『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

5巻18話城からの脱出とバッキンガムの出迎えについて

城からの脱出について

リチャードは、エドワード王に差し出された娼婦という体裁で幽閉されていた王に会い、武器も差し入れて共に護衛の者達を倒して城から脱出します。17話の記事でも書いたように、『ヘンリー6世』第3部(以下、HⅥ(3))では、(軟禁状態なのに!)狩りに来たエドワード王をリチャード達が連れて逃げる展開です。

 

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HⅥ(3)では監視も甘いのですが、エドワード王もそんな状況で狩りをしていたり、彼を救出しようとするリチャード達に(自分のことを擬えた冗談でしょうが)「こんなところにかくれて」「鹿を盗もうというのか?」と言ったり、結構呑気。こんな王でいいのかと思いたくなります。

 

おそらく史実としては、ウォリック伯の側も王の不在で立ち行かなくなり、和解した上でエドワード王を解放したといったところなのでしょう。『薔薇』ではHⅥ(3)での脱出と史実とを組み合わせ、ウォリック伯が「我々が解放してやったのだとふれ回れ!」と言って、表向きを史実寄りにしたのが面白い展開です。(『薔薇』では時々こういううまい落とし方が見られますよね。)その前の場面で、議会が招集できずにいることや政務が滞ってしまったことが描かれています。しかもHⅥ(3)とは違って、“エドワード王それで逃げないの?”とは思わせないスリリングな奪還劇です。

 

脱出の際、城壁から飛び降りるのは、ひょっとして『ジョン王』オマージュ……?「も、ものすごく高いぞ」と怯むランカスターのエドワードを先に行かせて(というか蹴飛ばして)、「安全は確認できました」って、リチャード酷い(笑)。

 

アーサー 高い城壁だな、でもここから飛び降りよう。(中略)こわいことはこわいけど、思いきってやってみよう。(『ジョン王』)

 

『ジョン王』との共通点は、基本、城壁から飛び降りることだけなんですけど(しかも『ジョン王』の方は3人でなく1人)、ただ、『ジョン王』でも、飛び降りる王子アーサーは、ジョン王と王位継承権を争って捕虜となっています。そして、この王位争いを後押ししているのがやはりフランスで、「偉大なる裁き手、神の命令で不正を正すという名目で、その実、領地や利権絡みで介入していたりします。

 

HⅥ(3)ではエドワード王と一緒に狩りに来た猟師に「おまえはどうする?ついてくるか?」と聞き、「縛り首になるのはいやだから」と猟師も同行するのですが、『薔薇』のランカスターのエドワードは流石にこの先一緒に行くわけにはいきません。「縛り首にならぬよう気をつけろ」とリチャードに言われつつ、そこに留まります。ランカスター、ヨーク、(更にはユニオンローズ)のいずれにも取れるブローチ(これも装飾品として渡したのか、家の紋として渡したのか、どちらにも取れそう)をリチャードに贈り、〈王としてお前を迎えに行く〉と思いながら別れます。

 

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写真AC  ドラコブ

密猟の譬えについて

HⅥ(3)では、上で引いた「鹿を盗もうというのか?」の譬えの前に、ウォリックがエドワード王を捕らえることを馬を盗むことに喩えていました。ユリシーズたちが「計略と勇気をもってレーソス王の陣営に忍び込み、トロイに破滅をもたらすべく王の馬を盗み出したように」エドワード王を「捕らえようではありませんか、殺そうとは言わぬ、ただ不意を襲い、生け捕りにすればそれでいい」(HⅥ(3))。

 

『薔薇』ではこの譬えに代えて、16話で、密猟者を見たリチャードが、正統な権利のない者が獲物を奪うことを、ウォリックが実質的な王権を握ることに擬えていました。そして〈戦わなければ、奪われる、権利者でない者に〉と、エドワード王の奪還に向かう流れでした。リチャードにとってのウォリックがどういう存在かを象徴し、また、王位の正統性=権利をもつ者と、権利のない者がこっそりと盗む密猟とが掛けられた巧みな譬えにされている気がします。

 

HⅥ(3)では「殺そうとは言わぬ」「生け捕りにすれば」いいと言っているのはウォリックですが、18話では、ウォリックがジョージにエドワード王を殺す覚悟があるかを聞き、ジョージが「殺さずとも、また捕らえればいいだろう」と答えています。『薔薇』では、このジョージの回答によって、エドワード王を生かしたままジョージが王に立つことは不可能とウォリックが判断してヘンリーの復位を決意し、ランカスターの王子エドワードと娘のアンを結婚させます。

 

エドワード王の脱出を聞いたウォリックは、支援者を思いめぐらせ、エドワード王が兵を挙げるとまずいと戦略的な読みもしていますが、〈どうあっても逃れるつもりか、私の手の中からー〉と、自分の思い通りにならないエドワードが許せない様子。「私とその女…どっちをとるのです!」と言った時とは違って口にこそ出しませんが、そんな執着が『薔薇』のウォリックには増幅されていますね。好き。

 

エドワード王の王冠と愛について

一方のエドワード王は、逃亡先で、「ご入用であれば女も用意させましょう」と言われても、「今は……女よりも欲しいものがある」と断ります。直後に「美味い肉とワイン」とは言ったものの、これまでのいきさつからすればやはり“王冠”を賭けた戦いを想像させる台詞でしょう。更に、エドワード王は、肉にワインをかけて、肉を屠るかのように食しながら「欲しいものはたったひとつ…、……お前だ、ウォリック……」と復讐を誓いました。「私とその女どっちを取るのです」が反転されているわけですね。

 

16話では、エドワードは自分の王位以上にエリザベスと子どもを心配し、ジョージが、本物の王なら王国以上に大事なものはないと言うべきだと言っていました。エリザベスへの愛と(用意される)「女」とは必ずしもイコールではないでしょうし、王の資格と王権をかけた戦いも同じというわけではないと思いますが、愛を優先してきたエドワードが、ウォリックの造反を憎み王権をかけて戦う形になります。

 

リチャードの王冠と愛について

そして、リチャードの方は、16話では自分の王冠への思いに揺らぎ、17話では「王冠が欲しい」と言ったランカスターのエドワードに「そんなことは…願うだけでも罪だ」と言いました。自分の思いごと否定した形ですが、エドワードに「罪を犯してでも」「何かを手に入れたいと」願ったことはないか、と逆に問われます。そしてエドワードの発言で、王冠に、またヘンリーへの思いに、一瞬揺れたようでした。こう問うた時のエドワードの表情が、いつもよりヘンリーに似ているように見えます。敢えてそう描かれているんじゃないでしょうか。この話の直前にも、リチャードは、いちごのパイを食べながらヘンリーを想ったりしていました。

 

ランカスターのエドワードにとっては、自分が王になることはリチャードを妻として得ることでもあり、彼はその両方を強く求めています。リチャードは王冠か愛かの背反する思いに揺さぶられましたが、そのどちらも罪を犯さなければ得られないものと封じた感があります。今話では、バッキンガムがエドワード王の殺害と王位簒奪をリチャードに唆しても、リチャードは「望むのはヨーク王家の安泰」と、それを退けました。

 

王冠を争う者もHⅥ(3)でのエドワード王とヘンリーの二者から、『薔薇』ではジョージとランカスターのエドワードが加わって更に複雑になっている上に、リチャードが求め(て封じ)る愛とリチャードに対する愛、そしてリチャードの王冠への野望が複雑に絡みます。

 

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王殺しを唆すバッキンガムについて

16話でウォリックの謀反を知らされたバッキンガムは、それを好機と捉えていました。〈どいつに恩を売るか戦をけしかけるか〉〈俺の『王』は、あんたに決めたぜ〉と、バッキンガムは、逃亡中のリチャード(と形の上ではエドワード王)を探して迎えに来ました。(HⅥ(3)でエドワードを支援をするだろうと言われたバーガンディーの代わりも兼ねているのかも。)『薔薇』では、バッキンガムがHⅥ(3)のリチャードのように明快で、リチャードの方が揺れています。

 

上で述べたように、今話ではバッキンガムは、この機に乗じてエドワード王を殺し、ウォリック側に殺されたことにして弔い合戦をするようリチャードに提案します。HⅥ(3)のリチャードですらそこまで考えていないのに、バッキンガムは更に過激。ここも若干『ジョン王』っぽい感じもありまして、ジョン王の虜囚になっている王子アーサーが殺されれば、次のイングランド王位を争うことができるとフランスの皇太子が唆される場面があります(←わかりにくい記述ですよね。結婚によってフランスの皇太子が王子アーサーに次ぐイングランド王位継承者になっているのです)。

 

ですが、ここでバッキンガムがリチャードに提案したことは、リチャードが16話で「エドワード王が、生きていれば●●●●●● の話だがな」、「どうする?もし俺が、王を裏切ったら」とケイツビーにちらと語った野望です。16話でリチャードが抑え込んだ欲望を、明確な計画の形で語るのがバッキンガムというわけです。後から振り返ってみると、この時点でもバッキンガムはマクベス夫人のように振る舞っていたわけですが、ここではリチャードとの関係性が出来上がっていないな、と思えます。

 

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他方リチャードは、「俺が望むのはヨーク王家の安泰だ」と、これはケイツビーが語ったのと同じことを、リチャード自身の望みとして述べる形になっています。リチャードとケイツビーとバッキンガムの関係も素敵すぎます……。

 

(※HⅥ (3)と『ジョン王』は小田島雄志訳・白水社版から引用しています。)
 
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