『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

新国立劇場、鵜山仁演出『尺には尺を』感想

小田島雄志訳、2023年上演、2024年放送。

 

『尺には尺を』は1月に放送されていたのに、他の期間限定配信を優先して、『終わりよければすべてよし』放送後に2作品を観ました。元々交互上演されていた2作品で、キャストを重ねて2作品交互上演って演者の皆さんすごいですね!と素人は思ってしまいます。主役と脇役は交代になるので、そこは配慮されているかもしれませんが。

 

観ていなくて知らなかったのですが、『ヘンリー6世』上演の時は全3部を午前から夜まで上演したことがこちら↓に書かれていて、そちらもすごかったんだなと思いました。考えてみれば、ソニンさん(イザベラ)、岡本健一さん(アンジェロ)、浦井健治さん(クローディオ)、中嶋朋子さん(マリアナ)って、その時のメンバーですね。放送予定を“tweet”した時にそれも書けばよかった、宣伝下手ですね〜、私。薔薇王民の皆さん、ソニンさん=ジャンヌ+ランカスターのエドワード、岡本さん=リチャード、浦井さん=ヘンリー、中嶋さん=マーガレットですよ!

 

natalie.mu

 

www.nntt.jac.go.jp

 

上の新国立劇場の公式サイトにもあらすじがありますが、最後の展開までは書かれていなくて、最後までのあらすじはwikiに書かれています。この下から最後までのあらすじを踏まえた話をします。

尺には尺を - Wikipedia

 

Photo by Steve Johnson on Unsplash

 

『尺には尺を』を観たのは2回目で、最初に観たロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの2019年上演・グレゴリー・ドーラン演出版は、“#MeToo”に照準した作りで(そう宣伝もされていました)、観た時には台詞の今日性や批判性に目から鱗ぐらいの気持ちになりました。今回の鵜山演出もそのドーラン演出版と同様の問題提起も描写も感じつつ、権力への皮肉や風刺はドーラン版の方が強めで明確、鵜山演出の力点は別のところに(も)置かれていたように思いました。以下のドーラン版の感想では「娼館取締りの話とか、官僚的な警察・刑務官がしっかり描かれていて、かなり風刺や皮肉が入っていたんですね。イザベラ達の主筋は、これらのメッセージを包むオブラートのようにも見えてきます。」と書いていて、そんなところも印象に残りました。今回はそれはあまり感じなかったのです。一番最後の公爵のプロポーズも、ドーラン版の方が明確に問題性を示しイザベラに共感的な作りだったような気がします。鵜山演出版・木下浩之さんの公爵は序盤から権力者の傲慢さを醸している感じはしたのに(序盤からそう思えたのは今回の方で、批判的視座が入った演出・演技の気がしました)、最後の展開は呆れではあっても“笑えるもの”として示されたように思いました。とは言いつつ、私自身はこの場面で笑いが起きたのが意外であったのですが。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

一方、今作でより強く感じたのは、贖罪、または罪に対する罰の妥当性や許しです。考えてみれば、そもそもタイトルが『尺には尺を』(Measure for Measure)ですもんね! 特に、マリアナからアンジェロの助命を請われたイザベラが、悩んだ末に公爵にアンジェロの助命を訴えるシーンが今作のクライマックスとなり、その場面のソニンさんのイザベラの葛藤と決断の見せ方でそのように感じられました。その時点ではイザベラは兄の無事も知らず、自分に肉体関係を要求したばかりでなく約束を破って兄を殺したはずのアンジェロを彼女は許す訳です。まさにそこで公爵は「尺には尺をもって報いるのが不変の法の精神」と言いますが、イザベラは理屈で「アンジェロは、罪の意図を実行するにはいたりませんでした」と尺には尺の法の論理に則りつつ実質上は「尺には尺」を否定する話になるのかと思いました。あるいは、マリアナから受けた恩恵を返す形の「尺には尺」と言えるかもしれません。中嶋さんのマリアナの「どんな善人も罪から生まれると言います」「少しは悪いところがあるからこそ、だんだんに善人になっていく」という台詞もやはり心に残ります。そしてここから振り返ると、そもそも「寛大にしたのは私の責任だが、と言って厳罰を課せば私の圧政になるだろう」と公爵が一計を企んだところから劇が始まっており、厳罰と寛大さが対比されていたことに気づきます(公爵が自分でやるのでなくきびしい役目をアンジェロにやらせるところにずるさを感じてしまうものの)。公爵のもう一人の従者のエスカラスは、アンジェロと対照的に適度に目溢ししてくれる人物です(今回、下総源太朗さんがその印象を強くしてくれました)。不品行な囚人バーナーダインはむしろ「心の用意ができていない」という理由で死刑を免れます。マリアナの愛→イザベラによるアンジェロの助命に焦点が当たると、罰や許しというモチーフがつながっているのか、と後から思わされます。加えて、やはり規範を重んじるイザベラもまた彼女自身の軸を動かす話にもなっています。これは戯曲を読んだ時はおろか、ドーラン版を観た時にも思いつかなかったことでした。

 

上でリンクしたナタリーの【会見レポート】記事で、鵜山さんは『終わりよければすべてよし』と併せた2作を「人間が犯すさまざまな過ちを、愛が救済できるか、という大きなテーマを描いている」ものと説明しており、まさにそういう形で見せてくれたと思いました。ドーラン版は、建前と本音と権力による欺瞞というモチーフを、鵜山版は、過ちと贖罪や救済のモチーフを引き出したように感じます。ただ、後者に焦点が当たると、他方で性被害や女性蔑視的文脈や、最後の公爵のプロポーズの問題性を示すこととは、まとまりが悪くなるとは思いました。でも今日的には、公爵のプロポーズを大団円的に描くのは無理があるような気がしますし。難しい……。戯曲の笑いや喜劇性も、今日的には風刺や皮肉との方が相性がいいような気はします。

 

イザベラのソニンさんの高潔、マリアナ中嶋朋子さんの慈愛がとても演出意図に合っているというべきか、この2人によって今作の骨格が示されたように感じました。アンジェロの岡本健一さんは威を借る狐ぶりもよかったですが、このアンジェロはきっと改心するだろうと実感させてくれたところがやはり今作の方向性と合う気がして印象的でした。そしてクローディオの浦井健治さんの人間臭さ(個人的には登場シーンで華があるなーと思いましたが)。RSCクローディオには、イザベラの被害の深刻さをわかってもらえない感じがしたんですが、浦井クローディオは妹を犠牲にしても助かりたいという焦燥感と身勝手さが出ていてそこもよかったです。ただ、アンジェロが岡本さんだと、どうしてもジャニーズの問題が頭をよぎりそこは複雑な思いになりました。

 

最初に『ヘンリー6世』のことを書いたんですが、『薔薇王』ブログなのに、観劇感想の方ではまだ『ヘンリー6世』カテゴリーがないんです……。シェイクスピア作品については、2作品以上書いたらカテゴリーを作ろうかと思っているんですが、『ヘンリー6世』はまだ『ホロウ・クラウン』と“Kings of War“しか観ておらず、後者の感想しか書いていなくて。先に『尺には尺を』のカテゴリーを作ることになるとは思ってもいませんでした。