『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ロバート・アイク演出、アンドリュー・スコット主演『ハムレット』感想

Youtubeで探すと映像があるかもしれません、というやり方で観て、迂闊なtweetして失敗したりしたので、ロバート・アイク演出の『オイディプス』の感想の下ぐらいに入れようかと思ったんですが、好きすぎてあまりに長くなってしまい独立させました。

 

抜粋映像で見た時から予想していた通り、スコットのハムレット役は抜群で、“ああこのハムレット本当に好き”と思ったのはもちろん、作品全体も素晴らしくて感慨を反芻してしまいます。何がすごいって、現代化しているのに展開にも台詞にも(とはいえ英語はあまり聞き取れていませんが)ほとんど違和感がないことです。現代化演出だと、無理があるなーと思うこともそこそこあるんですが、今作は登場人物のそれぞれの台詞や行動にとても説得力があります。この台詞をこう捉えられるのかと思うことも何度もありました。下記リンクのレビューまとめでも、ほとんどのレビューがその点を絶賛していました。

 

https://roberticke.com/reviews/hamlet.pdf

(私が直後に観たのが『オイディプス』で『1984』でなかったせいか、多くのレビューが言及している監視社会の方には注意が向きませんでしたが、確かに皆が相互に立ち聞きしたり注視したりする箇所は強調されています。)

 

とても明晰に思え、詳細な解釈での明確な演出プランがあったのかと想像していたら、2年くらいかけて主にアイクとスコットで話をしながら練っていったようでした(インタビューではスコットは“主には2人で……ほとんどはロブ〔=アイク〕が”と言い、対談でアイクの方は皆で色々試していったような話をし、謙遜でも事実でもあるんでしょう)。登場人物の背景を考える、登場人物について別の見方ができる、結果が予めわかった話でないようにナチュラルに見せるといった方針はあったようですが、特定の解釈先行という訳ではないようです。そもそも演劇・演出ってそういうものなのかもしれません。アイクは、シェイクスピア自身が現場の人間で、アカデミックな世界に閉じ込めてはいけないとも言っていました。スコットは、その台詞をどんな意図で言ったのかを真実のもの(truthful, authentic)にしたかったと話していて、それによって台詞の意図やその理由が必然的に現代的なものになり、納得できるものになったということかもしれません。

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

スコットのハムレットはフレンドリーで情感豊か、セクシーでユーモアもあって、そんな彼の性状と、彼が信義のために実行しようとすることが折り合わず、そのことが彼も周囲をも壊していったように思いました。ジェシカ・ブラウン・フィンドレイのオフィーリアとは既に深い関係で、互いの愛情も理解していても信頼が崩れて終わり、それでも2人の気持ちは揺れているようにも見えました。「尼寺の場」だけ観ていた時は、ハムレットもオフィーリアも悪くないのにすれ違ったように思え、『薔薇王』4巻に近いように感じましたが、全編観ると印象が違って、『薔薇王』4巻に近いのはターナー演出・カンバーバッチ主演の『ハムレット』の気がします。その比較で言うと、カンバーバッチの真面目で生硬な印象のハムレットとスコットのハムレットは対照的だとも思いました。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

ネタバレが含まれそうな人物についてはこの下で書きますが、ピーター・ライトのポローニアスは、口うるさくても愛情深く、娘とハムレットのことも気遣い、事態をなんとか収束させようという善意を感じます。息子のレアティーズ(ルーク・トンプソン)が今作ではそれに輪をかけて人がよく、第1幕ではのほほんとした雰囲気もあって、今までに観たことがないタイプのレアティーズで新鮮でした。でもそんな彼が復讐に駆られるので一層劇的になります。(イアン・マッケラン主演の『リア王』のエドガーでしたか!この時も人がよさそうで優しい雰囲気でした(感想記事こちら) 。ちなみにアンソニー・ホプキンス主演の『リア王』では、スコットがエドガー(感想記事こちら)。)ジョシュア・ヒゴットのホレーシオは逆に正統派というか、冷静で穏やかなよい聴き手で、感情の錯綜した人間関係に巻き込まれず全体を見られる人という古典的解釈にも添いそうな感じです。今作だと、それに巻き込まれなかったから生き残ったようにも思えます。

 

この下から、アイクがスコットとの対談で語っていた話に戻ります。若干ネタバレ気味です。

 

Photo by Lucas George Wendt on Unsplash

 

対談内で、アイクは、解釈を提示するより問いを提供したかったと語っています。クローディアスは本当に先王の兄を殺したのか、亡霊は本物なのか、ハムレットは狂っているのか……。それぞれをどう考えるかの組み合わせでも物語は変化するし、クローディアスが兄を殺したとするなら、彼はガートルードが自分と結婚する見込みを持っていたはずだがその理由は……と背景を考えることにつながるとも述べていました。

 

そのため受け取り方や解釈はある程度観客に委ねられているのでしょうが、アイクのこの仕掛けによって、特に中盤から、全く別のストーリーに見えてくる面白さもありました。誰が悪い訳でもないのに行き違いやディスコミュニケーションのために起きる“間違いの悲劇”のようにも、元の戯曲とは善悪が反転したようにも思えます。私はうっすら、愛vs.家父長制の呪縛 といった構図も浮かび、アイク翻案・演出の『オイディプス』を観て更にその感が強くなり、『ハムレット』に見られるミソジニー的なところを逆手に取ったようにも思いました。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

roberticke.comリンク内のTIME OUT誌のレビューが私のこの感覚に近くて、家父長制といった言葉こそないものの、今作の解釈の方ではあまりはずしてないんじゃないかな……と。(『オイディプス』の方の解釈は怪しいかもしれませんが)。

「この戯曲は常に道徳的にアンビヴァレントだが、今作は正義のヒーローと悪役からは離れた世界である。本当は誰も悪いわけでないが、誰もが情欲/情熱と弱さ(passions and frailties)に呪われている。」「ガートルードとクローディアスの互いへの愛が完全に本物であることと、ハムレットがそれを害したことが、他の出来事と同様大きな悲劇であることが示される。」

 

アンガス・ライトのクローディアスが、スマートでガートルードに対する愛情表現が豊かな人物にされていたのも、ジュリエット・スティーヴンソンのガートルードがやや奔放にその愛情に満たされているように見えたのもよかったです。上リンクの各レビューでのクローディアス像は実はまちまちで、それは特に最初の方では彼が台詞通りの「残忍好色」にも見える(罪を告白する場面を現実だと取ればそこでの彼は悪辣にも見える)一方、劇の進行とともに本当に兄を殺したのか曖昧にされ、真摯にガートルードを愛しているようにも見えるためだろうと思います。

 

ハムレットが花を持っているポスターも、ファンのためにデザイナーがいい仕事をしてくれた(感謝)ぐらいに思っていましたが、このひなぎく(デイジー)も劇中で印象的に出てきます。オフィーリアの狂乱の場の台詞に“There’s a daisy”とあり、小田島雄志訳では「不実なひなぎく」で、不実なひなぎくを持つハムレットというのもいい感じはしつつ、でもそれはシェイクスピアの同時代の劇作家グリーンの言葉で、専ら日本での解釈・翻訳らしいのです。「英語名の語源がDay’s eyeであることからも(中略)この野の花は、豊かな生命力をもつ、清純な愛の花」だそうです(『シェイクスピアと花』)。松岡和子訳では「悲しい恋のヒナギク」、河合祥一郎訳は原文通り花の名のみ。このポスターでハムレットは父の形見の腕時計も着けていて、これも劇中でかなり意味のある使い方をされています。ひなぎくが愛を、腕時計が家父長制の呪縛を象徴しているようにも……思えたり……。ひなぎくは尼寺の場、狂乱の場、墓場で出てきて以下に書いています。腕時計の演出については最後に書いたので、こちらをクリックいただくとそこに飛べます(でも終幕箇所なのでがっつりネタバレです)。

 

以下、舞台の最初の方からよかったところや発見的だったところをヲタ的に延々と語って、やたらと長いです。目次をつけましたのでお好きなところをどうぞ。相当に演出ネタバレ的になります。

 

 

亡霊の登場

モニターに映る形で亡霊が登場することは聞き及んでいて、観る前は“現代演出あるあるだな”“以前もそういう演出見たことある気がする”と舐めていました。でもここも演者の台詞がよいせいか、場面の作りがいいのか、緊迫感があって現代の怪談・奇談か、隣国のハッキングやスパイ事件か(よく似た人がそう見せているとか)、ともかくマーセラス達は対応の必要を感じたかもしれないと納得させられます。王の亡霊と戦争に絡む国内外の情勢が一緒の場面で語られることが、原作の不吉な出来事が続くという以上の、隣国との関係で実際にまずいことが起きているかもしれない新たなニュアンスに感じられました。

 

ハムレットとオフィーリア/クローディアスとガートルード

クローディアスとガートルードの結婚祝賀セレモニーは、ポローニアス一家など近しい人々でのホームパーティのような場面になっており、その最中にハムレットはひっそり黙って留学先に戻ろうとしています。クローディアスと仲睦まじく浮かれていたガートルードが部屋に戻ったところでそれに気づき、場を取り繕うようにクローディアスが格式ばったスピーチを始める流れになっています。この演出による文脈の作り方も素晴らしくて、今作ハムレットが何より蟠りを抱いているのが父の死から2ヶ月での母の再婚であることが明確に見えます(台詞通りなのですが!)。今日的にも、ハムレットがいい大人でも、ハムレットの言い分が了解できます。

 

これまで、クローディアスの台詞にある“父親の死を悲しみすぎ”ているように思えるハムレットを観ることが多かったので、冒頭でハムレットへの共感を作りやすくしてもらった気がしました。上リンクのアイクとの対談で、スコットは“この場面ではただ悲しむこと(grieving)だけをしている”と言っていているので、私の捉え方は違うのかもしれませんが、確かにハムレットは父の死を悲しんではいるものの、悲しみに囚われている感じはしません。“Why seems it so particular with thee?“(誰でも死ぬのは当然で、それがなぜ特別に思えるの?)とガートルードから問われての“Seems, madam! nay it is; I know not 'seems.' 'Tis not alone my inky cloak, good mother,”もやや軽い言い方です。父親の死が自分には特別だというより、“僕はなにもお仕着せの悲しみの仕草をしてる訳じゃないんですよ”、あなた達に悼む気持ちはないんですかと遠回しな皮肉を言ったようにも聞こえます。周囲には気まずい、場が白ける空気が漂い、クローディアスが皮肉の中身でなく敢えて表面的意味を捉えて、“よい心がけだが父親の死を悲しみすぎるな”と自分達を正当化した風です。これも元の戯曲に十分読める含意でしょうが、それが見通しよく示された感じがしました。最近見たチェーホフっぽい、感情の行き違いで変になる会話のようにも思えます。

 

その一方で、抗い難い愛と肉欲というものがあることが、クローディアスとガートルードと並行的にキスしたり踊ったりするハムレットとオフィーリアの関係で示されます。それによってクローディアスとガートルードにも共感的になります。しかもハムレットはオフィーリアを抱きしめて泣いているようでもあり、行き場のない感情がそこで癒されているとも思えます。

 

オフィーリアがハムレットについて、兄レアティーズや父ポローニアスには、“優しい言葉をくれる”“誠実に愛を誓ってくれている”という言い方をするところも、ハムレットが隠れて見ている設定にされているので、彼と相当に親密で十分大人でも(後のシーンで浴室にハムレットが入って来ても彼女はそんなに驚きません)おかしくありません。貞操についての兄や父の忠告は現代化すると無理を感じることも多いのに、今回は不思議とそう感じませんでした。ハムレットとオフィーリアの親密な描写の後だと、レアティーズ達も薄々それには気づいていて実情はともあれスキャンダルになることを注意したようになるためでしょうか。レアティーズの言いにくそうな雰囲気のうまさのせいでしょうか。オフィーリアも、いい機会なので、父親に、”愛を誓い“とその先を言おうとしたように思えるのです。でも父は聞く耳を持たず(加えて、認知症の症状が出始めた父が激昂して)話が打ち切られます。

 

ハムレットと父の亡霊

ホレーシオ達がモニターの亡霊や怪奇現象は体験していても、亡霊とハムレットが本当に話したのか、亡霊の話が本当かどうかは、アイクが言っていた通り、曖昧な作りに見えます。今作ではその前のパーティの場でもハムレットには一瞬父親が見え、その時は彼はそれを“心に浮かんだ”ものだと否定しています。亡霊と対話した直後のハムレットが銃を構えてテンションが高ぶっているのも、真実を知って復讐心に燃えているとも取れる一方、彼の精神状態が危うい雰囲気もあり、亡霊が幻覚妄想の可能性も思わせます。亡霊の「誓え」という言葉をホレーシオ達が聞く場面はカットされ、亡霊の信憑性を薄めていると考えられます。

 

ハムレットは父を立派な人だと言い父の亡霊を慕って抱きしめますが、亡霊として出てきた父親(デヴィッド・リントゥール)は軍服を着ていかめしい口調です。その姿と相俟って、再婚した妻のことを「おぞましい堕落」とか「淫らな女は」「ごみ溜めの腐れ肉を漁る」と言う台詞からは、父権的で頑固な人に見えます。ホレーシオが語る、敵を倒した勇ましい先王もそういう文脈でも取れると思いました。

 

直後にいい雰囲気でセクシュアルにじゃれるガートルードとクローディアスの描写が入り、それは亡霊の言葉通り「邪婬の床」と言えそうな一方、こういう密で愛情表現たっぷりの関係性がガートルードと前夫の先王の間にはなかったかもしれない、彼女は前夫の「貞淑の鑑」という眼差しから解放されたのかもしれないとも思います。2人がいかにも淫らで情欲まみれにだけ見えたらだめだし、楽しげでセクシュアルな関係が見えなくてもだめだし、その加減が絶妙でした。

 

更にオフィーリアの浴室にハムレットが来てキスを交わすシーンが入り、やはりハムレットとオフィーリアの関係とクローディアスとガートルードの関係の類似が示唆されます。ですが直後に、オフィーリアの腕をハムレットが強く引っ張っぱり首に手をかけて怖がらせるという別のもの、加えてDVかもしれないニュアンスが入ってきます(復讐計画での佯狂でもありそうだし、彼がおかしくなっているようにも思えます)。愛でなく貞節や義を重んじる先王の有害な男性性がハムレットとオフィーリアの間に入ってきてしまったような感じがしました。今作ハムレットは父を敬愛していても、性格傾向としてはクローディアスに近いだろうと思え、ハムレットの中に2つの対立する心情があるような気がしますしかも亡霊の言葉自体が彼の妄想かもしれないですしハムレットは、自分とヘラクレスが違うほど父とクローディアスが違うと言っていて、今作の先王とクローディアスは本当に似ていない一方、クローディアスの価値が下とは思えず、この台詞もハムレットの男らしさコンプレックスのようにも思えます。

 

ハムレットの行動に驚いたオフィーリアが思わず父ポローニアスに相談し、ポローニアスが“This is the very ecstasy of love, Whose violent property fordoes itself”と言った際には、DVを恋愛だと誤認する考えが語られたようにさえ思え、もしかしたらこの台詞から逆算的にその前のシーンを作ったのだろうかと思いました。

 

ハムレットの狂気

今作では旅芸人の座長を父の亡霊役のリントゥールが演じています。父と座長が同じ演者という演出は他でもありますが、今作では彼が入ってきた時のハムレットのはっとした表情や2人の視線のやりとりでそこに意味があることも示されます。やはりハムレットが亡霊について妄想を抱いている可能性を強化する演出の気がしますし、同時に、旅芸人の芝居に触発されて復讐の決意を新たにするのも原作以上の説得力が出ます。

 

スコットのハムレットは、これもアイクが述べていた通り、狂気の振りをしているのか実際におかしくなったのか判然としません。今作では、ハムレットが亡霊と会い、“この後、おかしい振りをする”とホレーシオ達に告げる前に、ローゼンクランツとギルデンスターンが城に呼ばれて“ハムレットが父の死を悲しむあまり変わってしまったので慰めになってほしい”と言われていて、これも曖昧化させる仕掛けだと思います。元からややセンシティブで気分に波があるハムレットにも思え、そのため今作のガートルードはあまり本気で心配していません。変な行動が増え気分変動が激しくなった彼を、家族以外の人の方が不安視しているのもなんだかリアルです。

 

王の殺害を再現する芝居をクローディアスに見せれば真実がわかるというハムレットの台詞も、どこか危うさを感じさせ、彼の判断がおかしくなっているようにも思えます。観劇中のクローディアスの様子を見るようホレーシオに依頼する時も、ハムレットがどんどん興奮してきて、ホレーシオは“必ずそうしますから”と落ち着かせようとしているように見えます。

 

尼寺の場

ハムレットとオフィーリアの親密な雰囲気と不信と傷つきが入り混じり、最後はハムレットの感情のぶつけ方が暴力的なシーンになっていました。「美しいオフィーリア」「妖精」の台詞は冗談混じりというかhoneyやsweet同様の呼びかけで、このハムレットはユーモアで“the most beautified Ophelia“のような大袈裟な言い回しのラブレターを毎日送っていたんだろうと思えます。「いかがお過ごしですか」と聞かれての“well, well, well”の答えも、“well(キス)well(キス)well”です。そう、親密な愛情表現は今作クローディアスと似ているのです。

 

その手紙をオフィーリアが返すと言うと、ハムレットはポローニアス達の盗聴なのだろうと急に醒めた態度になります。でも、盗聴は事実でも、フィンドレイのオフィーリアは、愛も未練もありつつ彼と別れるつもりでやってきて手紙を返したように思えました(その前のガートルードがハムレットとの結婚を示唆する台詞でも固い表情だったな、とこのシーンになって思います)。彼女にとってはこの程度のやりとりが聴かれるのは大したことではないのだろうと思えます。第1幕で彼女と兄・父の会話をハムレットが隠れて聞いていたのも伏線として効いてきます。(今作ではハムレットだって同じことをしているわけです。原作のままだとオフィーリアのハムレットへの背信か、それすら気づかない親の言いなりにも思えるところ、彼女が盗聴をあまり気にしない背景を作ったのは秀逸だと思いました。)彼女は、ハムレットの態度変容や、この場でも話をはぐらかすような振舞いから彼との関係は終わりと思っている節がありそうです。考えてみればこれも台詞通りで、“when givers prove unkind.”でunkindが耳に残ります。彼の優しくチャーミングな面とDVしそうな面とで悩んでいるところもあるかもしれません。“There, my lord.”(ほら!返します。)でも怒って立ち去ろうとして強いです。ハムレットの方も愛はあっても、自分の監視に協力する、誠実(honest)でない彼女とこの関係の先はないと思っていそうで、2人共に被害者的な面と悪い面がある気がします。

 

“I did love you once”の台詞がこんなによくわかる関係はなかったかもしれません。「以前はおれもおまえを愛していた」の小田島雄志訳だと(類似の河合祥一郎訳でも)出ないニュアンスも入っています(松岡訳だと工夫できそう)。onceとの間があって、“本当に愛していたんだ”とdidは過去というよりloveの強調に聞こえ、それが“前はな”で否定されます。ハムレットは“美しさはhonesty(誠実/貞淑)を女衒に変える”などと言い、それにオフィーリアは涙します。この言葉は、彼女の美しさ(=ハムレットの恋愛)を餌に監視させたという裏切りを揶揄した非難にも、ミソジニーモラハラ発言にも思え、涙もどちらへの涙にも見えます。瞳を潤ませ静かに涙をこぼすフィンドレイが素晴らしいです。それでも今作オフィーリアは、“I did love you”をわかっているように思いました。

 

ポローニアスの所在を聞いても嘘を言うオフィーリアに、ハムレットが更に傷つくのも十分了解できる一方、以降の彼が語るのは専ら貞淑や女性蔑視の話で、別れる彼女に「尼寺へ行け」とまで言って束縛します。今回この発言には独占欲とずるさも感じました。中盤からの発言の方は、父の亡霊と類似の(それを引き継いでしまった)家父長制的なものに思え、その価値観が2人の関係を壊した印象になりました。更にこの後では、無理矢理キスをしたり、女性の化粧を悪く言う台詞で顔に水をかけたりと台詞も振舞も暴力的です。“if thou wilt needs marry, marry a fool; for wise men know well enough what monsters you make of them.”のmonsterは妻に浮気されること(=妻が浮気すると夫に角が生える俗説から)を指しているらしいのですが、ここではmonster=DV夫のようにすら思えました(そもそも角が生えるという譬えも怖いですよね)。同時に、ここでも彼がややおかしくなっているようにも見えます。

 

このハムレットの振舞を、ポローニアスはやはり“neglected love“によるものと考えるのに対し、クローディアスが“Love! his affections do not that way tend”(愛だと! 彼の感情はそこに向かってはいない)と言うのが、暴力と愛が違うとわかる人のようにも見えたり……。もちろん原作的には恋でも狂気でもなく何かありそうだという意味なので、私の思い込みすぎの気もしますが、オフィーリアにも聞こえる言い方にはなっているのです。

 

この場面の最後で、ハムレットが捨てていったラブレターをオフィーリアが拾い集めながら、落ちているひなぎくを拾います(ひなぎくが出てくるのは多分ここが最初)。

 

やはり上のインタビューでスコットが、“尼寺の場は本当に難しくて、ミソジニー的なものにしたくなかった、自分たちが演じたように〔元々〕かなり暴力的場面だとは思うけれど”というようなことを言っていて、それもとてもわかる気がしました。逆説的ですが、暴力が暴力として強調され、ハムレットの台詞にミソジニーが入り込こんでいるのが示唆されたことで、場面としてはミソジニー的でなくなったと思うのです。

 

ローゼンクランツとギルデンスターン

この2人は今作でも男女ペアでギルデンスターンが女性なので、やはりクローディアスに言われてハムレットの話を聞きだそうとするギルデンスターンに笛を吹いてみろと怒るシーンが尼寺の場に似てきます。今作ギルデンスターンはその直前に“My lord, you once did love me.”と切なげに言い、ハムレットと以前つきあっていたかもしれない、彼女の方は今でも好きな感情がありそうなのが印象的でした。ハムレットは“So I do still, by these pickers and stealers.”と返して、恋人繋ぎの握手をしたりするので余計に2つの場面が似てきます。私はローゼンクランツが彼女の今カレか恋人昇格期待中と思い、その彼の前で“pickers and stealers”は意味深で、ハムレットが三角関係的に感情を弄んで2人に抵抗しているように見えました。(むしろ戯曲の元の含意がわからないなと思いました。小田島訳では「癖の悪い手」ですが、ギルデンスターン達の手の癖が悪いから自分も悪い手で対応するということ?)ただ、スコットによればローゼンクランツの方は策略的なキャラで、ロゼギル2人のスタンスが違うという作りらしいです。今作ロゼギルがカップルなのは大前提なので言及されなかったのかもしれませんが、いずれにしても、ハムレットはこんなギルデンスターンまで間接的に殺してしまう訳で、この辺も善悪の反転を感じます。

 

劇中劇とクローディアスの告白

上述のように、アイクは、クローディアスが兄を殺したのかどうか曖昧にしたと言っています。観劇の途中でクローディアスが席を立ったのは(ハムレットの台詞には反して)殺害の証拠にはならないと思いますが、今回大変遅まきに、耳に毒を入れたのが秘密の暴露というか犯人以外知らないはずの話なんだなと理解しました。その瞬間にクローディアスが眉根を顰めたところがモニターに映され、彼がすっと席を立つタイミングもよくて、なるほどと感じました。どちらかわからなくされている(むしろ無実の解釈に寄っているように思える)とはいえ、真実かもしれない方の精度も上がっていると思いました。

 

クローディアスが芝居を観た後に殺人の罪を嘆く場面は、現実か、想像/妄想かわからないものになっていました。ハムレットとクローディアスが向き合って語っているとするなら、クローディアスの態度は狡猾で挑発的にも思えます。非現実と取る場合も、クローディアス、ハムレット、どちらの側の想像とも取れそうです。ただ、どちらにも取れるということは通常の解釈でない方が強調・示唆されることでもあるので、亡霊もクローディアスの告白も、ハムレットの妄想と考えたくはなりますね。

 

ポローニアスの死

寝室の場面では、ハムレットがポローニアスを誤って殺害したことが今作ではとても重く扱われていました。ガートルードは、人を殺しておきながら彼女の再婚を延々と責めるハムレットに尋常でないものを感じて心を痛め「もうやめて」と言っています。ハムレットが亡霊に語りかけると、ガートルードはいよいよ彼がおかしくなったと思い、彼女の身を律するように言うハムレットの話の内容もおそらく耳に入っていません。(そして確かに元戯曲もそのようにも読めると気づきます。)ここも曖昧にはされているのでしょうが、ここでの亡霊はハムレットの妄想で、ハムレットの語り方も常軌を逸しているような作りだと思いました。ただ、ハムレットのその感情の乱れは、ポローニアスを殺した衝撃によるものだろうと思えます。

 

また、クローディアスの先王殺害を所与としなければ、ハムレットによるポローニアスの殺害こそこの劇で最初の殺人であることに気づかされます。アイク版ではこの事件が大きく物語を動かし、その後の悲劇の発端であるようにも思えます。それはハムレットが引き起こしたものです。今作のクローディアスはハムレットによる復讐の恐れのため以上に、おかしくなったハムレットがポローニアスを殺し、それを公にできないためにイングランドハムレットの暗殺を頼むしかなくなったふうに見えました。ポローニアスの復讐のためにレアティーズが乗り込んでくると、クローディアスは彼に、ハムレットを表立って処刑できないのは、ガートルードが悲しみ、民衆に人気があるためだと弁明します。今作クローディアスだと、それがごまかしや奸計でなく、誠実な説明に思え、「とるにたらぬことと見えるかもしれぬが」「妃こそ魂の糧とも思う」の台詞はとても真実味があります。今作では、ガートルードはホレーシオからハムレット暗殺計画を知らされ(ここはQ1から?)、その後彼女はこのクローディアスの発言を物陰から聞くことになります。

 

オフィーリアの狂乱

今作のフィンドレイのオフィーリアはここで泣きながら怒りをあらわにしていました。花を配る時も周囲は固唾を呑んで見守って、迂闊に口を挟めない雰囲気です。(中盤のレアティーズの台詞はカット。でもむしろそれが場面もレアティーズの感情も重いものにしてよかったです。)ここで台詞に出てくるひなぎくは、誰にも渡されず“There’s a daisy”と言って下に落とされます。『シェイクスピアと花』から続ければ、「狂ったオフィーリアが差し出すデージーは、ハムレットに対する愛が、花開くことなく、無惨にも破壊された悲しみを、逆説的に語っているのである」とのことで、そういうニュアンスに思えます。

 

墓場

ハムレットと墓掘りとの会話が静かで穏やかで、ハムレットがヨリックの髑髏に思い出を辿って愛おしそうに語りかけているのがとても印象的でした。劇前半の独白では生と死が暗く対比されているのに、ここでは穏やかな明るさをもって生と死に思いを馳せていそうです。アレクサンダー大王もこんな髑髏なのかという台詞も、スコットの語りでその含蓄を思いました。立派なアレクサンダーの亡骸も塵と化す。“To be or not to be”で、どちらが立派な生き方かと悩んでいたハムレットがこういう考えになったか、と今回初めて思いました。

 

それでも、その直後にオフィーリアの埋葬シーンが来て、先程は穏やかだったハムレットが我を失います。歴史上の偉人や過去の思い出のヨリックの死の受容と、今ここで起きた死は違うことが対比され、ここも戯曲のよさに気づかされました。最初にレアティーズが思わず棺を開けてオフィーリアの亡骸を抱きかかえて嘆き、ハムレットはそれを奪って抱きしめ“I loved Ophelia.”と叫ぶ流れで、勝手だし酷いんですが、深い想いが伝わります。激昂して語り続けるハムレットはやはり異様にも感じられ、怒り心頭だったレヤティーズが途中から“ああこの人は正常じゃないんだ”と同情的な表情になっています。

 

ハムレットとレアティーズが揉める少し前、レアティーズはガートルードから渡されたひなぎくを掲げて「あいつの非道な行為がおまえの気を狂わせてしまった」と嘆き、墓には入れずその場に置いています。そのひなぎくハムレットは持ってきて、その後のホレーシオと語るシーンで花びらを全て摘み取りました。そこまで意味がないかもしれませんが、オフィーリアを、愛を、死なせてしまったことの象徴にも思えます。「すてるべきいのちについてなにがわかっている」「かまうことはない(Let be)」の台詞で、手からその花びらを散らします。

 

試合と毒杯

レヤティーズが剣を変えてくれという台詞が、毒を仕込んだ剣を選ぶためのものでなく、そうでないものに取り替えようとした台詞になっていて、ここも発見的でした。暗殺計画を中止したかったのに許されなかったという流れで、今作では、実力的にはレヤティーズの方が強いけれど、刺すのを避けているか良心の呵責でもう一歩踏み込めなくてハムレットが勝った感じがしました。

 

ガートルードは、暗殺計画も、クローディアスの自分に対する愛もわかっていて、自身もこの事態を招いた一因だと考えて毒杯を飲んだように思います。クローディアスがそれを止めようと伸ばした手を繋いで制して、彼女に対する愛もわかっていると伝えたように見えました。ガートルードが毒杯を飲んだため、レアティーズがいよいよ動転してハムレットを剣で刺した流れのようでした。クローディアスも彼女の死後、その場に立ちつくし、受け入れるようにあっさり毒を仕込んだ剣に刺されます。彼はガートルードの手を取ろうと手を差し出して亡くなり、最後まで彼女への愛を感じます。見ようによってはマクミラン振付ロミオとジュリエットっぽくさえあります。

 

終幕

あちこちで話題になっていますが、終幕は驚きの演出で、ここで場面が明るくなって第1幕でのテラスのある居間になり父の亡霊が登場します。死後の世界のようで、亡くなった人々が第1幕でのパーティのように屋外のテラスで踊っていて、オフィーリアはウェディングベール姿でハムレットに微笑みます。クローディアスもガートルードもテラスに赴きます。ガートルードがテラスに行こうとする時、ハムレットは父と母の手を繋ぎ合わせようとするのですが、彼女は無表情でそのまま手を離して進み、クローディアスの方に行ったようでした。

 

テラスに向かう人々は、父の亡霊に腕時計を渡していて、腕時計が命の時間=生のようにも思えます。ハムレットも“Had I but time--as this fell sergeant, death, Is strict in his arrest—”「時間さえあればーああ、死神め、捉えた獲物を容赦なく引き立てる」の台詞で、亡霊の手が肩にかけられ、腕時計を渡そうとするとーー着けていたはずの時計がないのです。その時計は既に父の亡霊が着けています。元々その腕時計は、第1幕冒頭でハムレットが父の形見として身に着けたもので、劇中でもしばしば彼はその時計を触っていました。ハムレットがその時計を着けてから、彼は父の時間を生き、自分の時間を生きていなかったのではないかとも思えてきます。また、父の亡霊はテラスにいるのではなく、テラスの手前で腕時計を受け取っており、この成り行きも父の亡霊がもたらしたもの、亡くなった父の支配にも思えます。

 

第1幕で父の亡霊と話した後のハムレットが“The time is out of joint”「いまの世の中は関節がはずれている」の台詞で腕時計を触っていて、その場面では言葉遊びのようだとだけ思ったのですが、最後まで見たらハムレットの腕時計はこの台詞から工夫されたのかもしれないと思いました。父とハムレットが非道・不義を正して取り戻すべき秩序を象徴するのが腕時計だったのではないかと。元戯曲ではそれがハムレットが果たすべき使命ですが、今作では、それを呪縛として善悪を反転させているように思いました。

 

更に再び場面は暗くなり、テラスの人々も父の亡霊も消え、これもまたハムレットが死の前に見た幻想だったかもしれないものにされています。ハムレットが望み体現していたはずの愛、父の遺志のように思ってしまった「信義」=呪縛、それがハムレットの中の2つの心情であったようにも思えます。

 

「」内の台詞は小田島雄志訳、白水社版から引用しました。