『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

モネ劇場『薔薇の騎士』感想

モネ劇場、ダミアーノ・ミキエレット(Damiano Michieletto)演出。2023年5月16日まで無料配信中。

 

『王妃と薔薇の騎士』はシュトラウスの『薔薇の騎士』とは関係ないかもと以前の記事で書いておきながら、こちらがとてもよかったこともあり、今年最後の記事を『薔薇の騎士』にできるといいなと思いました。(しかも薔薇王キャラの配役妄想を書きたくなって迷走し、1日に2記事アップとこれまでにないことをしちゃいました。)

 

うっかり機能を吟味しないまま私は英語字幕で観たのですが、多少不自然なところはあるものの日本語自動翻訳もできます。英語字幕もよかった気がします(評価できるほど英語はできませんが)。

 

こちらがtrailerです。


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本来の意味のシュールレアリスムだった

シュールな演出かと思ったら、確かにシュールなところはありつつ、元帥夫人マリー・テレーズ像を掘り下げ、とても陰影のある/影を濃くした素晴らしい作品でした。後から見たらモネ劇場での紹介文にちゃんと「シュールレアリスム」と書いてあり、「奇抜で幻想的」というより「夢」「無意識の表出」という本来的・本格的な意味で(←wiki)そうだったんでしょう。演出のために最後まで“ああー、どうなるの?”と緊張感をもって引っ張られます。ただ、捻ってあるのでストレートな演出を鑑賞した後に観る方が面白いかもしれません。ストレートな演出版を観たことはあっても歌詞の詳細まで知悉していない私は、“ええっとこれはどういう意味?”と迷子になりそうなところがありました。いまだによくわかっていないところもあると思います。

 

これまで、元帥夫人マリー・テレーズについての私のイメージは、束の間の恋愛とオクタヴィアンを愛おしみ、きちんと恋の終わりをわかって、彼のために手を離すことのできる大人で懐の深い貴婦人……というものでした。もう若くはないことへの彼女の自覚やいつか終わる恋への諦念は、ロマンティックなこの話の隠し味のように思っていました。そのスパイスがあるので甘いだけの話にならず、同時にそれが甘美な切なさを引き立てるような。夫の元帥のことは、最初から、またはとっくに恋愛の範疇外なんだろうと想定していました。そもそも元帥は登場しませんし。

 

ですが、こちらは、夫の元帥との関係が影を落としているマリー・テレーズだったんですよね。(通常の呼称は元帥夫人ですが、この作品ではなんとなくマリー・テレーズと呼びたくなります。)マリー・テレーズの背景にあったものが、隠し味ではなくしっかりフォーカスされ、実は彼女も様々な思いを抱え、足掻いている最中だったんだなと考えさせられます。これまで、『薔薇の騎士』を、雰囲気の素敵さでふんわり表層的に捉えていたかもしれないとも思いました。

 

1月1日にWOWOWでメトロポリタン・オペラ(MET)のロバート・カーセン演出『薔薇の騎士』が放送予定で(19世紀末に時代設定を移しているもののこれは私的にはストレートな演出の位置づけです)、このMETカーセン版が新年に相応しい華やかな雰囲気の陽だとすれば、モネのミキエレット版は陰と言えそうです。METのルネ・フレミングのマリー・テレーズが愛情深く人格的でこうありたいと思う人だとすれば、モネのサリー・マシューズのマリー・テレーズは等身大で醜い感情も抱え葛藤する姿に共感する人です。MET版は切なさを含みつつ愛と感謝と美しい未来が示唆される気がしますが、モネのミキエレット版はマリー・テレーズが求めて手に入らなかったもの、それでも彼女が若い2人に与えることができたものが際立つ感じがします。

 

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本編動画を挟んで、演出ネタバレ的なところを書いていきます。


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trailerで舞台内額縁舞台があるのがわかると思いますが、これが3段(3層)あります。trailerでもよく観ると3段あるのが多分わかります。それが心象風景の描写に巧みに使われています。

 

第1幕

幕開きあたりは割合普通の展開で、trailerでは謎だった牛も、オックス男爵が見境なく女性に手を出す(しかもそれを悪いと思っていない)歌詞を視覚化したものでした。

 

一方、凄かったのは第1幕第3場でした。元は、物売りや召使い、イタリアの歌手がご機嫌伺いのようにマリー・テレーズを次々に訪れる場面ですが、それがまだ新婚の頃のマリー・テレーズと元帥、老いてからの彼女達、そしてそれを見ている今のマリー・テレーズという構成の場面にされています。マリー・テレーズを訪れる寡婦の役に見えた老婦人が老いたマリー・テレーズになり、イタリア人歌手ではなく老いた元帥が歌う設定です。

 

彼女が若い頃に言われるまま結婚したことを思い出しながら、あっという間に時が流れ、すぐ老婦人になってしまうだろう、と歌う場面がこの後にあり、その歌詞の内容がその歌の前に実際に舞台で示される形です。

 

新婚時代の元帥は、家で待つマリー・テレーズの寂しさや帰宅時の彼女の嬉しそうな表情にも構わず、疲れているのか帰った途端に一人でさっさと寝てしまいます。一方、老いた2人の方は、マリー・テレーズの車椅子を元帥が押しながら、薔薇を渡して愛の歌を歌っています。新婚時代の冷たい元帥が真実で、老夫婦の方はマリー・テレーズの憧れなのかもしれません。あるいは、愛を歌う老元帥の思いが真実で、新婚時代は2人の思いがすれ違っていたのかもしれません。どちらなのか私にははっきりせず、どちらにも取れるようにしているのかもしれません。イタリア人歌手の場面で泣かされそうになるとは! 新婚時代の2人を茫然と見つめる今のマリー・テレーズの表情がアップにされ、いずれにしてもとても切ないシーンになっています。『かげきしょうじょ!!』の白薔薇のプリンス・エピソードも思い出したりしました(こちらもよいエピソードでした。最近『かげきしょうじょ!!』連想が多いです)。

 

この後のマリー・テレーズとオクタヴィアンのやりとりも演出で印象が変わるものですね。METの方は2人の思う方向が違っているとしてもマリー・テレーズとオクタヴィアン相互に愛情と思いやりが溢れる感じがしましたが、モネでは互いの孤独が際立ちます。METの方は、マリー・テレーズが時間の流れを気にしたりオクタヴィアンと距離を保とうとするのも彼への愛があるからに見えるし、オクタヴィアンの方は、諦めがち沈み込みがちなマリー・テレーズをなんとか慰めようとしている気がします。モネの方は、心象風景的に一番下の段に数多くの時計が従者によって並べられていき(家中の時計を止めてみたという歌詞からでしょう)、時計と同じ段にオクタヴィアンがいて、マリー・テレーズは1つ上の段で自分のことを考えている風です。2人が別の段にいて触れ合わずに場面が進みます。更にその上の段(3段の最奥段)には、過去の結婚前のマリー・テレーズがウェディングドレスを見ており、でも2人のマリー・テレーズの部屋には雪が降っていてなんだか寂しい。結婚前からこれまで、更にこの後の時の流れを意識せざるを得ないマリー・テレーズと、今この時に自分との時間を大事にしてくれない彼女にうちひしがれたようになるオクタヴィアン。「今日はもう帰りなさい」「あなたがそう望むなら」とオクタヴィアンを帰すところも、多分時計を渡しており、やはり時間を意識させます。

 

第2幕

第2幕でゾフィーが出てきたら、ゾフィーが若い頃のマリー・テレーズによく似ているし、同じようなウェディングドレスを着用していて、この2人を重ねるような演出に、よい意味で“やられた!”と思いました。登場段階で、オクタヴィアンはもう心を奪われている感じというか、白い風船がいっぱいの舞台装置で夢見心地な感じです。その風船が音楽の進行と共に徐々に上に登っていき恋に浮き立つ気持ちが示唆されるのも心憎いです。ですが、それにうっとりしていたら、その後ろに1人物想いに沈むマリー・テレーズが示されるという仕掛け。オクタヴィアンとゾフィーの場面で、この2人を微笑ましく見ることを許さない本当にすごい演出だと思います。

 

第2幕最後で男爵がマリアンデル(実はオクタヴィアン)からの偽のラブレターを受け取るシーンでは、奥側の舞台でオクタヴィアンの女装をマリー・テレーズが手伝っており、彼女が予めこの計画を知っている設定でした。事前にオクタヴィアンがマリー・テレーズに計画を打ち明けるか相談していることになり、その点で2人が一層近しい関係に見える一方、そこでオクタヴィアンがマリー・テレーズに触れようとすると彼女はそれを拒否してもいて、やはり彼女の葛藤を見せる演出の気がします。

 

第3幕

原作脚本では幕開けの音楽の間に料理店の準備や罠を仕掛けるオクタヴィアンが描写される形になっているようですが、料理店の準備場面もあったものの、ここで緑の照明にカラスを手にするマリー・テレーズが出てくるという、この作品の中でも最もシュールレアルな場面になっていました。

 

原作では女装したオクタヴィアンとオックス男爵の逢引場面に、男爵の妻や子どもを名乗る者たちが登場して男爵の評判を落とすという罠になっています。それが、このミキエレット版ではどういう訳かカラスやカラスに扮した者たちが登場して男爵を怯えさせるような形になっています。原作では妻や子どもの振りをする者たちが逢引の部屋に隠れており、誰かが部屋にいることに気づいて男爵が怯える場面が、この版ではカラスがいっぱい出てきて(少しヒッチコック風味)、それを見た男爵が怯えます。また妻や子どもだという者もカラスの姿。それがカラスだった意味はよくわからないのですが、マリー・テレーズがカラスを手にしているのは、この罠に積極的に関わっていることと、やはり彼女の黒々とした思いを示しているのでしょう。

 

最終の第3場については、かなりネタバレです、というかネタバレを気にする演出と言ってもいいかもしれません。ということで例によって画像を挟みますね。

 

Image by Ольга Бережна from Pixabay

 

三重唱の前後では、まずゾフィーの絶望の深さをしっかり見せていたと思います。私なんかはこれまで結末からの想定で、その場から1人で去ろうとするゾフィーの気持ちを軽く捉えていて、この演出でようやくわかった気がします。ゾフィーが、オクタヴィアンとマリー・テレーズの関係に気づき、彼と自分のこの先はないのだと思った時、中段舞台の幕が開くとそこが雪原になっているのです。若いマリー・テレーズが1人でいた場所、寂しさとおそらくは自由がある場所です。その雪原にゾフィーは1人で駆け出していきます。マリー・テレーズとオクタヴィアンの2人は下段にいます。

 

ですが原作通り、マリー・テレーズはオクタヴィアンをゾフィーに差し向けます。オクタヴィアンが他の女性を愛してもそれも含めて彼を愛する、という歌詞を歌うまで、こちらのマリー・テレーズは、自分に目が向いていて十分オクタヴィアンを愛していなかったかもしれません。その彼女がここでオクタヴィアンと、もう1人の自分のようなゾフィーも愛で包み込んだような気がしました。同時に、男性の1人であるオクタヴィアンをどこか憎んでもいる感情が歌詞には出てきます。男性に向ける嫌悪をオクタヴィアンにも向けながら愛してもいるという、両価的感情が書かれている歌詞も本当にいいなと改めて思いました。

 

雪については、マリー・テレーズの歌詞(若い自分はもういない=去年の雪を探すようなもの)を象徴化したものだと思いますが、結婚前の自由と寂しさを思わせる使われ方でもある気がして『アナ雪』("Let it go")も彷彿とします。ゾフィーが1人でいることを選んだとしてもいいかもと思えるところもあります。なので、オクタヴィアンが下段の舞台から去った後はどうなることかと思いましたが(二重唱があってもこの演出だと油断できない)、雪の中に1人でいるゾフィーを彼が迎えに行く、こちらに彼女を連れ戻すのでなく彼が雪の中に行く展開によかったーと思いました。第2幕ではむしろ親密で打ち解けていたゾフィーが少し頑ななのもよかったです。マリー・テレーズにとって自由と孤独を示すもののような雪の中に、ゾフィーとオクタヴィアンは2人一緒にいるという対比は感慨がありました。2人のことを考えると胸が暖かくなるし、マリー・テレーズが若い自分の呪いを解いたようでもある一方、彼女の寂しさにも思いが行きます。そして最後にもう一度元帥が登場するのですが……。記事の方はここで止めておきます。