『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

宮本亞門演出、成宮寛貴主演『サド侯爵夫人』感想

……随分ご無沙汰してしまいました。忙しかったこともあったんですが、やはり私の原動力は薔薇王だったのかと自覚させられます、ガタンとペースが落ちました。多分、薔薇王好きな人もこの『サド侯爵夫人』はきっと刺さると思います。三島由紀夫作の、マルキ・ド・サドの妻の話です。3月11日まで配信中です。(私は舞台を観に行ったんですが、特典映像が気になりますね。)

 

↓配信情報こちらです

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演出も演者も素晴らしくて、しばらく感慨に浸っていました。そういうことかーと思えたこともあり(あくまで個人の解釈ですが)、こちらに書きたくなりました。長めです。

 

演出全般への感想

三島の、特に『サド侯爵夫人』は、絢爛たる言葉が散りばめられていて、三島自身が「セリフだけが舞台を支配し、イデエの衝突だけが劇を形づくり」(新潮文庫、自作解題)と書いているように、台詞だけで成立しちゃうような芝居と言ってもいいと思うんですよ。そこに宮本亞門さんは演出として肉体・身体を対峙・対置させていて、それを『サド侯爵夫人』の結末の解釈として、また(自決も含む)三島解釈として提示したんじゃないかとすら(例によって妄想半分に)思いました。(自決については、今回、この作品が三島の自決の6年前の執筆であることがナレーションで敢えて言及されます。)戯曲は何度か読んでいて、別上演を観たこともありましたが、今回、自分には見えていなかった構図を鮮やかに見せてもらい、結末について長年なんとなく抱いていた受け取り方を大きく変えるものになりました。

 

その内容については最終部のネタバレ的な話と共にもう少し詳しく下の方(←クリックで飛べます)で書こうと思いますが、今回、最終部を観ていた時、ああこれは『癩王のテラス』と類似のモチーフかと思ったんです。『癩王』は、美しい王が癩病に侵され肉体が衰えるのと並行して後世に残る壮麗な観世音菩薩が完成する話である一方、王が病で死ぬと塔上の若く美しい肉体が青春こそ不滅、肉体こそ不死」と語って終幕になります。『癩王』に限ったものでない三島的なモチーフとも言えるかもしれませんが。観終わってから、そうか宮本さんは『癩王』も演出していたと思い出しました。私がTVで観たのが宮本演出版で『癩王』はそれまで未見・未読だったものの、観た後も今まで『サド侯爵夫人』と繋げて考えたことは全くなかったんです。それが今回の最終部で2作品の繋がりを思いました。『癩王』の時も、美しい王が病んで衰弱していく儚さと残酷さ、そして肉体・対・精神(芸術)との相克や反転が、鈴木亮平さんの見事な肉体で表現されることが逆説的にも順当にも思えました。こうした話が舞台作品として俳優の肉体で上演されるのも背反的・複層的にも思え、『癩王』では戯曲としてもそれが意図されていたのかもしれません。(あまりうまく説明できていませんし、単純化しすぎとも思います。wikiに色々解説があるのでよろしければそちらを。癩王のテラス - Wikipedia『サド侯爵夫人』は上述のように台詞が際立つ芝居ながら、宮本さんは今作でもその辺を意図したのではないかと思ったりしました。


(以下、若干演出ネタバレです)

台詞の過剰性が特徴とも言える作品なのに、今作は最初に家政婦・シャルロット役の首藤康之さんが出てきて沈黙したままずっと佇んでいます。戯曲はサン・フォン伯爵夫人の登場と台詞からです。でも今作は舞台中央で首藤さんがしばらく前方=客席を見たまま動かず場を成立させ、シャルロットとして出迎える客を待っているのか、観客を劇世界に導入する先導役なのか、これから展開される物語の俯瞰者なのか(その全てかもしれません)などと想像させます。その後で話が始まります。サン・フォンの東出昌大さんは第1幕では美しい脚や背中を見せつける衣装で、第2幕では女性として胸を顕わにしたことがわかる演出と衣装。これは世間の道徳を意に介さず、性にも奔放なサン・フォンだからとも言えますが、貞淑な主人公・サド侯爵夫人ルネ役の成宮寛貴さんにも明確に肉体の強調と『癩王』的な重ね合わせがされていたと思いました。(首藤さんの場合は動かないことも含めてムーブメントの感じがして身体と言いたくなり、成宮さん東出さんについては生身のからだを提示している風で肉体と言いたくなります。)

 

各キャストの印象+演出

成宮寛貴さんのルネは「愛情と申してよいかどうか」とか言いながら、第1幕で夫のサド公爵アルフォンスとの思い出(咲き乱れる白百合に赤葡萄酒をかけて眺めたこととか、狩ったうさぎの心臓の話とか)を大切そうに語る様子からしてアルフォンスのこと大好きじゃん、と私には思えるルネでした。(細かいことなんですが、ここでルネの母モントルイユ夫人の加藤雅也さんが、ルネが美しいものとして語るアルフォンスの行動自体既におかしいというリアクションをしていて、価値観の相違がここでも示されたり、確かに既に逸脱的でもあると気づかされたのもよかったです。)成宮ルネは、妹アンヌの台詞で描写される怖さや裏、何を考えているかわからない風情はそれほどなく、台詞の端々に見られる言葉の毒もあまりいやらしくは響かず、でもその毒は自覚的に言っていそうで(第2幕中盤では毒を含ませる以上に全面闘争になりますが)、聡明でありつつ自分の気持ちに結構素直に突っ走る人に見えました。翻弄される人というより信念の強い人に思えます。昔観た篠井英介さんのルネも素晴らしかったですが方向性は異なり、篠井さんはその上品な振る舞いに底の読めなさを感じたり、健気さが怖さにも見えるようなルネだった気がします(検索したら2008年!だったので記憶の改竄あるかもですが)。そして最後については、ルネ自身がというべきか、成宮さんがというべきか、ルネの台詞の「光りの精」的な理念アルフォンスになったように私には見えた、そういう反転を感じた演出で、成宮さんを起用した効果、男優が演じる効果を最大限に生かしていたように思いました。

 

加藤雅也さんのモントルイユ夫人は、ヴィジュアルイメージや他の方から聞いた感想からもっと怖く厳しい雰囲気かと思いましたが、その想像よりは俗っぽさやおかしみがありました。でもルネに対して巌のように立ち塞がる重々しさがやはり身体的にも滲み出ている感もあります。台詞も男っぽさをそのまま出しているところもかなりあり、そこが好印象でした。モントルイユ夫人って、家父長的支配と母的な重さの両方があるようなイメージを私は持っていて、語りがそのイメージに合いました。

 

東出昌大さんのサン・フォン伯爵夫人は、上述のように肉体性が誇示されていました。意外に台詞は淡々としていて、語り方の印象からは、挑発的・扇情的というより我が道を行くサン・フォンという感じ。ただ、第2幕でサン・フォンが黒ミサを語る場面で、背景でその様子を実際に見せる演出はない方がいいんじゃないか、台詞だけの方がよかったなと思いました。先ほどから肉体の提示を絶賛しておきながらですが、具体的な場面の再現と肉体性を見せることとは違うと思うんです。

 

女性が演じていると言われても信じてしまいそうな、自然な女性感が一番あったのがシミアーヌ男爵夫人の大鶴佐助さん。えー!『ハムレットQ1』のレアティーズでは最初から険悪ムード醸してた感じだったのに、このギャップ。大鶴さんのシミアーヌもやはり淡々というか、第1幕から割合落ち着いている感じはありました。女性っぽくはあっても、第3幕終盤では一寸怖めでルネと対立的になっていました。

 

三浦涼介さんのアンヌもとてもよかっただけでなく発見的でした。実は三浦さんがアンヌ、首藤康之さんがシャルロットと知った時、豪華キャストだけれど役不足でもったいないんじゃないかと思ったんです。アンヌは小悪魔的な魅力を持つ役とはいえ、また三浦さんが信じがたいほどの可愛らしさで風貌的にもはまっているのは既に写真で目にしていたとはいえ、上4役に比べるとキャラクター的には強烈でなく信念に振り切っていないのがアンヌの特徴のように思っていたからでした。ですが、アンヌにしっかりした演者が来ると、ルネとの対抗軸がきっちり作られて、アンヌの持つ価値観や論理も浮かび上がってくるんだなーと実感しました。世俗的なアンヌを地としてルネの特異性が図として際立つというより、2つの論理が対立するように見えます。また、成宮ルネ、三浦アンヌだと、口論の時も底根に互いへの反感があるというより、アルフォンスに対する愛の違い、自分の信念を語っているように見えます。三浦アンヌはアルフォンスのことも単に姉への当て付けでなく本当に好きそうだし、口論してもルネにあまり遺恨はなさそうだし、母親のこともちゃんと心配しているように思えました。なので戯曲通り処世術巧みではあるものの、アンヌが自己中には見えません。ルネとは逆に、(打算も込みで)現実と世俗を愛する人として立ってくる気がします。

 

首藤さんの起用で、戯曲の印象とかなり違うキャラクターになったのがシャルロット。三島の解題によれば、シャルロットは民衆の代表だそうですが、シャルロットの民衆性を、世間の一般的価値観や時流による人々の流されやすさのように私は捉えていました。戯曲ではそうも読めると思います。首藤さんのシャルロットだとそうならず、この物語の外枠とか時代背景とか、成り行きを距離を取って見る視点といった意味での民衆になる感じです。1人だけれどコロス的だったり、プルカレーテ演出『リチャード3世』の代書人役のような感じだったり。でも、考えてみると、シャルロットが舞台に連れてきた(家政婦として案内するからですが)誰かによって事態が進行する戯曲になっていたことにも気づかされ、なるほどなるほどとやはり勝手に思ってしまいました。

 

これを書いて、今作では、戯曲を読んだ印象以上に「イデエの衝突」が演出・演技で意図されていたように改めて思いました。文庫収録解題の別箇所で三島は「心理的トリヴィアリズムと性格表現重視」「セリフの行間のニュアンスを固執する日本伝統演劇」を批判しています。なのですが、戯曲だと、第1幕の怯えるシミアーヌを挑発するサン・フォンのやりとり自体サディスティックでその関係や「性格表現」に注意が向いたり、第2、3幕ではルネとアンヌ姉妹の間に元から横たわる感情のような「セリフの行間」を私は想像したくなってしまいます。第1幕のサン・フォンとシミアーヌのやりとりの場面を観ている時は少し物足りない感じもしたんですが、観終わって後から考えると、戯曲そのもの以上に三島の意図に沿おうとする演技・演出だったのではないかと思いました。宮本さんは下リンクの記事で「どう生きたいかというテーマが入り込んでいるというところをあえて今回は強調して、登場人物がまるで三島由紀夫さんの分身かのように存在してほしいという、大変難しい設定とお願いを皆さんにしました。」ともコメントされています。宮本さんがそう言っているからというより、観た印象がこのコメントに重なる感があります。この作りについては三島の意図を貫徹、肉体の対峙については他の三島作品(か、三島自身のあり方)を踏まえた宮本さんの挑戦のように思えました。

 

natalie.mu

 

結末についての話

話の結末については実は最初の方でリンクした公式サイトに掲載されていて、今作の最終部の演出についても結構あちこちの感想で既に明らかになってはいるものの、ネタバレにはなります。

 

Unsplash   Klara Kulikova

 

アルフォンスが長期の投獄から釈放されると、ルネはそれまで献身的に釈放を求めたり牢獄に通っていたにもかかわらず、修道院に入ることを決意し、アルフォンスが屋敷に訪れても「もう決してお目にかかることはありますまい」と言付ける結末です。今作では、ここから成宮さんが衣装を脱ぎ捨て、裸体で光に向かって歩いていく終幕でした。

 

私はこれまでルネがアルフォンスに別れを告げる終幕を、ルネの脱錯覚や悲嘆や敗北感による別離、またはルネの憎しみや復讐のように捉えていました。アルフォンスが牢獄でしたためた『ジュスティーヌ』はルネをモデルとしたかのように見え、ルネはそれを読んで衝撃を受け、「ジュスティーヌは私です」と言い、その物語に閉じ込められたと言います。「牢の外側にいる私たちのほうが、のこらず牢に入れられてしまった」「私たちの苦難の数々は、おかげではかない徒労に終わった」「あのようなものを書く心は、人の心ではありません。もっと別なもの」。アルフォンスのいわゆる「悪徳」を彼の存在ごと理解し共に歩んだと思っていたのにそうではなかったと手酷い形で気づかされたんじゃないかとか、彼女に対する背信を感じ一緒にいられないと思ったんじゃないかとか、はたまた、ルネもある意味でアルフォンスを囲い込み閉じ込めていてそれを出し抜かれたことを突きつけられ敗北した感があったんじゃないかとか(ルネは大好きなキャラクターですが、被害者のていでイネイブラー的、コントロールフリーク的でもあることをモントルイユやアンヌが指摘していると思います)、釈放後の醜く老いたアルフォンスを捨てることで一矢報いようとしたんじゃないかとか、そんなふうに思っていました。

 

ですが、『ジュスティーヌ』をめぐるこれらの台詞の後、そしてアルフォンスが訪れたことを告げられる直前にルネはアルフォンスを麗しい言葉で讃えます。「汚濁を集めて神聖さを作り出し」「敬虔な騎士になりました」。「白い美しい手が、人々の頭(こうべ)に触れると、もっとも蔑まれ、もっとも見捨てられた人も勇気を取り戻し、あの人のあとに従って、暁のほのめく戦場へ勇み立つ」。「聖い光が溢れるのです」「あの人はその光りの精なのかもしれませんわ」。

 

……あの……このアルフォンスを讃える台詞があることを私はすっかり忘れていまして、脱錯覚とか敗北感とか復讐での別離の解釈をした時に、多分この台詞の存在を捨象し忘却してしまったんでしょう……。成宮さんがこの台詞を語り出した時、“え、こんな台詞ここにあったっけ?”と思いました。(忘れるのもぼんやりなのもいつものことではあるんですけど。)なので、偶々ここの台詞に気づいたのが今回だったということかもしれませんが、今作では、この台詞のところで舞台が暗くなり、戯曲上ではその場にいるモントルイユとシミアーヌは退場し、ルネ1人に光が当たる形で台詞が強調されていました。また成宮さんのルネも、ここがクライマックスであるような語りをしていたように思います。それでこの台詞の存在とその前の台詞との関係が私にも見えたのかもと思いました。

 

こうした彼を讃える台詞との関係では、前述の、私たちの方が牢に入れられた、苦難がはかない徒労だった、人の心ではないという台詞が、最初に聞く時の印象と異なり、神的な高みにいるアルフォンスと卑小で限界をもつ現実の人間というような異なる意味を帯びてきます。アルフォンスは『ジュスティーヌ』の創作等によって、「朽ちない悪徳の大伽藍」を築き「永遠に指を届かせ」るような世界を創造し、ルネはそれに慄き絶望しつつ讃えているのです。そこにこそアルフォンスの本質があり、それはルネには手が届かず、またそれは実在のアルフォンスすら超越していることにルネは気づいたのではないか、と思いました。本質としてのアルフォンスには手が届かないし、実在のアルフォンスにはもう会う意味がないということではないかと。

 

アルフォンスをルネは麗しい言葉で語りますが、直後にシャルロットが釈放されたアルフォンスの醜く老いた姿を描写します。永遠の世界を作ったアルフォンスの精神(精神というより成したことかも)と実在の肉体のアルフォンスが対照されます。その対照も、更に今作で、光に向かう成宮さんの美しい肉体をルネの語る美しい理念のアルフォンスのように提示した演出(のように私には思えました)も、『癩王のテラス』のモチーフとの繋がりを感じました。また、ルネはジュスティーヌこそ自分だと言っていますが、アルフォンス本人以上にアルフォンスの成したことを理解している人かもしれないので、ルネが理念アルフォンスに転化したというのでも、成宮さんが理念アルフォンスを体現したというのでもありかなと思いました。

 

もちろんこれ自体も私の一解釈にすぎませんが、今作によってこれまでの捉え方が大きく変わり、それは“今作のような解釈も面白い”というより、目を啓かされた感じがするものでした。上リンクのナタリーの記事で、宮本さんが「『サド侯爵夫人』は自分たちの生き方までもが変わってしまうような深さを持った戯曲だと感じています」とする、その深さの内実は多分全くわかっていませんが、「紐解くパズル感の面白さもありながら、その三島さんなりの形を受け止めて『一体この結末はどういう意味なんだろう?どういうところにあるんだろう?』というところをみんなと話し合いながら創っていきました。」というパズル感の面白さくらいには私も行きつけた気がします。