『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ベル・シェイクスピア、ケイト・マルヴァニー主演『リチャード3世』感想

ピーター・エヴァンス演出、2017年上演、2023年配信。

 

ベル・シェイクスピアのサイトでプログラムが公開されていて、そこに配役情報も載っています。

https://d23giwvlsb2qc0.cloudfront.net/uploads/downloads/2017-Richard-3-program.pdf

https://d23giwvlsb2qc0.cloudfront.net/uploads/downloads/2017-Richard-3-program.pdf

 

純粋な作品の感想としては、消化できていない/どうしてこういう演出なのかわからないところもあるのですが、あの、逆『薔薇王』的っていうんですかね、逆っぽい作りかつすごく驚いたシーンがある一方、主演のケイト・マルヴァニーが自分の障害を見せる受容の仕方が『薔薇王』最終部っぽい気もしたりで、そういう点で印象的な作品でした。

 

ネタバレ上等!むしろその辺だけサクッと教えてという方は、こちをクリックしていただければその箇所に飛びます。

 

概観

19世紀末か20世紀初めくらいの感じの美しい衣装で、タウンハウスのホールかホテルのバーのような装置の中で全ての場面が進行します。リチャードの冒頭の独白「傷だらけの鎧兜は記念に吊るされ、いかめしい鬨の声はさんざめく宴の声に、猛々しい進軍は賑々しい踊りに変わった。」で、他の登場人物達が出てきてパーティーで浮かれ騒ぐ始まりです。出番でない登場人物達も後ろ側にいるという演出は他でも見ますが、上のプログラムでエヴァンスが「誰もそこから離れられない終わりのないパーティー」という演出意図を述べており、相応しいと思えない場面で、相応しいと思えない人物が浮かれたり踊ったりもしています。周囲の人々がリチャードの権力掌握を許し支えた面もあることを描く含意もあるようです(観たばかりなのでそう思うのかもしれませんが、ナショナル・シアター・ライブの『善き人』のコンセプトに似ている気がしますね(泣))。

 

マルヴァニーは男性役としてリチャードを演じており、下に引用した画像写真を見た時はもう少し女性っぽい感じかなとか、もしかしたら女性設定かもしれないと思っていたら、女性であることはあまり意識に登らず(高い声の男性と言われてもそう見えるくらい男性にも女性にも見えます)、障害の方が目立つ感じでした。私は下のプロモーション動画やプログラムの表紙は後から見たのですが、そこでは女性役にするのかもと思わせる作りで、舞台での意外性を狙ったのだろうと思います。マルヴァニー自身、まさに史実のリチャードと同様に脊柱側湾症があるとのことです。この話は後でもう少し書きますが、力を入れて真っ直ぐに近い立ち方はできるそうでカーテンコールではそれが目立たなくなるものの劇中では敢えて見せています。カーテンコールだと表情まで違っていて、劇中では男性っぽく見えたのが、メイクを変えたとかではないのに綺麗な女性だなと思えて、色々な意味で俳優の凄みですね。女性かつ障害のある演者によるリチャードで、それが中盤での驚くような演出にもつながっています。

 

プロモーション動画の後、少しネタバレ気味になります。

 


www.youtube.com

 

登場人物達など

このブログで感想を書いた『リチャード3世』は相当振り切った演出が多かったので、それに比べると、その驚いたシーン以外は比較的オーソドックスな作りに思えました。また、それら作品のリチャードが原作リチャードの特定の特性を強調する解釈で独自性を打ち出している気がしたのに対し、マルヴァニーのリチャードは、私には割合原作イメージ通りの印象で、邪悪さも、おとなしく見える感じも、コミカルな面も、母親への屈折した感情も過不足なく入っている感じがしました。

 

他の登場人物達も私内の原作イメージに近く思えましたが、男性達より女性達の方が印象に残りました。後からプログラムを読んで、その辺が納得できました。この演出では、『リチャード3世』をずっと続いている権力争いのサイクルとして解釈し、男性達は、殺されてはまた登場する人物達というコンセプトで複数の役を兼ねている、とエヴァンスは述べています。一方、この戯曲では女性達が重要で、リチャードは自分の状況を女性達のせいにしたり見下したりし、女性達はずっと悲しみと怒りを抱えており、女性には兼役をさせていないとしています。(とはいえ、バッキンガム役のジェイムズ・エヴァンスに兼役はなくて、アン役のローズ・ライリーは兼役をしていたりするのですが。)

 

アンにリチャードが求婚するシーンでは、刃物を自分に向けるリチャードからアンがそれを必死に取り上げ、思わず口づけして泣き出します。リチャードが改心したかのようにヘンリー王の亡骸の前に跪くので、「嬉しく思う」というアンの台詞が不自然でなく聞こえます。加えてリチャードは突っ伏して泣くのですが、アンが去るとそれが笑いに変わります。生硬に敵対的に振る舞っても情に脆いアンを手玉に取るリチャードの感じで、原作イメージをうまく見せてもらった気がします。

 

アンのライリーはエドワード王子との兼役でした。今作では王子を1人にしていてエドワード王子とされているものの、台詞は生意気な弟王子の方を主にして、ティーンエイジャー悪ガキ風で煙草を吸っていたりとアンとの違いを楽しめました(王子像は原作イメージとは違い、一寸『薔薇王』っぽいかもしれません)。そして、王子殺害とアン殺害が彼女1人の殺害で重ねて表現されます。

 

リチャードの母の公爵夫人やエリザベスもやはり私の原作イメージに近い印象でしたが、今作、リチャードとエリザベスの最終場面がわからない部分もありつつかなり面白かったです。この最終場面は戯曲通り、リチャードがエリザベスの娘を妻にしたいと言い、怒って彼を非難していたエリザベスが最終的に了解と取れる返事をします。そのリチャードの説得とエリザベスの非難は、互いの言葉尻を捉えるように似た言葉の台詞になっており、今回は2人が女声のためか、原語英語で聞くのが久々だったためか、やりとりのテンポ感がとてもよいことに気づきました。また、これまで観た作品ではエリザベスが徐々に追い詰められる印象だったのですが、今作はほぼ最後までエリザベスが鋭い応酬です。「おまえは私の子供を殺した」と言っているので台詞的にはそれで妥当ですよね。でも、これでどうやってエリザベスが折れるのかと思ったら、次のリチャードの「娘御の胎(はら)に埋めてやったのだ」という台詞で、不意を突かれ、一瞬泣きそうにも逆上したようにも見えるエリザベスが、リチャードにゆっくり手を伸ばし抱きしめて「娘におまえのものになるよう言ってこようか」と言うのです。先を知らなければ、エリザベスがリチャードに手を伸ばした時首を絞めるつもりかもと思うような動きで、リチャードも何が起きるのかと警戒していますが、亡くなった王子の代わりにリチャードを息子のように抱きしめたようにも思えます。警戒していたリチャードも、胸に抱かれると母親を恋しがって安らいだようにも見え、それをエリザベスが引き離すシークエンスになっています。彼女が去った時の「浅はかな、気の変わりやすい女だ!」のリチャードの台詞は怒っているようなんですよね。その直前の場面で自身の母から呪いの言葉を受けたリチャードは傷ついているように思えますし、母親との確執がエリザベスにも投影された場面のような気がしました。戯曲ではエリザベスは娘をリッチモンドと結婚させる流れなので、私はてっきりリチャードを油断させるためにエリザベスがそうしたのかと思いましたが、今作はこの裏工作話は(私の見逃しでなければ)カットされ、エリザベスは敗北したように横たわったままでした。プログラムにある女性達の悲しみを強調した演出ということでしょうか。

 

マーガレットだけは私の原作イメージと異なり、恨みを感じさせるというより、不当に扱われ排斥された外の立場でヨークの内紛を淡々と見ている人物の感じがしました。それなりにきれいな格好です。風貌も比較的温厚なお婆様の印象で、座っている時にはこちらがリチャードの母の公爵夫人かと思っていました。彼女の予言や呪いは、なんらか文化的背景をもつ呪術のような雰囲気を感じました。

 

この後、逆『薔薇王』的と思ったシーンのネタバレです。画像を挟みます。

 

©️bellshakespeare.com.au 

Richard III - Shakespeare Play Resource | Bell Shakespeare

 

女性であることと障害があること

マルヴァニーはリチャードを男性役として演じていて、しかも自然に男性にも見える演技なのですが、ヘイスティングスが呪いをかけて体を歪ませたと議場で糾弾するシーンで、彼女は服を脱ぎ胸も見えます。ヘイスティングスが自分の上着をリチャードの体に掛けようとすらして、女性の体があらわになったことが更にわかる演出になっています。またマルヴァニー自身の脊柱側湾症の背も明らかになります。男性前提だったリチャードが“呪いをかけられ”た結果としての女性の体を晒したようにも思えますし、元々の障害を呪いによるものだと難癖をつける戯曲通りのようでもあり、またリチャードの演技として湾曲して見えたマルヴァニーの背の障害が本物であったのだと示したようにも思えます。マルヴァニーは、通常は衣装や立ち方によって障害とわからないようにしているのを、この時期くらいから自身の障害を公にしたそうで、今回の舞台ではそれを使っている訳です。

 

『薔薇王』では、ヘイスティングスがリチャードの“悪魔の体”を公にして謀反を企んだところを、『薔薇』設定では障害のない腕を爛れさせて呪いの罪を捏造する話にしているのと逆のようだと思いました。一方、マルヴァニーが彼女の障害を受容して、強みにしているのが『薔薇王』最終部的にも思えます。マルヴァリーは「私はやっと真っ直ぐな背中の振りをしないですみます。何も隠さなくてよくなるんです。自分の体のあらゆる湾曲、軋み、歪みを受け入れられる(embrace)のです。誇りをもって。」と語っています(The Sydney Morning Herald)。本物のリチャード3世の骨を見て、自分の背のようだと思ったそうです(Disability Art Online)。

 

マルヴァリーがリチャードについて語っていることもとても興味深いです。「どちらかといえば、リチャードの存在は女性のそれに近いのです。彼は体や服装で判断されます。(中略)生まれた時から、身体的な理由だけで無力化されてきました。」(The Sydney Morning Herald)

 

www.smh.com.au

 

disabilityarts.online

 

『薔薇王』民へのその他のアピールポイントとしては、戴冠の場でリチャードがアンと手を繋いでおいてバッキンガムに声をかけるとか、バッキンガムが処刑の前の場面の「万霊節のこの日にこそ、慄くわが魂は、重ねに重ねた悪行のつけを返済せねばならぬのだ」あたりの台詞をリチャードに面と向かって語りかけるとかでしょうか(とはいえそれがイマジナリーな表現であるのはわかります)。

 

終幕にはリチャードとリッチモンドが日本刀で斬り合うという設定的には美味しいシーンもあるのですが、薔薇ステでの殺陣と比べてしまうとこれをアピールポイントとするのは憚られるような……(←すみません💦)。プログラムの「現代の我々の時代にとって、この作品は完全にトランプ(前大統領)に関するものだ」という記載からは、ここは文字通りの真剣勝負というより権力闘争の茶番の描写と考えた方がいいのかもしれません。

 

最後は既に斬られたはずのリチャードが座り込み、『ヘンリー6世』最終部の独白を語って終了です。「おれもよくおふくろから聞かされたものだ、おれは足から先に生まれてきたと。だがそれには理由があった、いそいで出てきて、わが一家の正当な権利を簒奪しているやつらを滅ぼしたかったのだ。(中略)おれはどの兄弟にも似ていない、年寄りどもが神聖視する『愛』などということばは、似たもの同士の人間のあいだに住みつくがいい、おれのなかにはおいてやらぬ、おれは一人ぼっちの身だ。」

 

この台詞は『リチャード3世』の冒頭の独白とも似ており、時系列的にはこの本編以前にあるはずのものなので、プログラムの説明からは権力争いのサイクルを強調した描写のように思いますが、マルヴァニーの語りからは、ヨークの王位を得るために醜く生まれたのに、結果的にランカスターのリッチモンドにそれを奪われ、最後も一人になってしまった悲しみも感じます。また、殺されたはずなのに物語が始まる前の語りがあることで、今作全体がリチャードの一炊の夢のようにも思えました。

 

(※『リチャード3世』の「」は河合祥一郎訳・角川文庫版から、『ヘンリー6世』は小田島雄志訳・白水社版から引用しました。)