『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター『善き人』感想

C・P・テイラー作、ドミニク・クック演出、デヴィッド・テナント主演、ナショナル・シアター・ライブ、2023年。京都と神戸ではまだ上映中。

(これもシェイクスピア作品ではありません。)

 

今年、いやここ数年で観た演劇(といっても配信・放送で)のなかで一番重くてキツい話である一方、演劇ならではの作りと演者達が見事でした。話がつらいので演劇的に面白く思う感覚と引き裂かれてしまうほどです。

 

Trailerを観ていて、多分、マルティン・ニーメラーの詩『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』みたいな話なんだろう……と想像(覚悟)して行ったんですが、それ以上にダメージを感じる話でした。いくつか観た劇団チョコレートケーキ作品以上に救いがありません。しかも今この時期なので更に心が削られます。でもだからこそ意義深いとも言えるのでしょう。観賞後はぼーっと過ごして1日が終わってしまいました。いつもと違って“よかったです〜”とか“お勧めです”とか容易に言える作品ではないです。

 

クック演出の『間違いの喜劇』はあんなに楽しかったのにな……。そういう作品でないことは予想済みでしたけれども。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

私個人は、舞台作品や音楽には美しさや楽しさやロマンティシズムを求めているところがあるんですよね。そこに現実への皮肉や批評が入っているのはむしろありなんですが、つらい現実の方は生活自体やノンフィクションで十分、みたいな。その点で主人公のジョン・ハルダーと似て鑑賞は現実逃避の手段でもあって、今作は観客に鏡というか刃を向ける作品だと思いました。旧twitterで教えていただき以下にリンクした演出のクックのインタビューを聞いたら、作者のテイラーがこの劇を観にくる観客層に響くよう意識したというようなことをホストのダグラス・シャッツ(Douglas Schatz)が言っていました。演劇的な面白さを引き出すクックの演出は、私のような人間にとって、葛藤を増幅させる点でも効果的かもしれません。

 

装置もミニマルで演者もほぼ3人のみ、ジョン・ハルダー役のデヴィッド・テナント以外は他2人が複数役を兼ねる演出です。このインタビューや、ナショナル・シアターの動画でのクックの説明によれば、1981年の初演当時は、過去との行きつ戻りつが断片的に示されたり現実との間の曖昧さがある構成自体が新鮮であったものの、現在はそういう作品も増えたので、演者を初演時の15人から3人にしたのは原作の構成を今日的に生かすためという意図のようですが。(インタビュー音声や動画は両方とも日本語字幕が出せます。ナショナル・シアターの動画の方が日本語字幕的にもわかりやすい気がします。)

 

動画の下からネタバレになります。

 


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

Unsplash   Peter Herrmann

 

一番目を奪われたのはシャロン・スモールによる複数役の演じ分けで、ジョンが妻のヘレンと別れ話をしている時、目が不自由で認知症が入ったジョンの母が2階から何度も彼を呼びつけ、ジョンが「一寸待っていてくれ」といらいら怒鳴り返す場面を、スモールの演技の切り替えのみで表現するのです。離婚の原因になった指導学生のアンがジョンに想いを告げているところに、ヘレンが不意に入ってくるところも同様です。でもそれぞれのキャラクター自体も決して様式化されていないというか、掘り下げを感じます。エリオット・レヴィも複数役ですが、こちらは切り替えよりはジョンの親友でユダヤ人のモーリス役がよかった印象です。ユーモアのある皮肉屋なモーリスが、ジョンと同様に変化する様子(というより逆の境遇で、精神的ゆとりが失せて変わっていくというべきでしょうか)は説得力がありました。更に、モーリスが最後の場面で見せた涙が、泣く感情すら喪失したジョンの代わりに泣いている、しかもそれがジョンによる願望ではないかと思える演技が素晴らしかったです。スモールとレヴィのすごさが目立ちますし、テナントが独白=語り手であることもあって、受けの演技になっているためか目立たなくなってしまうほどですが、テナントは、この独白によって物語や場面転換を牽引し、観客とのフックを作り出す力が見事だったと思います。

 

でもその面白さがつらさにもなるんですよ、わーん、何これ。佐々木蔵之介さんのほぼ一人芝居『マクベス』や、イエローヘルメッツの『GtoRⅢ グロスター公爵~リチャード3世』の少人数上演などでは、こういう兼役や演劇的面白さがどんどん興奮・快楽を高めていったのですが、最初に書いたようにその都度引き裂かれる感じです。

 

佐々木蔵之介主演スコットランド・ナショナルシアター版『マクベス』感想:『薔薇王』好きな方は是非!

イエローヘルメッツ、『GtoRⅢ グロスター公爵~リチャード3世』感想

 

1981年の初演だそうですが、障害者を安楽死させるT4計画も、親の介護負担とか衰え変わってしまった親の姿を見るつらさといった日常感覚と地続きのものとして描かれていて、繰り返しになりますが、観客とコネクトさせるところが(鏡としてつきつける点でも)うまいと思いました。エリートでもあるジョンは、ナチスの方針を信じておらずむしろバカにしており、ユダヤ人にも偏見はなくユダヤ人排斥など国の経済を考えればできるわけがないしヒトラー政権はすぐ終わるとさえ思っています。それでも処世術として妻の伯父からの勧めでナチスに入党し、老親介護の心情を綴ったはずの小説を持ち上げられて、学者として安楽死推進の提言を書き、文学者なのに焚書も是認し、自分の行為を正当化するために自身の学識まで動員して徐々に考えを変えていきます。ユダヤ人の親友モーリスが国外逃亡のためのチケット入手を頼んでも、自分の立場が危うくなりそうなので無理だと断ります。やり過ごせば逃げなくても大丈夫とジョン自身が言っていたのに、終盤では、危ないのがわかっていて逃げなかったユダヤ人が悪いと言い出します。その保身ぶりや変節は相当酷い一方で、元脚本の素晴らしさもあるでしょうが、テナントがそれを弱さとして見せているから、観客自身のありようも問われているように感じるのだろうと思いました。

 

幕間のドキュメンタリーでは、テイラー自身が音楽が非常に好きで創作活動より音楽の方が楽しいというようなことを語っていて、人が現実逃避的に音楽を享受することも、おそらくは一部自分のことも含めて了解しているのだろうなと思いました。それでも多作で問題提起的今作も書いたテイラーに対して勝手な思い入れになりますが、“ああわかる”と思ってしまいます。登場人物の妻ヘレンも午後はずっとピアノを弾いているだけで家のことができなかったと謝るような人になっていて、仕事への熱意や生活能力はないのに趣味でやり過ごし、しなければならないことでなくそこに時間を費やしてしまうあたりが(テイラーでなくヘレンのことですが)自分のことのようで身につまされます。

 

ずっとジョンの頭の中に鳴っていた音楽が、最後に「本物の演奏だ」となって彼が歓ぶのですが(少なくとも台詞上は)、それが強制収容所ユダヤ人達が演奏するものだったという結末もあまりに皮肉で衝撃を受けました。

 

強制収容所に音楽隊があり、親衛隊を楽しませ、収容所の運営に一役を担い、ガス室ユダヤ人達を送り出す際にも演奏されたという歴史を踏まえたものなのでしょうね。その音楽は、時に収容者を慰め演奏者達を生き延びさせた一方で、時に心理的拷問としても働き、収容者間の分断を作り演奏者を悩ませたともされます。音楽の多義性、そして音楽をそのようにしてしまう状況。それを示唆する音楽と作劇が苦しく感じられます。