『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ライン・ドイツ・オペラ、チャイコフスキー作曲『オルレアンの少女』感想

チャイコフスキー作曲・脚本、ライン・ドイツ・オペラ、エリザベート・シュテップラー演出、ペーテル・ハラース指揮、2022年上演。シラーの戯曲や伝記等、複数の題材からチャイコフスキーが脚本も書いたそうです。

 

3月29日までOperavisionで無料配信中です。

 


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Youtubeの字幕の自動翻訳でなんとか場面の流れは追える程度の(不自由気味の)日本語は出せます。wikiであらすじも時々確認しながら見ました。

 

オルレアンの少女 (オペラ) - Wikipedia

 

これはジャンヌ・ダルクだからというだけでなく、演出やコスチュームがとても『薔薇王』的だと思いました!(あるいは最後に書くように逆『薔薇王』的かも?) 私自身も『オルレアンの少女』は今回が初見ながら、薔薇王ファンが『オルレアンの少女』を観るならこの演出版がお勧めですし、そうでなくても、おそらく挑発的で反戦的な演出なのだろうと思いました。ストーリーもある意味少女漫画的な感じもしつつ、その展開がとても奥深いものになっていて、それに気づかせてくれる演出だと思いました。Operavisionサイトの、演出のシュテップラーとドラマテュルクのアンナ・メルヒャーによる考察を後から読んだら、シュテップラーは、シラーの戯曲とは異なる恋愛の強調こそがチャイコフスキーのオリジナリティであると述べていて、その点を強調したのだろうと考えました。

 

operavision.eu

↑こちらでも本編、解説動画などがリンクされています。

 

trailerもぜひご覧下さい。

 


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今作の『薔薇王』的なところ

このシュテップラー演出版では、ジャンヌのダブルのような存在がいて、ジャンヌがそのダブルを抱きしめたり、ダブルの方がジャンヌを唆すように振る舞ったりします! しかも、主役ジャンヌのマリア・カターエワ(Maria Kataeva)と、ダブルのような存在のマーラ・グセイノワ(Mara Guseynova)の風貌が、一寸『薔薇』リチャードっぽい(カターエワは、オードリー・ヘップバーンに似ている気もします)。今回は現代化演出で服装もカジュアルなのですが、現パロのリチャードが着そうな服だなと思いました。セーターは鎖帷子的で、中盤からは鎖帷子に見立てられていそうです。

 

そして、部分的にストーリーのネタバレになるものの、ジャンヌが敵方の騎士イングランドに味方するブルゴーニュの騎士リオネル)と恋に落ち、そこでジャンヌが揺らぎ、愛を選ぶかどうかという展開になっています。

 

日本語のキャスト表が以下に載っています。

m-festival.biz

 

写真が一番多く載っているのがライン・ドイツ・オペラの公式サイト。

www.operamrhein.de

 

この先、あらすじと演出のネタバレになるので画像を挟みます。ご了承の上、お進み下さい。

 

Pexels Pixabay

 

シラーとチャイコフスキーの違い

そのリオネル(ライオネル)は、シラーの戯曲に登場する人物がチャイコフスキーの脚本に引き継がれたらしいのですが、彼の立場は若干違い、またストーリー展開はかなり違っているそうです。シラーによるライオネルはイングランドの将、チャイコフスキーのオペラでは敵方ではあってもブルゴーニュの騎士なので、彼は立場を変えてフランス側につくことになります(以下のリンクにその解説がありました)。いずれのストーリーでも、ジャンヌとリオネルは戦場で敵として遭遇し戦うなかで、ジャンヌは彼を殺そうとしてそうできず、彼に惹かれたことに気づきつつその自分の気持ちに反発もします。

 

チャイコフスキー_オペラ「オルレアンの少女」

 

シラーの戯曲では、ジャンヌがイングランド軍に捕らえられ、捕らえられたジャンヌにライオネルが彼女の身を守ると言って求愛しますが、彼女はそれを断り戦線に戻って戦死するという結末です。一方、チャイコフスキーのオペラでは、ジャンヌは恋をしたことで神の声が聞こえなくなったとリオネルを恨んだり罪悪感に苛まれたりします。また、“お前は本当に神聖なのか戦いを唆したのは悪魔ではないか”と問われても、天に純潔を誓っておきながら恋心を抱いた後ろめたさのために答えられず、それが彼女の立場を危うくします。それでもジャンヌは自身の愛を自覚してリオネルを追い、2人は互いの気持ちを確認します。ですが、その直後にリオネルがイングランド軍に殺され、ジャンヌは捕らえられて火刑に処せられるという展開です。更に、今回の演出では、この最後の展開も違う形になっていて、“火だ、なんとひどい瞬間だ”と、元はジャンヌの火刑に人々が同情する歌詞が、今作ではリオネルの遺体の側で嘆くジャンヌへの同情とその場所が空襲で火事になる描写にされています。ジャンヌは周囲の人々を逃し、周囲の人々も彼女に逃げるよう促すのですが、彼女はリオネルの手を取ってそこに留まり“天国の門が開き、苦しみは終わった”と歌います。彼女はそこで息絶えたのだろうと思えますが、最後の最後は煙と赤い照明で人物の影がおぼろげになり、ジャンヌももしかしたら生き延びたかもしれないとも考えられるようなエンディングです。(その辺も『薔薇王』っぽいかもしれませんね。)

 

話を知らずに観たので、リオネルとの恋愛展開になった時には一寸驚き、楽しみつつも軽いノリで、“わー少女漫画っぽい”とか“恋愛譚なのがいかにもオペラ”とか思っていました。神の声に迷うジャンヌや審問で糾弾される伏線の1つとして、このエピソードが入っているのかと思ったのです。しかも、ジャンヌの許婚のレーモンという優しい見守りキャラもいて(こちらもおそらくシラー→チャイコフスキー)、多分演出的に三角関係を仄めかすようにもされていたので(ジャンヌとリオネルのやりとりのシーンで、レーモンは歌わないのに登場して2人を見ているとか)、余計にそう思った面もあります。ですが、終幕近くまで観ると、リオネルとの恋愛をジャンヌが選択することがこのオペラの主眼なのだろうと感じました。

 

2人が互いへの愛を歌うシーン。


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この少し前の2人が抱き合う場面の曲が(←本編2:05:15あたり)、『トリスタンとイゾルデ』のモチーフに似ている気が……(そう思うのは私だけ??)。

 

今作の演出のシュテップラーは、チャイコフスキーが描いたジャンヌとリオネルとの関係が、シラーの戯曲での祖国のために戦死する英雄的ジャンヌ像を変えるとしています。チャイコフスキーは、処女性を命ずる信仰より禁じられた愛を重視したのではないかと。(シュテップラーは、更に、ここにチャイコフスキー自身の性的指向との関連を推測しています。)

 

また、シュテップラーは、今回の演出で、リオネルをジャンヌと同様に、無慈悲な戦いをしてきて戦争に疲れた人物として描いたと語っています。お互いが相手に自分と同じものを見出してすぐに惹かれあったと解釈しているそうです。wikiのあらすじではジャンヌが「彼の若く美しい容貌に見とれた」と書かれていますが、現代化されていることもあり、確かに戦場で疲弊した感じのリオネルでした。今作ではジャンヌも第2幕から血に汚れ、第3幕では戦闘に迷いが生じているようでもありました。リオネルを通じて、ジャンヌは他者への責任を自覚し、思いやりのある女性として自分を解放するのだともシュテップラーは述べています。

 

もっとも、シュテップラーのシラー解釈とは逆に、シラーの戯曲が、恋愛を通じて新たな行動指針を得たジャンヌ像(つまりシュテップラーがチャイコフスキーの功績としているもの)を描いているとする解釈もあるようです……。こちらの解釈だと、物語の結末は違っても、シラーとチャイコフスキーのジャンヌ像はそんなに違わないものになりそうですね。

 

山下純照「 シラー 『オル レアンの処女』 における理念と芝居らしさ」

 

ジャンヌのダブルのような存在は?

このダブル的存在は、チャイコフスキーの原作では天使役です。キャスト表にもAngelと記載されています。原作上は第1幕後半〜最後部で登場する天使達の1人で、霊感を受けたジャンヌがオルレアンでの勝利を予言すると、天使達がジャンヌを讃え、その天使の1人にソロの歌唱があるという扱いの役です。他の演出版を飛ばし見したら、まさに天使達が後ろに並んで合唱しているものもあり、それが原作に近いものだろうと思います。

 

ですが、今作の演出では、第1幕の最初の方から、ジャンヌだけに見えるジャンヌによく似た存在としてその天使がずっと登場しています。第1幕では、ジャンヌにとっての英雄的なヴィジョンや、神の声に導かれた聖なるジャンヌ像のように思えます。(横道ながら、ジャンヌ役のカターエワも綺麗な人ですが、「天使」/ダブル役のグセイノワがまた綺麗だしほっそりしているし途中まで全く歌わないので、てっきりダンサーだと思っていました。歌い出したので歌手だったんだ!と驚きました。最近、ダンサーと思っていたら歌手ということがよくある気がします。)今作での第1幕の合唱者は舞台に登場せず、ソロを歌うダブル的存在とジャンヌに焦点が当たる形です。

 

また、第3幕でジャンヌがリオネルへの想いで葛藤する場面では、やはり多分原作では天使は出てこないだろうところ、ジャンヌがダブルの足元にすがりついたり、ダブルが監視するようにジャンヌを見たり剣を渡したりします。理想としてのジャンヌが現実のジャンヌを責めているかのようにも見えます。第4幕での、恋愛を非難する天使の歌が先取りされているのかもしれません。

 

第4幕でジャンヌとリオネルが愛を告白し合うと、原作では“天との約束が破られた、罪を償うことになる”と天使達が歌い、その直後に軍がやってきてリオネルが殺されます。ここは第1幕より原作寄りながら、今作では合唱を担うのが市井の女性達なので、ジャンヌのダブルが目立ち彼女がそう告げているように見えます。しかもダブルは美しくはありつつ血を浴びた衣装で剣を持ってジャンヌを酷薄に睨め付けるようです。天使は天使でも、死の天使という感じです。その後ジャンヌが火刑になると、wikiによれば「死へと向かうジャンヌに、赦しを伝える天使の声が聞こえてくる」とのことですが、“祈りましょう”と歌うのはやはり市井の人々で、むしろダブルは歌わないまま黙っているように見えます。(ただ、別演出版の方でも天使達が歌っているかどうかはわからなかったんですが。)

 

その前の第3幕でジャンヌが戦勝を王に報告するところに彼女の父親が乗り込んできて、“お前は悪魔に騙されているのだろう”と言って(『薔薇』セシリーっぽくも思えます、彼はジャンヌを救いたいと必死なのでその点は違うんですが)、結果的にジャンヌの立場を危うくするのですが、今作だと父親の見方の方が正しかったんじゃないかとさえ思えます。原作的にはおそらく、父親が変なことを言い出したために、栄光に包まれるはずのジャンヌが転落し、火刑の要因の1つになるといった位置づけだろうと想像します。ですが、今作での父親は、ジャンヌと共にリオネルを弔い、苦悩する真っ当な人に見えるのです。

 

上でリンクした考察で、シュテップラーは以下のように語っています。「ジャンヌは自身を犠牲にしただけでなく、彼女自身がそれを引き起こすのに一役を買い、責任の一端を担っている戦争の混乱の中で亡くなります。この点が、彼女を救われない悲劇的な人物にしており、そのために私達は彼女に共感し悼むことができるのです。」ダブルのような存在は、ジャンヌのこうした二重性でもあるのだろうと思いました。

 

自己投影的なダブルのような作りも『薔薇王』的な気がしました。一方、『薔薇』リチャードが嫌悪した自己を「悪魔」ジャンヌ・ダルクに投影し、最後にそれが自己自身に他ならないことを悟って和解したのに対し、こちらのジャンヌが理想のジャンヌ像(天使)に追い詰められ違う道を選ぼうとして破滅させられるところは、逆『薔薇王』的にも思えます。