ナショナル・シアター・ライブ、マシュー・ウォーチャス演出、アンドリュー・スコット主演、2019年上演
ブロードウェイ・シネマ、モリッツ・フォン・スチュエルプナゲル演出、ケビン・クライン主演、2017年上演=2022年上映
観たかったNTLiveの『プレゼント・ラフター』。感想アップがすっかり遅くなってしまいました。笑って笑って終盤にうるっとなり、アンドリュー・スコットの魅力も全開で素敵な作品でした。ブロードウェイ・シネマ版の方も以前録画したのを後から観ました。こちらはNTLiveでの再上映があるなら何も知らないまま観たいと思って取っておいたものでした。こう書くと逆に言い訳的に見えますが……再上映でなくNTathomeに入るようなら、日本語字幕がつかないので予習で観ようと思っていました。今回は通常のNTLiveより地域限定でしたし、他地域でも再上映の機会があったりNTathomeに入ったりするといいですね。
NT版とBW版
NT版の方は一部の役の性別を入れ替えた上にビターなテイストが入っているのに対し、BW版は多分原作の“ストレートな”上演と思われ、かなり印象が違いました。BW版はウェルメイドだし、初演でノエル・カワード本人が演じたという主人公ギャリーの元イメージに近いのもケビン・クラインだろうと思います。ですが、私としては圧倒的にNTのウォーチャス演出版の方が好みでした。私がスコットが好きだからというのも否定できない要素でしょうが、他の登場人物の造形も関係性もNT版がよく思え、翻案と言えるかもしれない演出のすごさを改めて実感しました。BW版(か原作)には、私にはもう一つ気持ちが乗れない感じの要素もあり、そこがNT版の改変で緩和されている気もします。とはいえ、BW版を観たら、この作品は劇中で笑いネタとして入っている『ペール・ギュント』っぽい構図があるんじゃないかと思いました。この点はBW版の感想箇所でもう少し書きます。
「NTLive語る会」の動画もありまして! 鑑賞後の視聴がお勧めですが、河合祥一郎先生、柏木しょうこ先生、松岡和子先生がタイトルの意味や、『ペール・ギュント』等の含意、どこが原作と異なり苦みが増すことになっているかなどを丁寧に解説して下さっています。こちらで『ペール・ギュント』との類比は何も言われていないので、展開が似ている気がするのは私の勝手な思い込みかもしれません。原作とNT版の両方のラストのネタバレになるので未見の方には要注意ながら、とても面白く“ああ〜ここで終わっちゃうのか”と残念。(松岡先生の発言の一箇所だけ一寸ホモフォビア的にも聞こえたのが気にはなりましたが。)
両版ではギャリー(も他の登場人物)のキャラもかなり違っています。BWのクライン・ギャリーは、洒脱でモテモテで八方美人なので誘われたら応じてしまうタイプ、NTのスコット・ギャリーは、誰かが注目していてくれないとダメで大袈裟に振舞い(“overact“)、そうする一方で本当の理解者を求めているタイプに思えます。「プリマドンナ/ディーバ気質」という言葉は女性蔑視表現的でよくないかもしれませんが、スコットのギャリーはそういう雰囲気も感じます。カワードのトレードマークだったというガウンを素敵に着こなすのがクライン、ガウンはあまり着ず、元妻リズが買ったガウンも趣味に合わないかのようにすぐ置いちゃうのがスコット。この記事にリンクしようと思ってNT版とBW版のクリップを探している時に出てきた他の『プレゼント・ラフター』でも、ギャリーは大抵ガウンを着ているので、この点でもスコットのギャリーはやや異色かもしれません。ギャリーとジョーが語る場面ではガウンですが、他のギャリーが着る型のガウンと一寸違っていて柄も派手。それによってリズとの関係性も変わる気がするんですよね。BW版ではリズがギャリーの好みをよくわかっているのに対し、NT版では2人の好みがずれている/あるいはこの場面ではリズがギャリーに自分の理想を押し付けているようにも見えます。
↓スコットのギャリーのガウン姿
「語る会」動画で柏木先生が、スコットのギャリーが少年っぽい、子どもっぽいと言っておられるのにも激しく同意です。クラインのギャリーにも確かに子どもっぽさはあるのですが(下リンクのOntomo記事にそう書かれています)、以下の登場シーンなどを比較すると納得いただけると思います。演出のウォーチャスのコメントやレビューを読むまで気づかなかったものの、NT版は『ピーター・パン』仮装なんですね。
ギャリーの登場シーン
“overact”だと言われるギャリー
BW:ご機嫌でガウン着用
NT trailer(中盤にギャリーとジョーの恋の駆け引き場面あり)
BW:ギャリーとジョアンナの恋の駆け引き場面(=原作版)
ギャリーの台詞が、NT版では“Just a lost boy”、BW版の方では“Just a simple boy stinking with idealism”です。BW版の方がオリジナルの台詞でしょうか。NT版だとジョー(エンゾ・シレンティ)の方にBW版のギャリーっぽい雰囲気がある気もします。
従者のフレッドがギャリーにあまり羽目を外さないように言う“Be good.”がBW版では「ほどほどに」で、NT版(柏木先生訳)では「いい子でいて下さい」(正確に覚えてはいませんが「いい子」を使っていた)と訳されていたのも、それぞれのギャリー像にとても合うと思いました。
「語る会」解説に加えて、ウォーチャスが上演劇場サイトに掲載したコメントや、ウォーチャスとスコットの対談動画を見ると、NT版は、ギャリーを身体は加齢を重ねる「迷える少年」として描き、メランコリックで孤独な面に焦点を当てたこともわかります。“Present Laughter”の元々のタイトルが“Sweet Sorrow”であり、作品にそのニュアンスがあることが語られています。
「この原題は、感情の両価性や矛盾や深みを明確に指すものだ。それはどこか私の大好きな芝居『ピーター・パン』も思わせ始めた。空中に、ネバーランドに留まることが人生の大きな目的で、衝動的でカリスマ的で自己劇化的(self-dramatising)な「少年」の面をあらわにするギャリー・エッセンダインによる『ピーター・パン』を。(中略)『プレゼント・ラフター』はきらきらした芝居だが、カワードは時にメランコリックな寂しさへの驚くような下降をさせており、それが原題“Sweet Sorrow”にまさに相応しい。」
https://www.oldvictheatre.com/stories/matthew-warchus-on-present-laughter/
一寸横道ですが、ウォーチャスのコメントからは初期のアイディア段階からスコットが関わって制作が進められていたことがわかります。『ハムレット』も『ワーニャ』もそうでしたし、スコットに限らず『十二夜』の主演タムシン・グレイグ(女性版マルヴォーリオ)と演出のサイモン・ゴドウィンもそんなふうだったようなので、時間をかけて作品を練っていることも感じますね。
更に横道で、ナショナル・シアター公式サイトの『プレゼント・ラフター』にインスパイアされたカクテルレシピ記事リンクも。
“Present Laughter”と“Sweet Sorrow”もシェイクスピアの台詞からだった
前記事の『ザ・モーティヴ & ザ・キュー』感想ととても既視感のある話を書きますと、これもシェイクスピア作品の台詞からだそうで、でも全く気づきませんでした。“Present Laughter”は『十二夜』の歌“O Mistress Mine”の歌詞から、“Sweet Sorrow”は『ロミオとジュリエット』のバルコニーシーンの台詞から。「語る会」解説では河合先生がその歌も歌っています(歌うまい~)。また、以下のOntomoの齊藤貴子先生の記事でもタイトルの由来は説明されており、こちらはBW版のよさがよくわかる紹介記事にもなっています。こちらを読むと、BW版にもそこはかとない寂しさの演出があることがわかり、おそらくこのさりげなさがBW版のよさなのでしょう。また、主人公ギャリーが『十二夜』の道化フェステのようだともされており、それは特にBW版の方に当てはまるように思えます(NT版の方は、フェステのような達観はあまり感じないのですよね)。クラインのギャリーはフェステ的、スコットのギャリーはピーター・パン的ということかも。
“O Mistress Mine”については以前のブログ記事でその英文も載せ翻訳も書いていたのに、言葉そのものは全く覚えていなかったのでした……(泣)。以下の記事では歌動画もリンクしています。
What is love? 'tis not hereafter;
Present mirth hath present laughter;
What's to come is still unsure: “O Mistress Mine”より
NT版の方はタイトル自体には出てこない「先はどうなるかわからない」という刹那性や寄る辺なさが掘り下げられた感じがあります。BW版では(おそらく原作も)そうではあっても「今を笑う楽しむ」方を、更には、愛とはそうやって笑い合うものだという含意を感じます。また、ウォーチャス自身が上の引用で述べている通り、NT版は原題の“Sweet Sorrow”によりフィットする気がします。いくつかのレビューでもそう書かれていました。
タイトルがSweet SorrowからPresent Laughterとなったこと、カワードがフレンチ・コメディを指向していたことからすれば、NT版で影の部分を強調したことはカワードの美学に反することなのかもしれません。でも、ライトなテイストだけで陰影まで察するのが難しい私にとっては、影やメランコリーの強調がとてもよかったです。「語る会」で松岡先生もその点が現代的だと評価しています。
Financial TimesのレビューでもNT版とスコットが見せる絶望が評価されています。「彼〔スコット〕の演技の天才的なところは、その繊細さと絶望にある。(中略)このギャリーは、心の底でゲームの終わりを知っている迷える少年なのだ。このプロダクションで最も感動的な瞬間は、パーティの終わりに秘書〔モニカ〕が彼を一人にしようとする時、スコット演じるギャリーが手を差し伸べて彼女の手を取ったときだ。」こちらのレビューは、それ以外の点でも“わかる~”と言いたくなる、私が感じた印象に一番近いものでした(以下の記事リンクが登録しないと読めないものになってしまっていたらすみません)。
「語る会」やパンフレットで松岡先生が詳細解説していることではあるんですが、原作とBW版のネタバレになる話を書きますので、原作・BW版の話を避けたい方は下画像をクリックして下さい。
BW版、『十二夜』と『ペール・ギュント』
BW版=原作では、ギャリーと元妻リズが寄りを戻すラストになっています。ギャリーとジョアンナは一時の関係を楽しんだだけで、そのためにすったもんだするものの、ギャリーの台詞「君たちは恋愛に酔いしれているが、少なくとも私は軽く扱える。君たちは苦しみ、私は笑う(I laugh)。」の通りの気がしました。クラインのギャリーは、何かと女性をその気にさせてしまうけれど、本人は恋愛に溺れない人に思えます。恋愛を達観できる点で、Ontomo記事で書かれているように道化フェステのような趣きがあります。一方、これは記事の指摘とは逆に、ピアノを弾くギャリーはひとりの静かな時間も楽しめる人に私には思えました。そのため、比較的恋愛騒動も軽く、ライトなラブコメディの印象で、浮気のためにドタバタして大変な目にあったギャリーが、懲りて理解のある元妻のもとに帰ったみたいな話にも思えます。
NT版を観た後だと、ギャリーと女性達の関係も、ギャリーを口説くジョアンナと彼女の夫ヘンリー、彼女の浮気相手のモリスとの関係も古めかしい感じは受けました。ジョアンナがとりわけ美人でセクシーで悪女的なのもお約束的な気がします。ギャリーと一夜を共にしたダフネはBW版では本当に若く素直な感じに見え、ギャリーの年齢が57歳の設定ということもあり、24歳のダフネとの年齢差に私は少し気持ちが引いてしまうところがありました。(年齢設定についてはNT版の方が原作に近いのかもしれません。演じたクラインは、そう見えませんが当時70歳だそうで更に上。)劇作家志望のローランド・モールが、朴訥でルナティックな感じにおかしいキャラなのもあまり面白いと思えませんでした。
ただ、BW版を観たら、最初に書いたように『ペール・ギュント』のフレンチコメディ・パロディのような気もしました。(「NTLive語る会」で解説されているように、ギャリーがペール・ギュントを演ると言って、周りから絶対似合わない失敗すると忠告され、本当に似合わなそうなので笑いも起きるネタなんですが。)女性遍歴の後にソルヴェイグ=リズの元に帰るペール・ギュント=ギャリーという構図です。ダフネは、『ペール・ギュント』での一夜で捨てられるイングリットのようで、ジョアンナは、魔王の娘か酋長の妖しい娘っぽい気がします。しかも赤ん坊を抱いた女性が来たというプロットもありますし(『プレゼント・ラフター』では、近所の家を訪ねてきた無関係の人だとわかります)。ヘンリーやモリスと(きっかけは三角関係でも後から)仕事の件で言い争いになるのも、商売で大儲けをした後に仲間に裏切られるペール・ギュントっぽく見えました。
以下、NT版の方のネタバレを含む感想になります。
NT版と『ピーター・パン』
NT版は男女の入替も含め人物造形も関係性も好みで、この後に書くようにギャリーの寂しさや繊細さに照準されることで、元妻リズ(インディラ・ヴァルマ)との関係も深みが出ている気がしますし、秘書モニカ(ソフィー・トンプソン)とも愛着的な関係になっていると思います。従者フレッド(ジョシュア・ヒル)も、年齢は下でもギャリーに対して少し大人っぽく見えたり、ざっくばらんに言いたいことを言っているようで微笑ましく感じました。これもBW版と比べるとよくわかりました。ギャリーとフレッドの距離が近い一方、このフレッドはどんな仕事もできそうで自由人な感じがして、いつまでギャリーのもとで働いてくれるかわからない雰囲気もある気がします。ヘレナ=原作版ヘンリー(スージー・トース)については、そこまで男性っぽく作らなくてなくていいんじゃないかと思いましたが、リズやモニカと被らないキャラにしたということなんでしょうか。
キティ・アーチャーのダフネは可愛らしくはあってもギャリーとの年齢差はそれほど感じず、ちゃっかりしたふうもあって冒頭場面もただただ楽しく観られました。劇作家志望のローランド(ルーク・タロン)が、NT版ではギャリーにセクシュアルな執着も感じさせる人物で、ダフネと対のようになるのも面白く、ジョーをめぐる揉め事の布石的にもなります。ローランドについては元戯曲にあったニュアンスを掘り下げた感じなのでしょうね。
「NTLive語る会」では、柏木先生が、登場人物の性別変更もあってNT版ギャリーは更に節操がないといった話をされていましたが、これについては私の印象は逆なんです。むしろ原作より、多少ながら節操を感じました。1幕最後?(←休憩前)の、ギャリーがジョーからの誘いに応じる過程で、ジョーから“ヘレンとはそういう関係の夫婦ではない”みたいな話があると、ジョーとヘレンは性生活を求める夫婦関係とは違うという認識になり、そうだとすればジョーがギャリーに以前から惹かれていたのもありだし、それが夫婦関係を壊すものではなかろうと思えます。原作もそうだと言えばそうなんですが、夫ヘンリーも浮気しているからいいんだという含意も強く、“そういう関係の夫婦でない”と言う妻が男性にアプローチするのと、そう言う夫が男性にアプローチするのではかなり違う気がします。前者だと本当にいいのか疑問もあり嘘臭くも感じ、いいことにしてしまうギャリーが共犯者っぽく思えるのに対し、後者の方が私には許容可能で、半信半疑で挑発に乗った面はあってもギャリーの騙され感は強くなる気がします。それもあって、NT版の方がジョーがより酷く思え、ギャリーの正当性や弁解可能性は上がった気がしました。
NT版はストーリーを知らずに観たこともあり、外面がいいはずのギャリーがジョーにはツンデレ気味だったし、音楽の趣味も合うし、“素顔が見たい、演技しなくていい”と言うジョーがギャリーの大切な人になるかもと思ったりしました(←私がチョロい)。ギャリーとジョーのキスシーンの音楽が“Only You”で、音楽のベタさが笑える一方、歌詞は“Only you can make all this world seem right”“Only you can make all this change in me”じゃないですか。ジョーの腕時計を外すシーンにもドキドキしましたし。アブドゥル・サリスのモリスがジョーの相手には全く見えなかったのもよかったんですよね。“きっとモリスのことは誤解で、その話が面白く展開されるんだろうな”とか思っていました。
この辺の感覚は、性別変更だけでなく、エンゾ・セレンティのジョーが包容力ありげなキャラだったことからも生じたと思います。ジョーがギャリーより若いイケメンだったら、例えばルーク・タロン(ローランド役)やジョシュア・ヒル(フレッド役)がもし取り澄ましつつセクシーな雰囲気でジョーを演じていたら(←ジョアンナはそんな雰囲気に思えたので)、”これは怪しい”と思って原作とそこまでの違いは感じなかったかもしれません。配役の妙もありますよね。最初の方でも書いたように、セレンティのジョーの方がBW版(または原作)ギャリーっぽい雰囲気さえある気がします。「鍵を忘れた」ネタも、男女も関係性も変わることで、更に面白くなっていました。
NT版は笑いも強めに作られている気がする一方、上述のようにメランコリックな寂しさに下降するような瞬間があって、そこもとてもよかったです。「語る会」でも、結末の改編によってビターになるのと同時に、リズの決断が強調され、彼女の人物の大きさが増す形になったと柏木先生、松岡先生が言われており、この点は完全同意です。この改変されたラストも、恋愛関係では決して埋まらない寂しさを知る者“同志”が恋愛でないところで繋がる、あるいは諦念も含め(恋)愛自体に多様性があるという結末のように思えて私は好きでした。『めぐりあう時間たち』や『ダロウェイ夫人』を想起したりしました。
メトロポリタン・オペラ、K.プッツ作曲『めぐりあう時間たち』紹介・感想
Stagedoor誌のレビューでは、リズの最後の台詞“I'm thinking of the good of the firm”の、“the firm”をギャリーも含めて自己中心的な人々が利害や依存で雁字搦めになっているような関係で、これを幻想が壊れた後の悲劇と捉えているようなんですが、私はもっとポジティブに捉えたい気はしました。
「語る会」では、ラストに窓辺で外を見ているギャリーが自死を匂わせる演出ではないかとする質問が2人の人から寄せられていて、それも印象的でした。実は私もそんな感じが気になりつつも、きっと考えすぎだろうと思い、最終的には上述のように捉えたのですが、かなり暗くも取れる作りかもしれません。上でリンクしたOld Vicサイトのウォーチャスのコメントを読んだら、そうした危うさや不安を少なくとも掻き立てる演出の気もしてきました。(『めぐりあう時間たち』や『ダロウェイ夫人』を想起したのも、その不安によるものかもと思います。)「『ピーター・パン』という芝居には驚くべき色調の両義性がある、それは死(mortality)―私たちが決して切り離すことのできない影―との戦いを、ライトでファンタジックなドラマにしているのだから」。同時に、これを読むと、窓辺に立つギャリーは『ピーター・パン』のラストへのオマージュにも思えました。今作のギャリーは少年のままでいたい人でありつつ、ラストでは大人の孤独と諦念も受容しているような両義性があって、窓辺のギャリーがピーター・パンとウェンディの両面のように思えます。リズもウェンディ的な気がしました。