『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ITA、ロバート・アイク翻案・演出『オイディプス』、石丸さち子演出、三浦涼介主演『オイディプス王』感想

もう1ヶ月ほど前の3月30日に再配信されたインターナショナル・シアター・アムステルダム(ITA)、ロバート・アイク翻案・演出の『オイディプス』と、石丸さち子演出、三浦涼介主演『オイディプス王』(NHK BS放送)の感想です。後者の方は、更に以前に放送されていたのに録画だけして観ないままで、台詞を思い出すのにもいいしと思ってITAの配信直前に視聴したら、当たり前かもしれませんが全く異なる作りでそこも楽しめました(ITAは翻案だったので予習効果はなかったです)。録画すると安心してしまってずっと観ないのは悪い癖ですが、2つの見比べができたのはよかったかもしれません。原作に忠実な方を先にした方が書きやすいので、石丸さち子演出・三浦涼介主演版の方から。

 

石丸さち子演出、三浦涼介主演『オイディプス王

石丸演出版は、コロスも含めた登場人物達が動きも台詞も非がないほど美しく、それが精神性の美しさを感じさせます。必ずしも古代ギリシャ的という訳ではなく、特にコロスはコンテンポラリーダンスの動きがあったり、地域時代が限定されない衣装だったりしますが(メインキャストの衣装はなんとなく古代ギリシャを彷彿とする感じでしたが)、それが古典の普遍性を感じさせます。コロスは俳優とダンサーで、コロスも豪華メンバーらしいです。(元宝塚の悠未ひろさんとか。GMPHイエローヘルメッツの鷹野梨恵子さんも入っていました。)コロスのユニゾンの声も美しく響き、それでも一人一人が違う人物であることがわかります。石丸さん自身がかつてコロスを演じた経験があるそうで、それもあってかコロスのよさも印象的でした。その他の脇役も主役級を揃えたことが本編前の放送解説で言われていました(浅野雅博さん、外山誠二さん、吉見一豊さん、今井朋彦さん)。

 

enbu.co.jp

 

三浦涼介さんのオイディプスは輝くばかりのオーラがあり、勁さと脆さあるいはいかにも受苦的な感じが共存して、神話的人物を体現している感がありました。下リンクのノリエムの記事で、演出の石丸さんが舞台装置のイメージとも関連させて「疫病や飢饉に襲われて救いを求める民衆にとって、神と自分たちとの中間にいる人がオイディプスというイメージ」と語っているのですが、三浦さんのオイディプスには確かにそんな雰囲気があります。私がこの前に三浦さんを観たのは『ヴェローナの二紳士』でのチャラい優男プローティアス役だったので、佇まいからして全然違って、俳優さんには当たり前かもしれなくてもこういう違いにいつも驚いてしまいます。『ヴェローナの二紳士』の実演は10年くらい前ではあるんですが、でも、おそらく役作りでの違いだと思うんですよね。

 

www.noriem.jp

 

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大空ゆうひさんのイヨカステも高貴で、本編放送前のインタビューで預言者役の浅野雅博さんが「あの2人が結婚するのが信憑性がある」と発言されていたのがとてもわかります。2人に煌煌しさがあり、夫婦としても釣り合う雰囲気。物語としてはその釣り合いこそ……だったりしますが、大空さんのイヨカステは態度や考え方も少し年上の妻の感じで(“少し”程度なのでこれも釣り合いよく見えます)、リーダーシップは抜群でも時に弱さも感じる三浦オイディプスを補完するよい夫婦関係だったのだろうと思えます。新木宏典さんのクレオンは理性的で篤実。

 

やはり浅野さんが三浦さんの印象を、最終場面でも「悲劇の沼に沈まない華麗さ」があると話し、また三浦さん自身も、オイディプスが死ななかったことを「生きているという希望」と捉え、「絶対的な希望を持って去りたい。それが伝わればいいなと思っています。」と上の記事で語っています。自分と宿命を嘆く台詞ではありつつ、確かにそれが伝わるような終幕だったと思います。加えて、台詞や物語としてはオイディプスが犯した罪のために国の災厄が起きているという話ではあるものの、三浦さんのオイディプスは、彼が穢れを引き受けて災厄を浄化したような印象にもなりました。

 

インターナショナル・シアター・アムステルダムオイディプス

ロバート・アイク翻案・演出、2018年上演。

 

ITAなので、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の“Kings of war”や『ローマ悲劇』(“Roman Tragedy”)とメインキャストが重なっています。演者が重なっているからということだけでなく、ヴァン・ホーヴェの“Kings of war”や“Roman Tragedy”と重なるような演出もありました。クライマックスに向けた残り時間表示(Roman Tragedy)とか、家族での食事シーン(Kings of war)とか、オイディプス役のハンス・ケスティングの着替えとか。

 

一方、下リンク内のNEW STATESMANのレビューに、ヴァン・ホーヴェと(似ているけれど)違ってアイクは圧倒される感情の舞台だと書かれていて、その評にとても同感しました。EIF reviewのレビューの方は、理に勝ちすぎていて大切な情が薄いみたいな評価でしたが(こちらはおそらくヴァン・ホーヴェとの比較というより、ギリシャ悲劇なのにということだろうと想像するものの)、私の感覚はNEW STATESMANの評に近く、ヴァン・ホーヴェっぽいけれどアイクは(登場人物達の様子がでなく、観客にとって)エモーショナルだったり登場人物共感的だったりするように思えました。ヴァン・ホーヴェ演出は、リチャード3世だけは登場人物共感的に思えたものの、皮肉で俯瞰的な印象があったので。

 

https://roberticke.com/reviews/oedipus.pdf

↑こちらに多くのレビューがまとまって掲載されています。

 

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ハンス・ケスティングはクセの強いダーティーな感じもあり、演者としても三浦さんとは(他に以前観た野村萬斎さんとも)全く違うタイプのオイディプスですね。でも、今作では、リチャード3世やマーク・アントニーの時と違い、優しい情感が前面に出ていたと思います。やはりリンク内SUNDAY TIMESにそういう評がありました。イヨカステ役のマリエッケ・ヘービンク(かな?Marieke Heebink)は、ITAの“Roman Tragedy”ではキャシアス(『ジュリアス・シーザー』)とチャーミアン(『アントニークレオパトラ』)。今作は原作以上にイヨカステにも焦点が当たり彼女の心情を語る場面も多くなっていて、かなり激しい感情が表現されていました。クレオン役はアウス・フレイデイナス・ジュニア。“Kings of war”での幸薄いグロスター公と日和見的バッキンガムが印象に残っていまして、今回も1人隅に置かれちゃう感じのクレオンでした。最後にクレオンが懐の深さを見せるシーンはありません。今作はコロスも登場せず、一番最初にオイディプスにインタビューする報道陣とその周囲で彼に期待する市民が一寸映る程度です。

 

てっきり現代化”演出“と思ったら、ロバート・アイク翻案でもあったので、英語字幕はあったし大筋は原案と同じとはいえ、翻案の核心や詳細を受け取り損ねている可能性はあると思います(加えて早朝の配信だったので注意力も散漫でした)。現代化にあたって、オイディプスは選挙当日に開票結果を待つ政治家の設定になっており、それに言及しているレビューが多かったのですが、私には逆にそこは現代化でよくある設定に思えてしまいました。その点以上に、今作が私には愛vs.家父長制の呪縛のような構図に思え、それがアイク演出(アンドリュー・スコット主演)『ハムレット』とも通底するようで、非常に印象的でした。石丸演出版に神話的な崇高さがあるとすれば、アイク版は世俗的でフロイト的な読みを更に反転、あるいは3/4くらい捻ったような気がしました。とはいえ、英語字幕に追いつけずあやふやなところもありますし、そんなことを書いているレビューはなかったので、あやふやさに基づく妄想感想かもしれません。

 

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この下からは演出・翻案内容ネタバレになるので、いつもどおり画像を挟みます。

 

Photo by Jr Korpa on Unsplash

 

今作では、中盤、オイディプスとイヨカステがセクシュアルに高揚した感じになって、ベッドに行くために中座する場面があるんですね。この辺は翻案というよりは演出的なんですが、そのため、原作の『オイディプス王』から無意識の性的欲望を強調したのかとその場面では思いました。ですが、後半から終盤になると、その無意識に欲望されていたことは、性関係というより(しかもどちらかといえばイヨカステ側の)安心できる愛情関係や、抑圧的・暴力的な元夫ライオスの排除であったのではないかと感じました。それを知らないままに実現したのがオイディプスで、家父長的抑圧による、あるいは死せる父によってもたらされた悲劇と言えそうな気がします(アイク演出の『ハムレット』にも家父長制の抑圧や死せる父によってもたらされた悲劇という面がありそうに思え、今作を観て『ハムレット』でもそこを見せたのではないかという思いが強くなりました)。終盤近くでも2人のセクシュアルな関係と、仰向けで手足を縮めた姿勢で「ママ」と叫ぶ赤ん坊のようなオイディプスを重ね合わせるような描写もあるのはあるんですが。(この叫びは、未知の母親に巡り合っての“お母さん!”にも、“妻のはずが母だったとは!”にも聞こえる気がしました。)ですが、無意識に欲望されているのが性関係(だけ)ではないこと、イヨカステ側の欲望・願望でもあること、父殺しの暴力の前に父からの暴力が強調され、達成または回復されるべき秩序があるか疑問なこと、などからフロイトを反転とか3/4くらい捻ったという印象になりました。原作と異なりライオスの性暴力も語られますし、養母(実母と思われている)がオイディプスを養子にした事情にも、他に女性がいる夫を繋ぎとめる面もあったことが言われます(←ここは勘違いだったらごめんなさい)。

 

ソポクレス『オイディプス王』や元の神話は、もちろんフロイトオイディプス・コンプレックスのアイディアの元ですが、ソポクレスのものを読んだり観たりした時に少なくとも私はオイディプス・コンプレックス的心理はほとんど感じません。むしろ宿命の皮肉や、全てを見通し統御などできない人間のあり方に思いが及ぶ気がします。ですが、今作の方は結構生々しく、特に家族関係での感情の軋みのようなものが前面に出ていると思いました。観ている時の印象は『欲望という名の電車』を観るのに近い感じでした。

 

その他の原作との違いもあります。原作ではオイディプス自身も父を殺して母と通じるという予言を聞いて、それを避けるために実父母と思っていたコリントス王・王妃の元を去るのに対し、アイク版ではその予言はない形になっています。冒頭から原作には登場しない(養)母が出てきて、イヨカステやオイディプスの子供達と共に一家でお祝い的な食事をしたりします。子供達は成人か10代後半くらいになっており、2人の息子は食事中に諍いになるなど『アンティゴネー』の先取り的な展開も示されます。一方、オイディプスから不当な嫌疑をかけられ、気まずくなって食事に加わらなかったクレオンにアンティゴネーが親しく声をかけていて“ああ、この2人が後には……”と思わせます。また、原作の大きな改変ではないかもしれませんが、アイク版の方は、オイディプスはライオスを意図的に殺したのでなく交通事故で結果的に死に至らしめていて、オイディプスはそれを知ると“自分は人を殺していたのか、もう政治家として終わりだ”と苦悩します。殺したのが前統治者のライオスだったからでなく、人を殺したことに罪の意識を感じたという作りだと思います。(主人公による殺人を重く受け止める形にする点も、アイク演出版『ハムレット』との類似を感じました。殺人に関する現代との感覚の違いはかなり大きいと思うので、現代化に際してアイクのこういう処理は本当にいいなと思います。)

 

最後は目を潰したオイディプスによる独白はなく、結婚して選挙事務所を開設した時の回想シーンになっています。サプライズのために目隠しされたイヨカステがオイディプスに手を引かれ、事務所予定の部屋で目隠しを取って“ここが私達のhomeね!”と喜びます。原作の逆転、『コロノスのオイディプス』の逆転オマージュにもなっているのでしょうか。最終部に一番幸せな時の回想シーンが来て、イヨカステの望みが示されるのが悲劇を際立たせて見事な作りだと思いました。

 

(未読なんですが、石丸演出版の翻訳はこちらなので載せておきます。)