『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター、アンドリュー・スコット主演『ワーニャ』感想

サイモン・スティーヴンス翻案、サム・イェーツ演出、ナショナル・シアター・ライブ、2024年。

 

……うっかりパンフレットを買い損ねまして、そこで解説されているのに以下で変なことを書いてしまっていたらすみません。

 

一人芝居・複数役の演劇的楽しさも、作品解釈の面白さも満喫しました。複数役の演劇的楽しさってありますよね! 以前観た『善き人』での複数役は、例外的に、その楽しさと主題の重さが背反的で苦しかったんですが(そこは演出上の狙いであったかもしれないと思います)、今作では一層作品に入り込ませてくれ愉悦を感じます。チェーホフは全く詳しくなく『ワーニャ伯父さん』も初見でしたが、原作イメージとの差分も興味深く、アンドリュー・スコット主演の『ハムレット』と同様にこういう解釈かな?と考えたり、改めて読んでなるほどそうかと思ったりしました。

 

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今まで観たことがなかったにもかかわらず、チェーホフもワーニャもスコットにとても合うんじゃないかという謎の(?)期待があり、ワーニャ像については予想とは違ったものの、相性のよさについては期待以上でした。軽妙さ、哀愁、親密感。複数役の切り替えはもちろんのこと、私はスコットの演技の間(ま)が好きでもあるので、一人芝居でも静かな対話の箇所などではその場の空気感が表現されて役が移行していくところが特によかったです。あと、やっぱりセクシーなところが恋愛模様の説得力を生むと思いました。英語圏の複数レビューでセクシーとか“hot doctor”とか書かれていたので、ここはスコットが好きなあまりの私の妄想感想ではないはず……。尤も、私は、ラブ・シーン自体よりその前段や人物の雰囲気の方でそう思ったので、レビューの意図とは少しズレがあるかもしれませんが。

 

小道具を使って役を切り替えるのは、佐々木蔵之介さんの一人芝居の『マクベス』でも採用されていたので、割合よくあるやり方なのでしょうか(加えて佐々木さん『マクベス』にもひとりラブ・シーンがあります)。でも2人とも役の切り替え以上のところが素晴らしかったです。佐々木さんの『マクベス』は、精神科病棟とマクベス世界が並行して進行する演出で、その二重性や役相互の感情の重なりが表現されていましたし、スコットは、上述の、会話の場の雰囲気が感じられました。『ワーニャ』の方がおそらく台詞の掛け合いが頻繁なので、今作のスコットは、例えば下リンクの動画クリップのように主に1人を演じながら声だけ別の人になって会話を進めるやり方もしていました。そのため、場面を思い出そうとすると、それぞれの役の2人とか3人がその場にいたかのような記憶のバグが起きます。詳しくないのに適当なことを書いちゃうんですが(←しつこい)、チェーホフシェイクスピアの違いを反映するようで面白かったです。チェーホフは、シェイクスピアより会話(またはその不成立)や場の空気が重要そうなイメージがあるので。

 

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サイモン・スティーヴンスの脚本再構成と一人芝居によって、登場人物やその境遇・感情の類似性も示唆され、ソニア(ソーニャ)の最後の台詞が皆に対してのものになる気がしました。その箇所の英語の台詞がまた詩のように美しいのです。

 

登場人物やその関係性については結構意外性もありました。これは画像の下でもう少し書きます。また、全役がスコットなので変な言い方とは思いますが、マイケル(ミハイル/アーストロフ)役がよくて、私は原作ではワーニャとソーニャの方が印象に残りましたが、マイケルとヘレナ(エレーナ)の哀感と諦念にも気づかせてもらったと思いました。原作の読みが浅かったと感じると同時に、ここは原作でもスティーヴンスの脚本でも解釈によって違う作り方もありそうなところで、特に今作の演出の方向性と言えるかもしれません。

 

英語圏各誌のレビューは概ね高評価。スコットへの賞賛はほぼ一致しているものの、作品についての評価は若干分かれています。The Gardianの評はやや辛口で、「アンドリュー・スコットのショーで、チェーホフは二の次」、各登場人物の掘り下げが薄くなったというものです。Whats0nStageやTime Outは作品も絶賛し、各人物に焦点が当たると共に原作の根底にある感情を描き出すものになっているとしており、またそれを製作チーム全体の成果に帰しています。一人芝居によって、各人物の固有性や濃度が減じられたとみるか、作品に流れる感覚が強調されたとみるかの評価の違いの気がします。私は後者の見解に同感でした。

 

playbill.com

↑各誌レビューへのリンク

 

www.theguardian.com

 

www.whatsonstage.com

 

www.timeout.com

 

スコットの一人芝居を堪能したのは事実ですが、別の演者による別のアプローチも観てみたい、演者によってテイストが変わる作品のようにも思います。この水準で演られたら次は滅茶苦茶ハードルが上がるでしょうが、スコットだけのものにしてしまったらもったいない気もします。その意味でも、ローレンス・オリヴィエ賞を主演男優賞でなくリバイバル作品賞で受賞して、作品として評価されたのはよかったんじゃないかと思いました。(主演男優賞については今年は推し対決の感があって、もうね、候補者誰が取ってもの気持ちでした。)

 

各登場人物のことなどをこの下で書きますが、内容が含まれるので画像を挟みます。

 

Photo by Viktor Mogilat on Unsplash

 

アイヴァン(ワーニャ)は、私の原作イメージでは地味でさえなくて自嘲気味に諦めを抱え込んだ人と思っていたのが、おどけて騒がしく(それも自虐やヤケにも思えますが)、47歳という年齢より若い印象でした。trailerを見て「私生活ではいいことなんてほとんどない」と言うのがてっきりアイヴァンだと思っていたら、こちらはマイケル(アーストロフ)でした。ですが、見てから原作を読み返すと、なるほどそういう風にも取れると思い、原作の多義性というか複数の方向に取れる作劇にも気づきます。今更なことを書いていると思いますが、人物についての相反するような形容や両義的な感情や行動に溢れているんですね。

 


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今作アイヴァンは、貧乏くじを引いて働きづめで義理を果たしたのに報われない人というより、亡妹の夫アレクサンダー(アレクサンドル/セレブリャコーフ。原作では定年退職した大学教授、今作では映画監督。)に夢を見てつぎ込んでいたらあっという間に年齢を重ねて婚期も逃し、“いや一寸待て”となっている人に見えました。考えたら彼のヘレナ(エレーナ)に対する感情や接し方も、子どもっぽいというか、ヲタクっぽいですよね。外見重視で、彼女の気持ちも考えず、なぜ自分の妻じゃないんだろうと夢想していたり。今作だと、彼女がアレクサンダーの妻だから、実は欲望の三角形的に焦がれているのではないかとも勘繰ったりします。ただ、アイヴァンが明るめの作りになっていると、ヘレナを一寸えげつなく見ていたり、逆に20歳も離れているのにピュアに花束を持ってきたりしてもあまり嫌な感じにならない気はしました(スコットが演じているせいで、私の判断が甘くなっている可能性は大いにあります)。アイヴァンのアイテムがサングラスで、それは単にブランド名(EYEVAN)と掛けているだけかもしれないものの、もしかしたらゴダールとかの映画監督を真似ている、憧憬を示しているかもと思いました。

 

第3幕でアレクサンダーが土地を売る提案をした時、アイヴァンは怒りを爆発させながら、アレクサンダーの映画の場面場面全部を覚えているんだと言います。これは原作でワーニャがセレブリャコーフの論文を暗記するほど読んだとする台詞の置き換えですが、原作では、そのくらい尊敬して好きだったという話にも、実際には下らない人だったセレブリャコーフの考えに盲従した悔しさの語りにも取れるように思います。アレクサンダーが映画監督に改変されたことで、彼の作品が好きだったという方向が強化された気もします。今作アイヴァンは、半ば諦めつつ次の映画を待ち続けたのかもしれないと思いました。

 

また、今作ではアレクサンダーも苦しみながらまだスクリプトを書いています。確かに原作でも新たな著作を書こうとしていますが、映画監督には定年退職がありません。彼もやろうとしてできないことを抱えたまま、もう寿命が尽きそうなことに怯えているように思いました。その不全感がアイヴァンと重なるようにされている気がします。

 

今回の省略と脚色で、貢ぐ側でもあり世話になっている側でもあるのがリアム(イリヤ/テレーギン)なのだとわかりました(私は原作ではそこが見えませんでした)。一人芝居のために原作よりも登場も台詞も減り存在感が薄いキャラという面白演出になっています。ですが、そのために却って顧みられなさが際立ち、最後の方で彼が馬鹿にされて傷ついたとポツンと言う台詞が響きます。顧みられない辛さを共有する人物であることが明確に見え、原作以上に彼の存在感が増すという逆説が生じています。ただ、この辺が私には面白くリアムの造形も好みでしたが、原作の複雑さや曖昧さ、雑味的な味わいが減るという逆の評価はあるかもしれません。

 

マイケル(アーストロフ)については、『ドライブ・マイ・カー』のオーディション場面のアーストロフが(若すぎることを除けば)私の原作イメージに近くて、そちらではわかりやすくモテそうな一方、嫌な印象も有していました。今作マイケルはアイヴァンより少なくとも表面的には暗くて疲れている風で、序盤は彼の方がさえない感じすらします。Trailerの場面では酔っぱらっているせいもありますが、元々の喋り方もマイケルの方が重めで鈍めです。原作のアーストロフが、やや頑なな理想主義と表裏一体の厭世観から人生を倦んでいると思えるのに対し、今作マイケルは生活に疲れたことに焦点が当たっているように思いました。アルコール依存度やだらしなさはおそらく演技・演出的に増していて、スマートさと理想主義的な面は脚本的に減っています。にもかかわらず、そのダメさのためになぜか魅力的になっているという……。改めて読むと、ヘレナに「風采もよければ話も上手で、女好きのする」と語られる一方、モーリーン(マリーナ)には「男前も、昔のようじゃない」「ふけた」と言われていて、どちらの方向にも作れそうです(今作でもこの両方の台詞がありました。ヘレナの褒め言葉は風貌のみになっていたかもしれませんが。)。今作だと、ヘレナがマイケルを褒めていても、彼女の形容通りとは思えず、むしろヘレナが彼に惹かれていることを示す台詞に聞こえました。

 

ヘレナは原作イメージに近く思え、アンニュイでふわっとした喋り方や態度が美人を感じさせました。ただ、徐々にその演技が薄くなり、スコットの素に近くなったり、美人表象のアンニュイというより倦怠の表現になっていったかも……。ここはもう1回観たら違って観えるかもしれず、私の妄想も入ってきていますが、ヘレナ本人の意識を表現する演技に移行していった気もします。美人と褒めそやされてモテても、ヘレナ本人としては女としての人生終わってる気持ちだもんね、と思いました。今作だと、こういうやるせなさや倦怠がヘレナとマイケルを相互に引きつけた感じがしました。マイケルが告白に至る“なぜあなたがそれを尋ねる?”と“降参だ”の台詞には、もー私が降参でした。原作ではマイケル=アーストロフに迫られたヘレナ=エレーナが「出ていって」とか「放して」と言っており、それは“嫌よ嫌よも好きのうち”にも、本当に嫌がっているようにも、どちらの方向にもまたは両義的に作れるように思います(別れの場面で原作エレーナもアーストロフに口づけしますが、これも必ずしも恋愛でなく、謝罪の受け入れと一寸した冒険と取ることもできそうですし、曖昧なままにもできそう)。今作では両思いで、はっきり同意がわかる形になっていたのも好ましかったです。もしかしたら「放して」等の台詞は残っていたかもしれませんが、それが印象に残らないほどでした。原作のアーストロフは迫り方も別離の場面も強引で傲慢なニュアンスもありそれなりに嫌な感じもするのが(そして敢えてそういう性格づけにされているのでしょう)、今作ではどんどん好感度が上がります。今作はこの2人の別離の場面も悲しくて、しかもマイケルはその後ウォッカを瓶で一気飲み。原作の静かな諦観も趣き深いですが、今作ではマイケルの失意と自棄がやはりアイヴァンに近くなっていると思いました。

 

ソニア(ソーニャ)については、地味で控え目、悲しげなイメージを持っていたのが、今作では世話焼きで話好きそうだった(そして本当に可愛い)のがやはり意外で、でもこちらも改めて読むとそんな娘に読めます。私がラストシーンから遡及的に印象形成してしまったか、容姿コンプレックスの台詞のせいでそう思ってしまったんでしょうか(やはり『ドライブ・マイ・カー』内ソーニャは、控えめ悲しげでイメージに近かったんです、美人でしたけど)。原作だと容姿の件も「ああ厭だ厭だ、どうして不器量に生れついたんだろう!」と結構重めですが、今作では、“ordinary”でしたし、仮に“ordinary”が婉曲表現でも、ソニアがそれを気にしているのはマイケルが振り向いてくれるかどうかという一点だけで、あまりコンプレックスではない気がしたのです。ただ、もしかしたら一人芝居だからこそ、明るめなソニアにできたかもしれないとも思いました。彼女の最後の台詞が響くためには、ソニアも深い悲しみと諦めを抱いている必要があると思いますが、一人芝居だとソニアという人物個人がそれを背負わなくてよくなりますし、今作では、最後の台詞がソニアの人格を超越したものにも思えました。

 

「」内については、神西清訳から引用しました。青空文庫新潮文庫があります。

www.aozora.gr.jp