『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

フィンランド国立バレエ『夏の夜の夢』『ロミオとジュリエット』他感想

油断をしていたらあっという間に11月で、フィンランド国立バレエの『夏の夜の夢』が終わってしまうので慌てて観ました。フィンランド国立バレエの『夏の夜の夢』と『ロミオとジュリエット』、スウェーデン王立バレエ『ジュリエットとロミオ』3本の感想です。

 

フィンランド国立バレエ『夏の夜の夢』

ヨルマ・エロ(Jorma Elo)版は、原作の流れに忠実で、しかも台詞を体現するような振付になっており、言葉がないだけでほぼそのままの『夏の夜の夢』という印象です。職人達の芝居こそなかったものの、ハーミアの父まで登場して(!)、もしかしたらバランシンやアシュトンのものより見やすいかもしれません。最後の方だけは原作よりもバレエのフィナーレの感じでしょうか。こちらも、衣装も装置も美しくてうっとりします。光る衣装を着た妖精の子達もかわいい……。

 

最初にパックが一瞬登場し、直後に『スパルタクス』風の逞しいシーシュースがヒポリタにプロポーズ。2人の愛のパ・ド・ドゥもあって、このバレエでは2人の間に問題はないようです。職人達についても、ボトムやクィンスがこの人かな程度ではなくて、“ああこの人きっとこの役だ”と見せる形になっています。ここのところ続けて『夏の夜の夢』を観たせいで、職人の劇中劇の配役を私がすっかり把握したせいかもしれないのですが……。

 

音楽はメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』がメインで、ただ、途中に交響曲イタリアが入っていたり、曲の順番が入れ替えられたりしているようです。

 

森のシーンになってから『夏の夜の夢』の有名な序曲が流れ、クラシック・チュチュを着たタイテーニアが華やかに登場します。森のシーンが盛り上がり、その前のシーシュースとヒポリタのパ・ド・ドゥやアテネの恋人達が森に行く流れを見せるためにも、いい曲の入れ替えですね。先に森のシーンがあるとアテネの流れが地味に見えちゃいそうですし、現実の恋人達が森の幻想空間に迷い込んだことが感じられます。アテネの女性達はワンピース型(ジョーゼットと言うらしいのですがジュリエットが着ているような衣装)で、妖精達がチュチュを着ています。パリ・オペラ座のバランシン版とは衣装が逆の感じです。

 

バランシン版よりエロ版の方が、タイテーニアも、シーシュース達も強そうなイメージです。結婚行進曲での踊りが、男性が古代アテネ武人風の衣装、女性がジョーゼットの群舞なので、結婚行進曲が凱旋行進曲のようにさえ聞こえました。こうやって改めて聞くと結構強い曲ですよね。その後に、しっとりとロマンティックな曲になる流れも素敵でした。

 


Kesäyön unelma (Suomen Kansallisbaletti / Finnish National Ballet)

 

フィンランド国立バレエ『ロミオとジュリエット

ナタリア・ホレシナ(Natália Horečná)振付。『夏の夜の夢』がすごくわかりやすかったのに対して、『ロミオとジュリエット』は物語も音楽もかなり前後の入れ替えがあり、音楽も“え?このシーンでこの曲を使うの?”と思えるくらい、解体して再構築したかのような不思議な作品でした。そして『薔薇王』8巻32話を彷彿とする、悲劇を後から戯画化するかのように思える展開がありました。

 

ロミオ役・ジュリエット役の他に彼らの魂のような役(Spirit)が2組いて、Spirit達は裸体を思わせる衣装です。最後の方では皆衣装を脱いで魂のようになったりもします。冒頭はノートに何かを書くロミオ、次いで惹かれ合う魂達の役が登場し、そしてパリスと結婚させられることに嫌悪感を顕わにするジュリエットのシークエンスです。ジュリエットとパリスが踊る周りで大人達のカップルが踊り、こちらの方は皆、世間のきまり通りに結婚した夫婦に見えます。ロミオと出会わなければ、ジュリエットはこういう夫婦達の1組になったのだろうとも思えますが、ジュリエットはそんな結婚から逃げ出したいようです。惹かれ合う魂と、型通りの愛のない結婚との2つの可能性がジュリエットにはあったように思えました。(もしかしたら、単に後半の場面と入れ替わっているだけなのかもしれませんが。)そんな状況の中で、ジュリエットはロミオに出会ってしまったという展開に思えました。そして、最後の方で皆が衣装を脱いでいたり、ロミオとジュリエットの魂が、1組でなく2組で踊られているところからすると、型通りの結婚・対・魂が求め合う相手の選択は、誰にでも起こりうるものとして示されているようにも思いました。

 

通常版のロミジュリでは、ロミオがティボルトを殺害して追放を言い渡され、追放前にロミオとジュリエットが結ばれて、その後ジュリエットがパリスと結婚させられそうになったために薬を飲んで仮死状態になる流れです。ですが、ホレシナ版では、ティボルトとロミオの対決と並行して、ジュリエットがパリスとの結婚を避けようと薬を飲み1幕最後で既に仮死状態になってしまいます。通常版の1幕最後はティボルトの死を嘆き悲しむキャピレット夫人の見せ場になっていますが、キャピュレット夫人がここでジュリエットの死を嘆く形になるのはいいなと思いました。ジュリエットとロミオは、多分バルコニーシーンで既に結ばれたんだろうと思える振付・演出です。2幕で2人が結ばれた後に別れるシーン(寝室のパ・ド・ドゥ)は魂の役が踊っています。

 

ロレンス神父は、派手な道化的にも見える衣装でかなり最初の方から登場し、トリックスター的なのか無力なのかよくわからないキャラクターになっており、ヴェローナ大公は最後にだけ出てきて惨状に怒り狂います。この2人の位置づけは今ひとつわからないのですが、かなり存在感がありました。

 


Romeo ja Julia / Romeo and Juliet (Suomen kansallisbaletti / Finnish National Ballet)

 

スウェーデン王立バレエ『ジュリエットとロミオ』 

マツ・エク振付版は、現代化していて話もオリジナルとは変わっているのですが、ホレシナ版と比べるとむしろわかりやすい気がして意外でした。但しタイトルは『ジュリエットとロミオ』。ジュリエットが木田真理子さん(この役が評価されてブノワ賞を受賞したとされています)、ロミオがアンソニー・ロマルジョ(日本人名だけ「さん」づけのダブスタ、すみません)。

 

こちらも主にブルーレイの解説になっているので申し訳ない感じはしつつも、木田さんや作品の情報があります。

https://www.hmv.co.jp/news/article/1405290033/

 

エク版ホレシナ版の2作に共通で印象的なことの1つが、ジュリエットが幼い設定で結婚に怯えているように見えることでした。マクミラン版でもジュリエットが人形をもって登場しますし、ヌレエフ版ではティボルトと手遊びをしたりしてやはり幼さは描かれているのですが、その幼さは可愛らしさや純心さと結びついている感じで、“初恋もまだなのに結婚させられるのか、かわいそうに”とはあまり思いません。エク版やホレシナ版では、ロミオを愛するようになったからジュリエットがパリスを拒否したのではなく、ジュリエットは決められた結婚を最初から嫌がっているように見え、「児童婚」のことが頭をよぎってしまうほどです。原作でも14歳設定なので(シェイクスピアはむしろ元の話より年齢を下げています)、過去と現在では状況が異なるとはいえ現在の感覚では結婚には早すぎる年齢で、それをどう解釈するかの違いになっているようにも思います。また、何百年前に書かれた作品の中で、その若いジュリエットが好きな人と自分の意志で秘密結婚しているのに、現在でもそれができない少女達がいる訳ですよね。特にエク版はそういう含意もあるんじゃないかと思ってしまいました。

 

結婚が不幸に見えることと関わる、キャピュレット夫人と乳母のキャラクター設定や掘り下げも興味深かったです。キャピュレット夫人はティボルトと多分恋愛関係にあって、そういう演出や設定自体はよく見るのですが、それだけでなくこちらでは夫人とティボルトがそれに苦しんでいます。原作では、夫人が、ジュリエットの年齢でもう母親になっていたと言っており、夫人もまた多分恋を知らないまま結婚し今苦しんでいる、そんな風に見えます。そして乳母は夫人の煩悶を知って心を痛めているという振付・演出です。乳母がかなり年配の設定で、夫人にとっても乳母だったようにも想像でき、彼女は、夫人の二の舞をさせたくなくて、ジュリエットとロミオとの仲を取り持ったのではないか、と思えてきます。

 

とはいえ、おうちシアター記事の方で自分で紹介しておいて、アラブの春と重ねられた話になっていることはすっかり忘れて観ていました。「“アラブの春”の象徴的な出来事であったチュニジアの露天商モハメド・ブアジジの事件を重ね合わせ、ロミオとジュリエットの死を引き起こしたのは社会や家族の構造だという解釈」だそうです。確かに上述のことも含め、若者達の置かれた抑圧的な状況とそれに抗うエネルギーは感じます。また、原作のモンタギュー家のロミオ達が多分下層にいる人々で、キャピュレット側が支配側のような設定だろうと思いましたが、それはブアジジの悲惨さとは違うもののような気がして、この話とロミジュリを絡めると、ブアジジの受けた理不尽さを矮小化なり歪曲するような懸念は感じます。支配関係や女性の抑圧程度の設定でいいんじゃないかという気もしました(←やっぱりわかりやすくないじゃん。そして、私、何か偉そうな言い方ですね)。

 

ロミオは、そんな状況でも腐らず前向きに生きている人物の気がします。こちらは原作よりも苦労している分、大人感や包容力を感じるロミオです。原作通りロミオはロザラインに恋をしているんですが、恋に恋しているようなロザラインへの憧れと、ジュリエットとの出会いが全然違っています。それはジュリエットにとってもです。もう運命の相手。舞踏会で、2人は旧知の懐かしい人のように真っ直ぐに互いを見つめて歩み寄ります。そして、バルコニーシーンでの自由と躍動感。マクミラン版などでは、恋愛のときめき感のある場面ですが、エク版では特にジュリエットが、ここで本物の自分になったかのように伸び伸びとしています。しかも2人の息がぴったりとあっていて、お互いを自然で不可欠な存在として受け入れているような印象です。

 

ジュリエットは、可憐というより、真っ直ぐで意志が強くて、ファム・ファタール的にすら見えるところもあります。男を惑わせる意味でのファム・ファタールではなく、自分も相手も滅ぼしかねないような一途さというか。

 

下の記事で、ロミジュリは恋愛のきらきら感や2人の特別感がないとイマイチみたいなことを書きましたが、エク版を観て浅はかだったなと思いました。エク版は、2人が他のバレエ版のような麗しい感じではなく、(振付やダンサーの身体能力は勿論すごいんですが)むしろ普通の若者のように作られています。でも、だからこそ、誰にとっても、心を許し合い求め合う相手と出会って一緒にいること自体が美しく感動的なのだと思わされます。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

上のリンクの解説にもあるように、エク版はチャイコフスキーの様々な曲を使っていて、バルコニーシーンは交響曲第5番第2楽章。『眠りの森の美女』で王子と夢の中のオーロラ姫が踊る第15曲とかなり似た曲調のもので、とても合っていました。

 

主役の2人や上で書いた以外のキャラクターも結構よくて、スキンヘッドのマーキューシオも推しです。

 


Julia & Romeo by Mats Ek - Royal Swedish Ballet