『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

6巻21話リチャードとヘンリーの約束について

(薔薇王の葬列アニメ9話対応)

 

「よなよな、よなよな、わたしをせめる、汝の名は」でスタート。後半でヨーク公の亡霊の芝居を打つ展開から、『ハムレット』(以下、Hm)冒頭で亡霊が登場するシーンのオマージュでしょうか。

 

リチャードとヘンリーの約束について

そして、リチャードとヘンリーの森での場面の前に、エリザベスと娘のベスのシーンがはさまれています。「どうしてあかちゃんなんてうまれてくるの?」と尋ねるベスに「父上と母上が愛し合ったから」「そのように●●●●● 、神が作られたからよーー」とエリザベスが答えます(しかもこの短い場面で、ベスが邪険にされているだろうことも窺えます)。3巻10話では、エドワード王がエリザベスに “避けられない運命としての出会い”を語り、直後にリチャードとヘンリーの再会が描かれました。これは、そのリフレインで神が定めた出会いを語るようにも思えます。ですが、エリザベスはグレイ卿の形見を見ながらそう語っており、子供が生まれる「愛し合う」の含意は、愛情ではなく、性=生殖の方でしょう。そして、ヘンリーはこの性関係を忌避して「僕は誰も愛さない」と言い、「君は天使だ、リチャード」と言われたリチャードは両方の性を持っており、「そのように」は「作られ」ていないとも言えるのです。変奏的な意味の重ね方とずらし方、そしてそれがアイロニーになっていることに痺れます。

 

リチャードは、〈このままお前といれば、友のままではいられない〉〈愛されたい〉という自分の気持ちに気づき、またジョージ説得の任のためにも行かなければと思いながら、ヘンリーの元から立ち去れず次の朝を迎えました。次の朝、リチャードを必死で捜索していたケイツビーが、まずヘンリーを、次いでそこに戻って来たリチャードを見つけ、リチャードを庇って「ここは私に…」と、ヘンリーに剣を向けます。ケイツビーを止めて、ヘンリーに助けられたと話すリチャードに、ケイツビーは「この男は…!」と言いかけますが、「友だ」と答えられてその先を続けられなくなります。

 

リチャードは、自分にはやることがあるとヘンリーに話します。はじめは「いやだよ」と言ったヘンリーでしたが、「それが終わったら」「あの木の下で、また会おう」「ここで、ずっと君を待っている」と、2人は再会を約束して別れます。もうここではリチャードは、「永遠に結ばれないとしても、傍にいたい」〈想いを伝えずに、ただ傍に〉とまで気持ちを定めています。

 

この展開、『リチャード3世』、ピラマスとシスビー、『十二夜』のミックスな感じがします。

 

ヘンリーとの約束の前に〈戦いが終わったら、俺の居場所はー〉とリチャードが自問するところは『リチャード3世』冒頭の独白「軟弱に浮かれ騒ぐこの平和な時代に、何の楽しみがあるものか(中略)美男美女と口上手だけがもてはやされるこの時代に、恋の花咲くはずもないこの俺は」も入っているでしょう。

 

不仲な家の2人が泉の側の木の下で会う約束はピラマスとシスビーの感じ。しかも悲劇が待つだろうことを予想させます。

 

そして、切ないままになった『十二夜』という印象もあります。『十二夜』の方は、最終的にはシザーリオが女性ヴァイオラとわかってオーシーノーの愛を得、オリヴィアはセバスチャンと結ばれます。ですが、リチャードとヘンリーは恋人が交わすような約束をしていても、恋人にはなっていません。19話の記事に書いたように、シザーリオは「自分の恋をだれにも言わず、胸に秘めて」と言い、リチャードは〈想いを伝えずに、ただ傍に〉と考えています。

 

シザーリオが実は女性であったこと、またオリヴィアがセバスチャンに求愛していたことがわかる場面の直前に、シザーリオをめぐってオリヴィアと言い争ったオーシーノーは、オリヴィアに見せつけるようにシザーリオに「ついてこい」と命じます。(ですので、キャラ的にはオーシーノーとヘンリーはかなり違いますが)シザーリオには、オーシーノーが自分を年下の若者として好いていて、オリヴィアに向けたような愛が得られないことがおそらくわかっています。それでも、シザーリオは「愛するかたのあとについて(中略)この世の何よりも(中略)大事な方に従います」と彼の傍にいようとするのです。

 

広告

 

当惑するケイツビーについて:アントーニオ

そしてヴァイオラたち4人はハッピーエンドの『十二夜』でも、想いが叶わない/伝えられないままの人物もいます。その一人がアントーニオです。アントーニオはセバスチャンを嵐の海で助け、以降面倒を見て、多分オーシーノーがシザーリオに向ける以上の愛情をセバスチャンに向けています。オーシーノーと敵対関係にあるアントーニオは、その領地では手配中なのに、セバスチャンを心配し離れがたく、従者になってもいいからとついてきます。オリヴィア宅の客人に決闘を挑まれたシザーリオを、セバスチャンと間違えて「かわりに私が立ち合おう」と「剣を抜いて守り」ますが、それで役人の目に留まり逮捕されてしまいます(セバスチャンがオリヴィア宅の客人に襲わるのはこの後です)。その後セバスチャンに再会した時には、もうセバスチャンはオリヴィアと(ロミ・ジュリみたいに)秘密結婚してたんですよ! セバスチャンの方は、シザーリオとオーシーノーとは逆パターンで、アントーニオを頼れる年長の友人と思っていて、逮捕されて大変な思いをしていることを知らないまま、その間、オリヴィアとのことを相談したいなあとか思っていたりするんです。

 

『薔薇』では、心配したケイツビーがやっと探し出したリチャードは、(傷を負って大変でしたし葛藤していたのは勿論ですが)敵であるはずのヘンリーと手を取り合って“将来を約束”しています。そしてリチャードはケイツビーに「誰かを愛したことはあるか」「永遠に結ばれないとしても、傍にいたいと……」と恋をした表情で問いかけます。もう色々な意味で何も言えなくなってしまっているケイツビー。〈想いを伝えずに、ただ傍に〉はケイツビーの独白にも見えるように描かれています。

 

オーシーノーとオリヴィアが、シザーリオを通してヴァイオラとセバスチャンを愛したのに対し、つまり、性別や相手を誤解して愛を抱いたのに対し、セバスチャンをセバスチャンとして愛しているのはアントーニオなんですよね。これは『薔薇王』を読んでから逆に気づかされました。菅野先生、本当に凄い。(アントーニオもシザーリオとセバスチャンを間違えたりはしましたが、それは後からです。とはいえ、恋愛や結婚って、お互いをわかっているかとか時間の長さとかじゃない面もありますよねー。)

 

"Trip no further,pretty sweeting..."

19話の記事では、『十二夜』にランカスターのエドワードに合う曲があると書きましたが、21話の再会を約束するシーンは“O Mistress Mine”が重なるなと思っていました。ヘンリーは「愛さない」と言っているとか、2人は恋人じゃないとか散々書いておいてラブソングなんですが(しかも“mistress”ですが)、一方で、リチャードは自分の愛に気づいて傍にいたいと思い、ヘンリーも本人が言うほど「友」としてリチャードを見ている訳ではありませんし(←早く言え、だったかもしれませんが、この恋愛の障害と行き違い感、約束の時の恋人感の錯綜が20-21話の醍醐味ですよね)。この歌の2番は、本来はその場で恋人にキスをねだる趣旨ですが、『薔薇』的には、この先はわからないという方が話に重なります。

 

英語の歌詞はとても重なると思えるんですが、河合版ではこの歌は直訳がなくて、小田島版、松岡版も21話のニュアンスが一寸伝わりにくい……、う〜ん…。21話に寄せていい加減な訳を作ってみました。

 

O mistress mine,where are you roaming?
O stay and hear! your true-love's coming
That can sing both high and low;
Trip no further,pretty sweeting,
Journey's end in lovers' meeting?
Every wise man's son doth know.

 

What is love? 'tis not hereafter;
Present mirth hath present laughter;
What's to come is still unsure:
In delay there lies no plenty,
Then come kiss me,Sweet and twenty,
Youth's a stuff will not endure.

 

愛しい人よ、どこをさすらっているの?
ここにいて、そして聞いてよ、君の 恋人/本当の愛 が来て美しい調べを歌うから。
もう旅に出ないで、可愛い君。
旅は恋人たちの出会いで終わるもの
賢い者ならそう知っているはず。

 

愛ってなんだと思う?この後に/来世に 来るものではないよ。
今の楽しさを今笑おう。
この後のことはわからない
遅らせてもいいことはない
だからキスして、甘く何度でも。
若い時はいつまでも続かないよ。

 

今話前半のリチャードは特に“pretty sweeting”感がある気がしませんか。sweetingって甘いリンゴのことでもあるようで、リチャードはリンゴを持って来てもいましたよね(←いつもの無理やり)。で、歌の2番はヘンリーからリチャードというより、読者の声代弁みたいなね……。

 

亡霊と芝居について

後半、ジョージをウォリック伯から寝返らせるための作戦はHmですね。

 

Hmでは、ハムレットが実際に父王の亡霊と遭って自分の敵を討つよう託され、その後、敵のクローディアスの前で王殺しの芝居を上演させますが、その2つの話を組み合わせているのだろうと思います。芝居を上演させ、反応を確かめる点では勿論リチャードがハムレットですが、父の亡霊に現状を正すよう言われる点ではジョージがハムレットですね。

 

ここではウォリックが、その風情としてもいかにもクローディアス。21話では宴席の座興で王冠を被り玉座にまで着いています。4巻の時点では、ヨーク公の肖像を前に歴史を正すと言っていたウォリックが、結局はランカスターの摂政として実権を握り、ヨーク公を裏切る形になっています。

 

f:id:naruyama:20200208081937j:plain

Edwin Austin Abbey The Play Scene in Hamlet [Public domain]
ハムレットが芝居を上映させる場面。奥にいるのがクローディアスとガートルード、手前がハムレットとオフィーリア。ハムレットがクローディアスの様子を窺っています。オフィーリアに膝枕までしてもらって仲がいいように見えますが、この場面でもハムレットのオフィーリアに対する扱いは結構酷いです。

 

Hmでは、父の亡霊にハムレットを引き合わせ、芝居の際にハムレットに協力してクローディアスの様子を観察するのがホレーシオです。21話では、“も、妄想かも……”と躊躇することなく、ケイツビー=ホレーシオと言えそうです。そして、そんなホレーシオ/ケイツビーに、父の敵ランカスターのヘンリーを討つことを宣言するハムレット/リチャード。なのですが、リチャードは羊飼いヘンリーとの約束を胸に抱いて、それが〈最後の戦場〉と、決着をつけようとしているという……。ここはホレーシオと違って、ケイツビーの胸中は複雑です。

 

ジョージに対する画策が進む中、エドワード王とマーガレット達の双方がイングランドを目指していました。エドワード王は、「…待っていろ、ウォリック…」とウォリックに語りかけるように独白します。これが、1巻1話でのヨーク公の台詞「私はこれからこの国に大嵐を呼び起こす」「その嵐はこの私の頭上に太陽の如く黄金の冠が燦然と輝くまで荒れ止まぬであろう」(エドワード王の一人称は「俺」ですが)です。かつての父と同じ言葉でウォリックに復讐を誓うエドワード王も、もう一人のハムレットなのかもしれません。

 

(追記)先日2022年3月に配信されたHmでは、酔ったハムレットがクローディアスに皮肉を言うという今話のような展開がありました。ますますハムレットとジョージが重なりますね。

 

ギルフォード・シェイクスピア・カンパニー『ハムレット』感想

 

(※『十二夜』(歌詞以外)は小田島雄志訳・白水社版から、『リチャード3世』は河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しています。)
 
“O Mistress Mine”は、『十二夜』の前に既にあった歌かもしれず、詩もシェイクスピアのものかどうかわからないそうです。その当時のThomas Morley版。このMorley版が私には一番自然な感じがしますが、やはり様々な作曲があって、曲によって随分雰囲気も変わる気がします(そこまで色々聴いてはいませんが)。
 
他にけっこうよくあがってくるQuilterのものはとてもロマンティックです(これは1900年代)。あまり多すぎても……と、これは文字リンクのみで。
 
下は一寸変わったところでエルビス・コステロのもの。共演者ジョン・ハールの作曲した1990年代pops版。これは一寸暗くて、こう、幽閉されたヘンリーが歌っている感じの曲というか。