スコットランド・ナショナルシアター版(アンドリュー・ゴールドバーグ演出)佐々木蔵之介主演。
ただ凄いものを観たという感想が先に立って、筆舌に尽くし難いというのはこういうことか、と。それでも結局だらだら書いてしまっていますが、演出や解釈について何か書いてもこの感覚に追いつかない感じがあります。同じ佐々木蔵之介さんの主演でプルカレーテ演出の『リチャード3世』が好きな方は絶対好きな作品だと思います。WOWOWならいつか再放送が期待できると思うので、加入は必要ですが、その際は是非!本当にお薦めです。
『薔薇王の葬列』ファンにもイチオシの『マクベス』です。ただ、多分ストーリーや登場人物を知っているのが前提のような捻った作品なので、原作『マクベス』を未読・未見の方は、ググったりしてあらすじとメイン登場人物(特にバンクォーとマクダフ)は押さえておくと、より楽しめると思います。下にリンクしたインタビュー記事でも「ストーリーは何となく知っておいた方がいい」とのことですし。原作も読むと台詞の捻り方なども更に楽しめるかもしれません。
観る前にご訪問いただいている方は、ここまでで、あるいはインタビュー記事まで読んだら引き返して再放送の機会を待っていただくのがよいだろうと思います。過去記事でご紹介した、ストラスフォード・フェスティバル版以上に、あるいは違った意味で、すごく『薔薇王』的だと思うので、思うので……。この辺のことを、一番最後に書きましたので、よろしければ視聴後にご再訪下さい。どなたかとこの思いを共有したい気持ちでいっぱい。
この舞台の眼目はやはり『マクベス』を使った演劇的表現の実験や遊びの可能性を十二分に見せたことだという気がします。加えて、そうではありながら、それが『マクベス』の解釈を広げたり深めたりもしている面白さ。そして何より佐々木さんが凄まじい。
下のインタビュー記事に書かれているように、患者の世界=妄想が『マクベス』と通じているような構成なので、役から役にスイッチするだけではなく(これもとてもクリアなのですが)、その芯に患者がいることも、台詞がその二重の世界にまたがっていることも感じられる演技です。更に、例えば子供を殺されたマクダフの慟哭とマクベス夫人の狂乱が繋げられていたりするんですが、演じ分けと同時に繋ぎの両方をやっているんです。演出や構成も、佐々木さんの表現も群を抜いている感がありました。
未見の方はインタビュー記事までで引き返して下さいと言いながら、例によって画像を挟んで感想記事を進めて行こうかと思います。インタビュー記事から森の画像までは、インタビュー記事の内容を詳しく書いた程度にしているつもりです。でも、やや無粋なネタバレになる気もするので、最初から楽しみたい方はここまでとして下さい。
男が精神科病棟に入院するところから舞台は始まります。何かの事件の加害者なのか被害者なのか、傷があり茫然自失状態のような男が、鑑識を受けて与えられた病院の服に着替え、ベッドに導かれます。医師と看護師が病室から出ようとする時、男が2人に問いかけます。「いつまた会おうか、3人で。」友達や同僚に尋ねるような、ある意味、普通の言い方です。でも、医師達にそんな言い方をすることで、男の普通でない精神状態がわかります。そしてこれはもちろん『マクベス』冒頭の魔女の台詞。こんな風に、患者の行動と『マクベス』の物語が二重写しのように進みます。このプロローグ的な部分は結構長いのですが、ここも緊張感が途切れず、というよりむしろ何が起きているんだと集中と緊張感を高めてこの台詞での『マクベス』の始まり。しびれます。
舞台の上側(2階側)に病室を見る窓があり、医師や看護師が時々患者を観察するのですが、それがマクベスを眺める魔女にも思えたり、あるいは『マクベス』の登場人物が人目を気にする様子に見えたり、患者が医師達から見られていることに気づいて発言を控えるようでもあったり。また、“あれはこの世のものと思えない”と魔女を指す台詞を、監視カメラを指しながら言うことで、正常に判断できない患者の行動に重なったり、その後もこういう交差が続いていきます。
ドンマー・ウェアハウスの『シェイクスピア3部作』(Shakespeare Trilogy)も、女性受刑者個人の背景と各作品とを関連づけた二重構造のようにになっていて、それが作品解釈をとても面白くしていましたが、ドンマーの方は劇中劇の形なので、多少交差はあるものの安定した枠組みで作品世界に入っていけます。『マクベス』では常に二重構造が意識されるというか、2つの世界がもっと相互に交差してその都度入れ替わる感じです。患者の背景も謎で、『マクベス』の台詞からそれを想像するという入れ子のような作り。機微がわかる日本語でこの作品を観ることができて、本当にありがたいなーと思いました。
劇構造とは少し別の『マクベス』世界内の話になりますが、登場時のマクベスは折り目正しく控えめな反面、魔女の予言に魅入られ、マルカムに王冠が行くとわかると陰で怒りを覚えつつ内に籠もってしまう人の印象です。バンクォーと同時に登場ですが、バンクォーがやや軽く飄々としているのと対照的でした。まさに“野心はあるけれど、聖人ぶりたい”感じかと思いました。夫人はそれをわかっている。ダンカン王を城に迎える時には、マクベスはもう王位簒奪を決めており、マクベスも夫人も王を殺害するつもりの会話の運びです。この流れなら、後から計画中止を言い出すマクベスに、さっきまでは何だったのかと夫人が叱咤するのも頷けます。そして、ただでさえ一人芝居で何役も演じているのに、王になるとマクベスは表情が変わります。バンクォーやマクダフがいるから自分の安寧が得られないとばかりに彼らに憎しみを向けているように見えました。折り目正しさや節操がどんどん失せて、自暴自棄になって行きます。
バンクォーも清廉潔白ではなく、うっすらよからぬことを考えていた気もしました。普通はダンカン王殺害の不吉な予感を指す“胸騒ぎで眠れない”というバンクォーの台詞が、マクベスと同様の危うい野望の表現として使われていたように思います。
そしてマクベス夫人!これは必見です。なんて色っぽくて自信家なマクベス夫人でしょうか。佐々木さん自身、「台詞がかっこいい」と楽しんで演じておられた風ですよね。舞台にバスタブがあって、湯に入った時は膝を抱えた不安な患者か悩むマクベスだったのが、バスタブのお湯に潜って顔を出したら、喋る前からもうマクベス夫人だとわかるんですよ。
佐々木さんが好きだというダンカン王は、好好爺で、でも少し耄碌しているかな?とも感じるキャラになっていました。本心なのでしょうが、マクベスの戦功への謝意を大袈裟に表明するので、これはマクベスに妙な期待を抱かせてしまうな、と。同じ台詞が、堂々としたダンカン王なら最高の褒め言葉に聞こえるのに不思議ですね。謝意表明の直後の息子マルカムへの王位継承宣言。周囲の力関係の掌握や警戒が、高齢で甘くなった印象です。
マクベス夫人と共にとても印象的だったのがマクダフでした。多分演出的にもマクダフに重きを置いていたように思いますし、妻子を殺された時の狼狽と復讐心に狂気を感じました。彼も尋常でなくなってしまい、マクベスを倒しても悲しみは拭えず、入院した男は彼でもあったのではないかとも思えました。マクダフが、亡くした子どもとマルカムを重ねているようにも思えました(更に、もしかしたら、バンクォーの子孫の王位継承も暗示される場面であったのかもしれません)。『マクベス』を観て、マクダフの後悔や癒えない苦しみにこんなに思いを馳せたのは初めてです。そういう受け取り方をしていいのかわからなくはあるのですが。(私は紙袋の中身を短剣とかなのかと思っていて、服が出てきた時にはっとしました。)
マクベス、バンクォー、マクダフの力関係が拮抗しているように見えたのも興味深かったです。最初は3人が同じくらいの地位や力を持っていたのが、マクベスが王になってその均衡が崩れ、マクベスは2人を怖れて憎み、2人は怪しんで反感も持ち始める、そんな風にも見えました。同じ佐々木さんが演じていたせいで3人が対等であるような感じがしたのかもしれませんが、マルカムについてそういう印象はなかったので、意図的にそうされていたのではないかと想像します。
直近で、グールド演出パトリック・スチュワート主演版と、新作オペラ“Macbeth Underworld”を観ていまして、とても政治劇的だったグールド+スチュワート『マクベス』に対して、ゴールドバーグ+佐々木版は精神科の設定と聞いていたこともあり、マクベス個人の罪に対する慄きや不安といった内面世界が焦点化されるのかと予想していました。ですが、マクベス達3人の関係や、判断が甘く見えるダンカン王など、意外に政治性というか社会性を含んだ『マクベス』だったと思います。“Macbeth Underworld”の方が、マクベスとマクベス夫人の不安や怯えといった内面世界に焦点化した作品になっていました。(記事をアップしたときは、“Macbeth Underworld”が無料配信中だったのですが、直後に終了してしまいました。代わりに関連ページとTrailerを記事の下にリンクしておきます。“Macbeth Underworld”は、黒澤の『蜘蛛巣城』にもインスパイアされたという話が出てきて面白いです。)
そして1幕7場の、王殺害を躊躇するマクベスを夫人がその気にさせる場面が、とても『薔薇王の葬列』10巻43話的だった気がします(ぐらいの言い方にしておきます。『薔薇王』読者の方以外には不明な言い方ですみません)。43話自体、『マクベス』1幕7場を想起させる作りの気がしていましたが、この『マクベス』こんな展開なのか!と。同時に、この描写が、最近読んだグリーンブラット『暴君ーーシェイクスピアの政治学』(岩波新書)通りの解釈で演じられているようにも思いました。
マクベス夫人が、夫の男らしさをあげつらって、望んだとおりの行動がとれるのかを問題にするとき、シェイクスピアが何度も暴君に描き込んでいる意味が見えてくる。『マクベス』などの劇が示しているのは、暴君は何らかの性的不安に突き動かされているということだ。自分が男であることを示さなければならないという強迫観念、不能への恐怖、自分が十分に魅力的ないし力強いと思われないのではないかという執拗な懸念、失敗への不安。
太字の強調は私が入れたものですが、台詞の言い方も展開も、通常は多分台詞内に暗示されるだけのこのニュアンスを明確に示す形になっていたと思います。しかもこの箇所を一人芝居で演ってしまうという、もの凄さです。
(横道ですが、この『暴君』の考察を読むと、『薔薇王』での王冠への欲望と性の重ね方が、本当にシェイクスピア世界なんだなとも感嘆しました。)