『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

映画『異人たち』(All of Us Strangers)感想

アンドリュー・ヘイ監督、アンドリュー・スコット主演。

 

一寸時間も経って落ち着いてきましたが、今作はダメージを受けるレベルで気持ちが揺れてしまいました。本当にいい映画ですし、ダメージの受け方はナショナル・シアターの『善き人』のような問題を突きつけられる感とは異なり、とてもパーソナルな部分での痛みだったりするのですが。今回は楽しみというより自分の感情の対処に困ってSNSの感想などを漁り、少数ながら「傷つき直した」「トリガーアラートが必要では」といったコメントがあるのを見て、“自分だけじゃないんだ”とほっとしました。ほっとさせてもらってありがとう〜という気持ち。これらのコメントはクィアの描き方に関するものが主でしたが(その点でもとてもよかったという感想が多いことを急いで付け加えます)、今作は喪の作業(grief/mourning  work)的なところもあって、私にはそちらが予想以上にずしんと響いてしまいました。

 

ある程度話の展開も知った上で観に行ったのに動揺するほどだったのは、今作では喪失や痛みにもかなりフォーカスされ、しかも観る側の気持ちが非常にシンクロする作りだったことがあるのでしょう。プロモーションコメントで、アンドリュー・ヘイ監督、アンドリュー・スコット、ポール・メスカル、クレア・フォイが揃って“観た人が自分の話だと感じたと言ってくる”と話していて、そんなフックがそこここにあるのかもしれません。主人公の心情のような風景描写や、その場に入り込むようなクローズアップの多さ、夢の中の夢のようなプロットが、映画内での現実と非現実の境界も、映画と観る側の境界も緩くする感じがします。スコットがまた繊細な心の襞を明かすかのように共感やシンクロ感を引き出す演者ですよね。“Sea Wall”でもそうでしたし、『ハムレット』の独白でも観客とコネクションを作るやり方をしていました。(スコットは一方では、全く別のエキセントリックな雰囲気や、キャンプに近い意味のクィアネスを醸すのもうまい人であると思います。でも、今作では“「クィア」というより「ゲイ」”と自己定義し、孤独を抱えるアダムにとてもはまっていました。)スコットは下記FLAUNT誌の対談で、今作を見た時に自分がさらけだされた(exposed)ように感じたと同時に、それを見ている人と結びついた(connect)とも感じたと言っています。メスカルの方は撮影現場でパニック発作を起こして中断してしまった話もしています。彼自身の親が病気になったばかりでそれがトリガーになるだろうことに無自覚すぎたように言っていますが、脚本にもそうした個人的感覚に触れてしまう力があって、演じる側も観る側も無防備にされるところがあるんじゃないかとも思いました。もしこの書き方がネガティブな意見のように見えるといけないんですが、かなり深いところに触れてくる作品だろうと言いたかったのです。

 

www.flaunt.com

 

Sea Wall Film starring Andrew Scott - Full Film - YouTube

YouTubeで公開されているスコットのひとり芝居です。YouTubeの自動翻訳でかなり不自由な日本語字幕は出せます。日本語訳を作成し公開して下さっているサイトもあります。こちらもとてもよくて当ブログでこれまで無頓着にお勧めしていたものの、やはりトリガーアラートが必要な作品かもしれません。

・アンドリュー・スコットの「Sea Wall 海の壁」 日本語訳その1 - 水川青話 by Yuko Kato

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

鑑賞前にいくつか記事も読んでいました。ですが、記事によって強調点がやや違って、特に2つめのNHKの記事には「自分のいいところも悪いところも全部ひっくるめて受け止めてくれる存在というのが幻想の中の両親じゃないか」「アダムは、両親から終始、子ども扱いされながら、無償の愛を存分に受けることで、癒やされていく。」とあって、愛に焦点を当てた過去の回復のような雰囲気の作品かと思っていました。そうした面も確かにあるものの、後から読んだ3つめのCINRA記事のヘイ監督の発言は「人生は複雑で、誰しも複雑なところで人生を終えるもの。」「人生とは喪失と向き合うことです。」「主人公は両親に再会するというよりも(中略)それまで忘れようとしてきた、あるいは抑圧し、隠し続けてきた過去に直面するのです。」というものです。「私個人にとっては、人生の喪失や悲しみ、痛み、トラウマに深くつながるもの――つらい時代に自分の奥深くに埋めたものを、ふたたび浮かび上がらせるような作業でした。」とまで言っています。見る側でもこれと類似の作業をするところがあったかも、と思うのです。監督の言葉だからより正確というのもあるでしょうが、今作に関して、私にはCINRA記事の喪失に向き合うという言葉がしっくり来ました。

 

cinemore.jp

 

www3.nhk.or.jp

 

www.cinra.net

 

親子の向き合い方についても、今作では両親の生きた時代と現代との認識のずれや偏見による軋みも、子どもを愛しつつも十分寄り添えなかった罪悪感を抱える親の思いも描かれています。ヘイによる改編でその辺が掘り下げられたためか、むしろ他の山田太一作品がもつ特徴につながったように思いました。

 

この後、ストーリーのネタバレ的な話をするので画像を挟みます。

 

Photo by Visax on Unsplash

 

今作では、亡くなった両親にアダムがカミングアウトすることが物語のとても大きな部分を占めているのは確かです。しかも上述のように、始めは双方に蟠りが生じてもいます。ですが、アダムの両親への思いはおそらくそれだけでなく(と私には思えました)、死亡事故についてもアダムは抑圧した悲しみを抱えていて、特に母親の最期に立ち会わなかった後悔があるだろうことがハリーとの会話で察せられます(そのことを話せたのも、ハリーが最初だったかもしれないとも思いました)。カミングアウトでの感情の行き違いや軋みはあっても、両親から徐々に全人的に受容され、ダイナーでの別れの場面では、亡くなる時に苦しむのを恐れる母親に嘘をついて安心させ、目が見えないという母親に答えて別れも言えました。それは、子どもとして専らケアされてきたアダムが、思いやる側に回るとても美しいシーンでした。(1つ前の場面で、眠れなくて両親のベッドに入れてもらったまさに子どものようなアダムが、後悔を語り始めた母親に、逆に彼女を慰めるような言葉をかけるあたりでも転換が感じられます。“思春期の時も想像上で喧嘩したり一緒にいたよ”みたいな言葉もメタ的でよかったです。)

 

ハリーに対しては更にそこが際立っている感じで、最後のシーンの前まではやはりアダムが専らハリーにケアされていて、欲しかった愛を受け取る立場だったのが、最後のシーンではアダムが“自分が側にいるから大丈夫”とハリーの怯えに寄り添い愛を与える側になります。しかもそこでのハリーはこれまでの理想的彼氏とは違って、弱さと不安を漂わせ“ああ、こちらが(こちらも)現実のハリーなんだ”と思わせます(この違いを瞬時にわからせるポール・メスカルが本当に見事。最初のシーンでも、部屋に入れるのはやばそう、でもこのまま帰したらよくないという説得力がすごいです。)。CINRAの記事を読むと、アダムのこの立場の転換はヘイが明確に意図したものでしょう。自身もショックを受けているのにハリーを包み込むようなアダムが感動的です。ただ、今作では、それが同時に喪の作業的というかもっと言えば看取りのようで、しかも観る側の気持ちにシンクロするような作りなので、私には非常に「喪失や痛み」を「浮かび上がらせるもの」でした。また、ハリーは、あの日の夜にひとりでいたくなかったと言っていて、近い過去に違う選択肢があったんじゃないかとも思わせます。それによって、少なくとも私は後悔を喚起させられるところもありました。

 

ヘイは、これは悲劇でなく「希望に満ちた結末」と言っていて、私も必ずしも悲劇と思ってはいないものの、その痛みはなんともしがたい感じになったのでした。

 

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下の公開イベント動画も、気持ちを落ち着けるのによかったです。クィア映画史も、山田太一作品解説も含まれる濃い内容でお勧めです。


www.youtube.com

 

こちらのコラムも興味深く読みました。今作の真摯な考察に加えて、なんと『異人たちとの夏』(山田太一原作と大林宣彦監督作)のクィア・リーディングです! 

eiga.com