『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd、吉田鋼太郎演出・柿澤勇人主演『ハムレット』感想

2024年6月上演。

 

7月9日〜15日に配信が決定しましたので、遠征が難しかった方もこれから楽しめます!

natalie.mu

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かなり正統派の『ハムレット』と思いますが、瑞々しさが感じられてとてもよかったです。吉田鋼太郎さんの今回の演出は、敢えてストレートに上演して十分面白いことを知らしめる意図かとすら思いました。それぞれの人物像も正統派または原点回帰的に思えました(吉田さん自身が演じるクローディアスと先王については、私は意外な感じを持ったんですが)。柿澤勇人さんのハムレットがその瑞々しさ・面白さを牽引し、オフィーリア、ホレーシオ、レアティーズも若々しいキャスティングが奏功したと思います。柿澤さんは36歳だそうなので、実年齢的に若いと言うよりむしろ原作ハムレットの年齢より少し上なくらいであるものの、原作より若い設定のハムレットに見えます。

 

直近に(映像で)観たのがロバート・アイク演出、アンドリュー・スコット主演の『ハムレット』で、それが素晴らしく好みの作品だったので、実を言えばそこまで楽しめないかもしれないなとも思っていました。加えて、『ハムレット』については私のストライクゾーンが狭くて、面白く思えない作品もそこそこあり……。

 

ですが、ハムレットの登場シーン、皆が白の衣装でクローディアスとガートルードの結婚を祝うなか、ひとり黒の衣装で、まさに曇った表情で離れて立っていた柿澤さんが台詞を語った瞬間、スコットとは全く別のハムレットが立ち上がり、作品世界に入り込むことができました。(とはいえ、生の舞台だと前の人の頭で見えない所が結構あって、実はこの場面のハムレットは私の席からはちらっと見えた程度に隠れてしまっていました。劇場ってそうでしたね。)

 

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衣装的には中世〜近世でなく19世紀あたりの感じながら過去になっています。意図的な演出なのか私が勝手にそう感じたのか、今作では身分の違いにも意識が向きました。ハムレットは皆にフランクに接してもらいたいと思っている一方、下に扱ってよい人への無自覚な奢りもある気がします。単に王室=セレブということでなく、身分がきっちりある社会で、だからこそ了解できる部分もあります。思い込みかもしれませんが、白洲迅さんのホレーシオや渡部豪太​​さんのレアティーズは、その辺の礼儀を見せていた気がしました。

 

この下でキャストの印象や場面等、演出ネタバレ的なことを書きますので画像を挟みます。今回も相当長い……です。

 

Image by Ségolène Trousset from Pixabay

アイク+スコット版はひなぎく(デイジー)がテーマフラワーでしたが、今作のテーマフラワーはミモザでした。

 

使命感を抱くハムレット

柿澤さんのハムレットは、青いとも言いうる正義感をもつハムレットの印象。それが、明るく振舞うクローディアスやガートルード達、大人の如才なさと対照される感じでした。人は死ぬものなのだからそれを受け入れて社会生活しないと、と振舞う大人と、そう流すことはできない若さ。しかも結婚すべきでない関係の母と叔父が結婚し、異を唱える者はいないけれど見過ごすことはできない。台詞通りですが、それがとても説得的です。

 

先王の亡霊から謀殺の話を聞いて復讐を誓い、「いまの世の中は関節が外れている、うかぬ話だ、それを正すべくこの世に生を受けたとは!」と言う時のハムレットが、もちろん苦々しさは含みつつ、なんだか晴れやかに見えました。何かおかしいと思っていた事態に解があり、そこにこそ自分が生きる意味があると悟ったように思えます。下リンクの『ぴあ』のレビューを読んだら、この台詞がフライヤーのキャッチコピーに使われていることが指摘されていて、フライヤーを確認したら確かにその通りでした(←気づくの遅い)。ちゃんとこの台詞が響くように作られているのですね(フライヤーのコピーは上の引用とは少し変えられていますが)。私も武田吏都さんの書かれたレビューにとても近い感想をもちました。

 

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悩むハムレットというより、使命感があり行動するハムレット、あるいは行動しようともがくハムレットにも思えました。私の思い込みもあるかもしれませんが、演出的にも「このままでいいのかいけないのか(To be, or not to be)」と悩む独白(第3独白)よりも、その前の、まだ復讐できずにいる自分を責める独白(第2独白)に焦点があたるようにされていた気がします。第2独白では口調も動きもかなり激しく起伏があります。それに対して「このままでいいのかいけないのか」のシーンは、オフィーリアが舞台中央奥で正面を向いていて、ハムレットの内面にやや入り込みにくくなり、語り方も相対的に淡白に思えました。その場面でオフィーリアが登場して舞台にいるのは戯曲通りですが、ハムレットひとりだけにする演出もありますし、彼女が舞台上にいても目立たないようにされていることが多い気がします。一番有名な独白から敢えて注意を逸らす演出とも思えましたし、そもそも“To be, or not to be”がオフィーリアが舞台にいる状況での独白であることを改めて考えさせる演出でもあると思いました。

 

柿澤さんのハムレット河合祥一郎先生が指摘する、世界の秩序を取り戻す任を負う古典的なハムレット像に近いんじゃないでしょうか(『謎解きハムレット』)。私はどちらかと言うと、その本来の正義系ハムレットが苦手で、それは分別臭く見えたり、正義を振りかざす割りに彼の他者への行いがダブスタに見えたりするためなんですが、今作ではこの正義感が若さとして一方での未熟さや感情の揺れにも結びつくように思えるので、分別臭くもダブスタにも見えません。元々は健全な王子だろう雰囲気があり、「うるわしいこの国の希望とも花とも仰がれ」る“Sweet Prince”が体現されている感がありました。

 

更に特筆すべきは、柿澤さんの口跡のよさ。叫ぶような時も、囁きのような声でも、台詞がきちんと聞こえて台詞と物語と感情が織り合わされこちらに届けられるその水準が素晴らしいのです。(当たり前と思えるかもしれませんが、冒頭の城壁シーンでは、台詞はちゃんと聞こえるものの、“あ、日本語でもシェイクスピアの台詞ってやっぱり少し難しい、頑張って聞かなきゃ”と思い、でも柿澤さんの台詞になるとそういう頑張りが必要ありませんでした。城壁シーンの演者の方達を悪く言うつもりはなくて、シェイクスピアの生の舞台をしばらく観ていなかったものの、これは普通だと思います。)そのためかハムレットのあれだけ長い台詞を長いと感じません。その点も行動する、疾走感のあるハムレットの印象に影響している気がします。

 

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(こちらのインタビューに、吉田演出で「自分の言葉にする」ことが大切にされている話がありました。)

 

中盤でクローディアスの殺害を一度諦める場面も、今作ハムレットは殺害を躊躇した訳ではなく、クローディアスが祈っている最中では意味がないと断念した感じでした。(寝室の場面冒頭で休憩になるのも、引っ張る感じで面白かったです。)そのため、寝室の場面で、クローディアスと間違えたポローニアスの殺害は、まさに好機だったはずが違う人物だったという展開に見えます。ハムレットのポローニアス殺害を重く作る演出も見ましたが、今作は正名僕蔵​​さんのポローニアスをクローディアス側近として少し悪役的に、相互に策謀をめぐらす雰囲気にしてハムレットの罪の印象を減じたように思います。

 

(今回の記事、人物評的に書いたために展開順にまとめられず、ハムレットが各人物と関わる場面についてはこの後で書きますが)、最終場面でも、倒れては立ち上がり足掻きながら必死にやるべきことをして、やっと「あとは沈黙」で安らぎを得たハムレットという感じでした。

 

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クローディアス、先王、ガートルード

序盤の結婚の祝宴で、クローディアス達が明るく振舞うと上で書いたように、吉田鋼太郎さんのクローディアスはやや剽軽ささえ感じさせる調子のよい人で、今までの『ジョン王』『ヘンリー8世』からは吉田さんらしいキャラと言えるものの、こういうタイプのクローディアスは私は初めて見た気がします。劇中劇の場面まではおかしくなったハムレットのことにも心を砕いているように思えます。“今回のクローディアスは兄を殺した設定だろうか”と一寸思いました(殺していないかもという演出版もあるので、そういう演出版が存在すると今回はどうだろうと展開も楽しめますね)。その後の場面では臆病で姑息な印象で、一見いい人に見えるということなのでしょう。他の登場人物が原点回帰的だったりスタンダードな感じだったりすることからすれば、クローディアスについても実は元々のイメージに寄せていたりするのでしょうか。

 

二役の先王の亡霊役は全く異なる重みのある人物で、その点でハムレットが言う「獅子と虫けら」的な違いの表現なのかもしれません。ただ、先王の亡霊の方は、少し暑苦しい恨み言というか(ごめんなさい)、殺された恨みはもちろんガートルードを取られたことへの執着が強く聞こえます。戯曲的にはそれでいいのかもしれませんし、生前そういう人だったのかもしれませんが、“亡霊の言うことを信じて大丈夫か?”と思わなくもなかったです。息子のハムレットとのキスはいらないかなー、クローディアスとガートルードのキスは有意味になっていると思いますが、父とハムレットとの方は親子の情だとしても過剰で浮いてしまう感じがします。クローディアスの方では、劇中劇後の、自身の罪を告白するシーンでも笑いを取る感じや、復讐に来たレアティーズを誑かすところも面白いのは、やや奇を衒った印象になりました。

 

高橋ひとみさんのガートルードは、お姫様がそのまま大人になったようなおっとりした人。父の死を悲しむハムレットに「あかるい親しみのまなざしを国王にお向けなさい」「生あるものは必ず死ぬ」「これは当然のことでしょう」と語りかける時も、本当に無垢にそう思っている感じです。劇中劇での二夫に見えずの王妃の誓いをどう思うかと聞かれた時も、皮肉などでなく純粋に“台詞が多いわ〜”と言っていそう。強い態度のガートルードを観ることが多いですが、高橋さんは柔らかい雰囲気で、やはり『謎解きハムレット』で言われる本来のガートルード像に近く、先王に守られていたというハムレットの台詞にも合致する気がします。おそらく、だからこそ先王には従順で貞淑に思え、一方クローディアスが愛を示せば素直に受け、寝室シーンでハムレットに非を責められるとそれを認めということになるのでしょう。今日的に見ると、考えることを奪われてきた人にも思えました。でも、皆への愛情はちゃんとあって、彼女のあり方や立場がオフィーリアとも重なり、今作だと彼女がオフィーリアの最期を語ることに意味を感じます。ガートルードが泣きながらその最期を語るのも私にはよかったです。この台詞は美しいんですが、美しく語られるとガートルードがそれを“眺めていた”ような印象になってしまうので。

 

ハムレットとオフィーリア

北香那さんのオフィーリアと、今作のハムレットとオフィーリアの関係は、古典と現代的感覚がほどよく調和する感じに思えました。

 

尼寺の場はハムレットが暴力的で激しい一方、北さんのオフィーリアは、怯えながらも何よりハムレットがそんな風におかしくなってしまったことを嘆いていました。そうだった、ここはそういう台詞だったと思いました(最近英語圏での新解釈的な演出を観ることが多かったので)。オーソドックスに作ってもハムレットはそこそこ暴力的かもしれませんが、今作では、オフィーリアが返そうとする贈り物をハムレットが叩き落とす、飾られているミモザの花を花瓶ごと倒してオフィーリアに投げつける、贈った布を引き裂くといった行為でハムレットの怒りと暴力が表現されていました。

 

芝居見物のシーンでハムレットがオフィーリアに露悪的に性的な言葉をかけるところは、今日的にはかなり問題に思える箇所ですよね。戯曲上はからかい的なやりとりにも見えるものを、今作ではむしろ酷さを強調し、耐えられなくなったオフィーリアが退席する形になっていました。クローディアスやポローニアスが“まずいぞ、止めないと”という表情で、明確にセクハラでハムレットの問題行動として描いていて、現代的な視点を入れた上手い処理だと思いました。オフィーリアが被害を受け、本人もそれをわかっていても対抗できるほど強くないことが示され、尼寺の場の続きのような感じもあります。正義系ハムレットだと嫌な感じに思えるところがあまりそう感じなかったのは、この敢えての演出の上手さに誤魔化されたかも……。その意味でよい演出ですね。

 

ミモザミモザカラーの黄色は、オフィーリア狂乱の場でも使われ、今作オフィーリアは(台詞では様々の花言葉を語っても)ミモザの花だけを持ち、黄色の衣装で出てきます。ミモザは台詞にはない花で、花言葉「真実の愛」「ひそかな愛」で愛する女性に贈るもの、女性デーに尊敬と感謝で贈るものを反転させた使い方ということなのでしょうか。

 

北さんのオフィーリアは狂乱シーンが印象的で、踊ったり、悲鳴をあげたり、花を渡すところが乱暴なのも、そこで抑制が外れてしまった感じとそれまでの抑制が強かったことが想像されてよかったです。元々は自由な身体性をもつ彼女が型にはめられていたとも思え、このオフィーリアだと、走り回って柳の木に登ってしまいそうな説得力もありました。最初の登場シーンの台詞では彼女はレアティーズをからかっていて、今作はそこでは追っかけっこをしているんですよね。以降は大人しく会話での台詞もそんなに長くなく、狂乱シーンで歌い多弁になる時に身体も踊っていて台詞内容にも沿います。また、北さんは悲鳴を上げる一方で、レアティーズの台詞に「悩みも苦しみも」「喜びに変わってしまうのか」とあるように、楽しげに語る箇所もあり、戯曲が丁寧に掘り下げられている気がします。

 

オフィーリアの死後の墓場の場面で、ハムレットが言う「おれはオフィーリアを愛していた」の台詞を、柿澤さんはオフィーリアを抱き上げ自分自身に向けて言っていて、そこで後悔と同時に自分の本当の思いに気づいたように見えました。この解釈を小田島雄志先生がどこかで書いたか言っていたのを見た気がするんですが、それを実感したのは初めてかもしれません。そこから彼はレアティーズに酷いことを言うわけですが、ハムレット自身に後悔があって兄より愛していたと強弁したいように聞こえます。今まで観た『ハムレット』のなかで、この場面は今回が一番しっくりきたと思いました。

 

ホレーシオ、レアティー

白洲迅さんのホレーシオは誠実、渡部豪太​​さんのレアティーズは好青年で、スタンダードなイメージでもその精度がとてもよい感じでした。

 

レアティーズがよい人に思えることも大切だと思い、その点でも、更には最後試合での柿澤さん渡部さんの剣技に迫力があったのもよかったです。剣技については英語圏上演版に対しても誇れる水準ではないかと思いました。

 

ホレーシオについては、最近観た英国上演版だと友人感が強く臣下感が薄い感じでしたが、白洲さんホレーシオはハムレットに最大の親愛の情はありつつ臣下の分を弁えていそう。マーセラス達といる時の方がくだけている感じがします。これはハムレットについても類似で、信頼しているのはホレーシオでも、身分での距離が近いのはローゼンクランツとギルデンスターンという感じがしました。

 

尼寺の場の後にハムレットがホレーシオを褒める箇所は、傷心のハムレットが友愛に救いを求めた風で、その場面ではハムレットの思いの方が強いかなと感じるほどでした。他方、(親愛の情は大前提で)臣下感のあるホレーシオが面目躍如を果たすのが最終場面。一緒に死のうとするのも納得できますし、後のことを命じられたからには責務を果たす強い意志を感じます。フォーティンブラスへの言葉も強くて、白洲さんだと“お前の王位のことは後だ、丁重に弔う約束を果たせ”を言い方だけ丁寧にした風で、後のことを任せられるホレーシオだと思います。きちんとハムレットの体勢を整えてあげるところもよくて、これも静かな終幕を作る大切な要素になったと思いました。