィディアスのオブセッションがあること自体愛と憎悪紙一重の関係なので、見ないことにしてはいけない、でも強調しすぎてもいけないと言っていたと思います。そう言われていたから公式というだけではなくて、ローク版とは微妙に作りの違いを感じます。『夏の夜の夢』の、シェイクスピアズ・グローブ版のオーベロンとパックの“妄想できる”関係と、ナショナル・シアター版のオーベロンとボトムの公式の関係とが違う、そんな感じです(ここまで明確な描写はないですが)。

 

ルパージュ版では、追放されたコリオレイナスが、閑散とした部屋で2人きりでオーフィディアスに会う形になっており、こちらもコリオレイナスは覚悟を決めて膝をつきます。やはり殺すかと見せた後にコリオレイナスを抱きしめるオーフィディアスの触れ方がかなり肉感的で、「マーシャス、マーシャス」という台詞の色気は、ローク版のフレイザー・オーフィディアスよりすごい。でも、コリオレイナスにはそれがわかっていない、というズレもしっかり示しています。その後は戯れのように取っ組み合いになりますが、ここも意味深に見えます。レスリングをスローで再生すると愛し合っているように見えるというジャン・コクトーの言葉をルパージュは引いていたので、それを狙ったんだろうなと思いました。

 

ただ、コリオレイナスを迎えたオーフィディアスは予想しなかった葛藤を抱えることになります。コリオレイナスは自分のものにならないし、むしろ部下達を惹きつけ自分の力を奪っていく。その状況を愛人の副官が心配してオーフィディアスに告げ、この時点でオーフィディアスはかなり苦悩しています。“He bears himself more proudlier, even to my person, than I thought he would when first I did embrace him: yet his nature in that's no changeling; and I must excuse what cannot be amended.”(「あの男はこのおれにたいしてさえますます傲慢になっていく、最初に抱き合ったとき、こうなるとは思いもよらなかった。だがそれがあの男のとりかえようのない性分だ、なおせぬものは黙って見のがしてやらねばな。」)この台詞が、副官への言い訳とオーフィディアスの煩悶に聞こえるんです。原作で読んだ時は、ヴォルサイでも傲慢になったコリオレイナスが“オーフィディアスの地位を脅かす”苦々しさを語る場面と思いましたが、こんな、こんな含蓄のあるシーンだとは。“his nature”が、性的指向のことに聞こえちゃいます(←ここは個人の感想です)。

 

ルパージュ版でのコリオレイナス殺害は、ローマ侵攻中止という裏切りへの怒りというより、オーフィディアスが魅了される愛憎の対象を抱え込んで制御できなくなったことが原因であるように思えました。ローマ侵攻中止は、その理屈づけの感じ。家族がコリオレイナスを訪ねてきた後、原作ではコリオレイナスが「母上、母上、なんということをなさいました!」と自身の心が動かされローマ侵攻を断念することを母親に告げながら、オーフィディアスにも了解を求めますが、この版では、オーフィディアスに侵攻断念を告げる台詞もオーフィディアスが策略的にそれを承認する台詞もカットされています。コリオレイナスは何も言わずに家族を帰し、この台詞は独白にされています。この独白の直後にローマ侵攻中止がシシニアス達の非常に短くあっさりしたシーンの中で示され、次いで悩みながらコリオレイナス暗殺を考えるオーフィディアスのシーンに移行します。ここでも副官が重要な役割を果たします。

 

ローク版では、オーフィディアスと価値観を共にしたコリオレイナスが転向し、そしてある意味覚悟の上で殺されたように思えました。一方、ルパージュ版では、コリオレイナス自身は変わらないまま、交わるかと思った線が平行線であったことに耐えられなくなったオーフィディアスが暗殺を決意したように見えました。原作同様、コリオレイナスは殺されるとは思っていません。

 

ただ、そのコリオレイナスの変わらなさは、原作のような傲慢さではなく、高潔さや家族への愛やきちんと恩義を果たす点においての変わらなさです。ローク版では最後に家族の情を優先した形でしたが、ルパージュ版では、元々家族には甘いコリオレイナスが、更にローマ侵攻の倫理的な問いを突きつけられて決断したようにも見えました。家族の前で決断するのではなく、その後一人で悩む形にされていることも彼のローマへの遺恨に対する決着に見えます。流れは原作通りなのですが、ローマ侵攻は中止してもコリオライをヴォルサイに取り戻したことで恩義は果たしたとコリオレイナスが考えている風だったり、もう一方のオーフィディアスは苦悩しながら理由づけをしている風なので、このコリオレイナスは筋が通っているように思えるのです。

 

最終場面も(私の)原作イメージとはかなり違う印象でしたがドラマティックで、この関係性では、やはり殺されるしかなかったんだろうと思わせる展開が見事でした。

 

ルパージュやシルズのトークは以下で見られます。

 


Preshow with André Sills and Robert Lepage | Stratford Festival On Film