『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

劇団四季ミュージカル『ゴースト&レディ』(配信)感想

藤田和日郎原作、高橋知伽江脚本・歌詞、富貴晴美作曲・編曲、スコット・シュワルツ演出

 

例によって期限ギリギリ視聴になってしまい、配信は本日21日まで!(購入は多分21時まで)

 

www.shiki.jp

 

キャスト情報

『ゴースト&レディ』ライブ配信実施のお知らせ|最新ニュース|劇団四季

フロー(フローレンス・ナイチンゲール) 谷原志音
グレイ                 萩原隆匡
ジョン・ホール軍医長官         野中万寿夫
デオン・ド・ボーモン          岡村美南
アレックス・モートン          寺元健一郎
エイミー                町島智子
ウィリアム・ラッセル          内田 圭
ボブ                  平田了祐

 

原作も四季版もシェイクスピアの台詞がいっぱい

原作は黒博物館シリーズなので学芸員が出迎えて話を聞く形式ですが、四季舞台版『ゴースト&レディ』の素敵なところはまさに劇中劇構成としていることだと思います。グレイが劇場に住むゴーストでもあるし、フロー(ナイチンゲール)の物語を見せることと四季版グレイがやりたかったことが重なり、粋で胸熱な作りにもなっています。舞台装置も劇場が基本で、それが軍病院などにもなる形です。

 

芝居に詳しいグレイなので、シェイクスピアの台詞がそこここに散りばめられています。原作の方ではその引用が様々な喩えに使われていて、四季版もそういう面もありつつ、やはり劇中劇的な構成とも絡められている気がします。『お気に召すまま』の“世界は舞台、人はみな役者にすぎぬ”の台詞は、四季版のみじゃないでしょうか(原作漫画の参考文献に『お気に召すまま』が上がっていなかったので。四季版の方が引用作品は多分少なめです。)。『夏の夜の夢』のラストの台詞は両方で印象深く使われていました。

 

2.5次元的というより多分四季的

漫画原作でもいわゆる2.5次元的というより、アニメからのディズニー・ミュージカル、歴史物系(?)ミュージカル、漫画原作の宝塚版に近い印象でした(三者ともそんなに詳しくはないですが)。話として『オペラ座の怪人』や『エリザベート』を連想したりしますし。原作漫画の方はぶっとんだ雰囲気がありますが、四季版はもう少し伝記風でおとなしめ、ロマンティックにもなっているので、そう思うのかもしれません。

 

藤田和日郎 黒博物館 館報ーヴィクトリア朝・闇のアーカイヴ』の共著者、久我真樹先生がnoteで『ゴースト&レディ』の登場人物の歴史的・伝記的な解説を書いておられ、漫画の方も相当に資料を参照していることが伺われますが、四季版の扮装はフローをはじめ更に実在人物寄り! ジョン・ホールは漫画では風貌も怪物的ですが、四季版はこちらの写真に近いですよね。ウィリアム・ラッセルは漫画も四季版もよく似ています。

 

note.com

 

ただ、フローが正統派ヒロイン寄りになったのが、私としてはやや物足りなくも感じ、序盤でフローがグレイに会いに行った理由は、原作の方が説得的に思えました。原作は、フローの尋常ならざる情熱・行動力や家族等との葛藤が生霊の描写で示され、フローの切迫感がよく伝わりますが、四季版だとやりたいことを家族に反対され死にたくなっているお嬢さんにも見えてしまいます(私の感性が鈍い可能性は大ながら)。一方、原作漫画版は、生霊やフローの心情表現にヌード描写が結構あって、そこは多少気になりしました。フローの果敢な行動の裏の恐れや傷つきの表現として十分理解はできるものの、その表現の体で違うニュアンス入っていますよね、と。嫌悪感をもたらす表現にはなっていないと思いますし、フローが暴漢に襲われる時の展開は漫画版の方が侵害的でない気がしますし、話の作りも素晴らしいのですが。

 

これを書きながら改めて考えると、原作漫画の特徴である生霊描写を敢えて使わず(そのまま舞台で描くのは難しいだけでなく興醒めだったかも)、別のテイストにしたのはすごいことかもしれないと思いました。生霊描写をジョン・ホールに特化し、それも原作と違う形にしています。

 

デオン・ド・ボーモンについては不明ながら知らなかったのですが、一癖も二癖もある人物を時代の異なるナイチンゲールの話に登場させていることも面白かったですし、原作だととても劇画的で、四季版では舞台映えする悪の華的キャラになっていました。それぞれ媒体にとても合う形になるのが不思議なほどです。

 

四季版オリジナルのアレックス・モートンとエイミーについては……人物やその展開の必要性がわからず、ましてフローがそこで絶望はしないんじゃないかという気がして……すみません。音楽的にテノールとソプラノを入れたのかなとか、登場人物を集約し状況説明的にわかりやすくするためかなとか思いました……。

 

原作版・四季版のクライマックス

フローとホールが対峙する場面と最終場面、両方がクライマックスかとは思いますが、原作はホールとの対決場面の方がクライマックス感が強くて話の回収としても素晴らしく、四季版はその場面では終われない悲劇的中盤の印象がありました。フローの生涯をグレイが芝居として語り終えた最終場面の方に完結感があります。

 

また、対決場面については、原作では、ホールが象徴する社会や戦争に対するフローの怒りと、弱さを内包する彼女の抵抗に焦点が当たる気がするのに対して、四季版フローは自分の使命・信念に自覚的で忠実で彼女の強さの方向性が異なり、美しくオーソドックスな作りに思えます。(「自分が選んだこの道、一筋に歩くために」「立ち止まることはない、命の炎消える日まで」「私が死んでも誰かが歩くでしょう、この道を全てを捧げて私が信じたこの道を」。)この場面では原作漫画の最大の特徴とも言えるものが封じられているのですが、別の魅力のあるミュージカルに仕立てたのだと感じます。絵と歌という表現の違いを意識した四季版の特性ということかもしれません。

 

以下で四季版と一寸違う原作の内容にもう少し触れますので一応ここで書誌情報と画像を挟みます。

 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:WMS_5484,_Florence_Nightingale_Wellcome_L0030581.jpg

 

四季版ではホールの部下がフローを逃そうとするのに対し、原作では彼女を殺そうとし「命令に従っただけ」と言って亡くなります。それを聞いたフローはホールに「命令にただ従ううちに心が麻痺する」「ジョン・ホール軍医長官、貴方こそが戦争の恐怖そのものなのです!」と、生霊描写での彼女自身の恐ろしいほどの精神力でホールに立ち向かいます。ホールは「あの幽霊が側にいるから」強いのだろうと言うのですが、一面では真実ながら見誤りでもある、二重性のある台詞になっています。生霊(精神力)の強さはフロー自身のもので、グレイの霊力などでなく、彼の信頼と愛が彼女に力を発揮させたということでしょう。グレイは「舞台に上がるのはいつだって生きている人間」「限られた上演時間で与えられた役を懸命に演じる」とフローの力も人間の力も理解し信じているのです。フローが「絶望しない」ことも彼はわかっており、「裏切られたってのァ……女を信じた…ってコトだ」の「裏切り」のポジティブな転換も見事で、両義性の見せ方が素晴らしいと思いました。原作のこの場面のフローは非常に苛烈で、漫画の特性を活かした展開でのかち合い弾ができてしまうギリギリの感じもとても魅力的です。