『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター、クリント・ダイアー演出『オセロー』感想

クリント・ダイアー演出、ジャイルズ・テレラ主演、ナショナル・シアター・ライブ2023年。

 

(以下、演出コンセプトの話自体が若干ネタバレ気味かもしれません。ご了承の上、お進み下さい。NTLiveの紹介記事とtrailerを挟みます。)

 

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私にはロージー・マキューアンのデズデモーナが主役に見えたほどの『オセロー』でした。最近の『オセロー』はかなりデズデモーナが強くなっている印象でしたが、今回が一番強く、社会と闘っている感があって惚れ惚れです(悲劇ですが)。こんな風に元の台詞を語ることができるのかとも思いました。NTLiveのあらすじにもデズデモーナが「聡明で強気な性格」と書かれていて、これは原作の紹介でなくて、この版の解釈だろうと思います。同時に、人種問題よりDVやミソジニーが前面に出ている作品に思え、作品解釈や問題提起は『令和X年のオセロー』に近い感じを持ちました。とはいえ、両作品のデズデモーナのキャラクターは真逆と言っていいほどだと思います。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

実は、演出のダイアーは、下動画でミソジニーには言及しつつも、黒人の疎外された体験に焦点を当てているとし、内的・社会的障壁に直面するカップルの「ラブ・ストーリー」だという解釈を語っています。人種問題よりDVが前面に出ていると感じたのは、私が日本社会での人種的マジョリティの女性だからなのかもしれません。タイムアウトのレビューはレイシズムに焦点を当てたものという評価(確かにニコラス・ハイトナー演出版より人種差別や黒人の経験を描いているのはその通りかもしれません)、ガーディアンの方ではDVに焦点を当てた作品として評価していて、私はガーディアンの評に頷けるところが多いのです。で、タイムアウトの評者は男性、ガーディアンの評者は女性だったりするんですよね……。

 


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(追記)このように書いていましたら、後からタイムズ誌でのダイアーのインタビュー記事ではミソジニーのテーマが強調されていることを教えていただきました。上動画とは強調点が逆で、見ておわかりの通りタイトルも「オセローは人種についての話でなく、ミソジニーの話である」です。デズデモーナはずっとヒーローでなく犠牲者と見られてきたけれども、白人の高貴な女性が慣習に逆らうのはかなり勇気がいることで、ダイアーにとって彼女はヒロインだと言われています。一方で、ナショナル・シアターの上演史(白人男性がブラックフェイスで演じてきたことなど)の話も最初に出てくるので、もしかしたら上のNTの動画の方では人種が強調されたのかもしれませんね。ジェンダーと人種の問題は絡み合っているとも言われています。有料記事ですがこのくらいの要約は許されるかな、と。

 

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ジャイルズ・テレラのオセローは、やや若めというかデズデモーナとの年齢差は感じさせず、それによって人種の違いを焦点化し、オセローとデズデモーナの対等な関係を強調している気がします。これまで感想記事で書いたオセロー達が、エリートの輝きや年齢を重ねた余裕があったのに比べて、テレラはより実直でナイーブな感じがしました(素朴という意味も、繊細という意味も兼ねて)。デズデモーナと秘密結婚したり、騙されたりするプロットとの関係では、こういうオセローの方が納得できる気がしますね。

 

ポール・ヒルトンのイアーゴの方がオセローより年上に見えるので、更にそう感じます。ヒルトンのイアーゴは冗談や裏での本音がえげつなくて、ヘイトを煮詰めたようなイアーゴだなと思いました。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのルシアン・ムサマティや、少し前のNTのローリー・キニアだと、なぜイアーゴがオセローを憎んで陥れるのかの心情にも目が向き、ある種の共感ができたのに対し、ヒルトンのイアーゴは(おそらく敢えて心情に注目させず)彼の悪意の醜さが重く残ります。中盤のトークで“イアーゴの言葉は社会が是認する差別を語っているだけ”というような解説があり、そういう悪意の気持ち悪さかと思いました。ヒルトンの表現も、独白場面にコロスのように人がいる作りも(下に動画があります)、それを伝えるものになっているし、ここも原作から今日的な含意を引き出していると思いました。トークでは“シェイクスピアすごい”という語られ方でしたが。

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー『オセロー 』感想

ナショナル・シアター (at Home)他『オセロー』2本感想

 

観終わってからポスターを改めて見ると、デズデモーナが上側で、彼女がオセローを抱き顔を上げて光の方を向いており、オセローは彼女に抱かれ縋るようにも束縛するようにも見え、正面は向いていても影ができていて、今作のコンセプトがうまく表現されているように思います。

 

Othello.jpg
https://www.ntlive.jp/othello2023

 

trailerや抜粋動画で見られるように、ミニマル系の抽象的な作りで衣装も黒を基調にした現代的で時代不明なものになっています。デズデモーナの少しドレッシーなパンツスタイルの衣装もキャラクターに合っていて、違和感も侵害性もなく観られたのも本当によかったです! この下から、もう少し細かいところを書いていますが、やっぱりデズデモーナの話が中心になっています。

 


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冒頭というか開始前というか、舞台後方階段部にポスター映像や西暦年が次々と映し出されます。中盤に挟まれた演出のダイアー達のトークによればそれは上演歴を示したものということでした。ダイアーはこれまでの演出が違うという感覚を否めなかったと述べ、他の論者は、過去の上演で黒人男性と白人女性のキスシーンに立腹して退席した観客がいたことや発砲事件すら起こった(!)話を語っていたりして、そういう積み重ねのうちに今回の演出があるということなのでしょう。

 

オセローとデズデモーナの結婚

イアーゴとロダリーゴが、ブラバンショー(=デズデモーナの父)の屋敷の前で、デズデモーナが家を抜け出してオセローと密会し結婚したと大声をあげる時から、アンサンブルが群衆として騒ぎだす形で、娘がいなくなった重大さはもちろん、こんな騒ぎになることがブラバンショーには不名誉だろうなと思えます。この場面ではアンサンブルが実在する人々として登場しますが、上の動画のように独白場面でも後ろ側にいて、登場人物の心情や言葉が、世間や世論(幕間のトークでは社会構造と言われていました)とも関わっていることが示されます。

 

騒ぎになってデズデモーナが証言のためにヴェニス公爵の元に呼ばれます。マキューアンのデズデモーナは最初に書いたように、強いしきっぱりしています。この時の彼女の衣装はオセローとペアのような細めの黒のパンツスタイル。お前が従うべきなのは誰かと父ブラバンショーに問われ、“I do perceive here a divided duty”と言う時点から父に従わない気満々というか、ロジカルに父上よりオセローですと明確にした感じです。このデズデモーナだと、大人しく従順だった彼女が恋愛では大胆な行動に出たというより、ブラバンショーが現実の彼女を見ずに理想の娘像を頑なに信じていたのかもしれないとまで思います(彼女はそれまで結婚を厭い求婚を断っていたとブラバンショーは言っていて、デズデモーナはかなり頑張っていたかもしれません)。ブラバンショーはそれに直面させられ、自分の意に染まない娘と縁を切ったようにも見えます。また、“she[=Desdemona] wish'd that heaven had made her such a man”というオセローの台詞は、“天が彼女のためにそんな男を作ってくれたら”とも“彼女をそんな男にしてくれたら”とも解釈できるそうですが*1、今回は、オセローのような男性を夫にしたいというニュアンスでなく、そんな男になりたかったという意味を取った字幕になっていて、そうそう、今作ではこっちがいいなと思いました(翻訳は柏木しょうこ先生)。

 

また、デズデモーナの秘密結婚は愛に賭けた無茶な行動ではなく、合理的な選択だったんだなと思いました。正攻法ではブラバンショーは許さないか、相当時間がかかりそうですもんね。

 

原作や他版ではヴェニス公爵はオセローに厚い信頼を寄せて、結婚でも彼の肩を持ってくれますが、今作の公爵は、影でブラバンショーの機嫌を取っていたり、キプロス出陣を受諾し握手の手を差し出すオセローを無視したり、軍人オセローには頼っても都合よく使っている感じで、余計に状況が厳しそうです。その点では確かに差別を強く描いているとも言えます。今作のオセローは、ヴェニスに貢献していても彼が思うほどは功績を評価されておらず、彼の認識の甘さも感じ、上で書いた実直でナイーブという印象になります。デズデモーナが一緒にキプロスに行かせてほしいと言うのも、せっかく結婚したばかりだからというより、彼女が1人ヴェニスに留まればそのまま引き離されるのを警戒しているようにさえ思えます。

 

デズデモーナとエミリア、夫としてのオセローとイアーゴ

キプロス到着シーンで登場するエミリア(ターニャ・フランクス)は、顔に痣、腕にサポーターと、DVを受けている設定で、夫イアーゴを怖れる感じも見せます。キャシオーがイアーゴに“大げさな挨拶を多めに見てくれ”とキスをするのはエミリアの手で、むしろ紳士的に見えるのにそれでも心配になります。「たっぷり唇を味わうというはめになれば、きっとうんざりなさるでしょう」(小田島雄志訳・白水社版)と返すあたりからのイアーゴの冗談は下品だったり、女性を貶めるものだったり(原作の台詞そのままですが)。ちゃんと覚えていないのですが、字幕翻訳は小田島訳以上に下品さを出していた気がします。原作的にはエミリアも言い返し、デズデモーナも冗談を言っているようであまり悪い雰囲気を感じませんが、妻や女性達を貶めて笑いを取る旧態依然とした男性イアーゴを嫌な感じで見せています。今作デズデモーナはエミリアを庇うようにイアーゴに挑戦的に言い返し、彼の態度に否定的です。

 

その直後、後から上陸したオセローは、妻デズデモーナを“O my fair warrior!”と呼び、美しい言葉で喜びを示してイアーゴと対照的です。彼は愛情もストレートに表現します。デズデモーナが結婚の証言でも、イアーゴの冗談に対しても闘っているようだと、“fair warrior”がオセローののろけではなく、美しく聞こえるなと思いました。彼のような男になりたかったというデズデモーナをwarriorと呼んでくれる。きっとデズデモーナは彼とは一緒に闘える人だと思ったことでしょう、この少し後あたりまでは(泣)。

 

フランクスのエミリアが、デズデモーナのハンカチをイアーゴに渡す場面は、上記設定もあり、少しでも彼に気に入られようとするような痛々しさがあります。ハンカチをめぐってオセローとデズデモーナが口論になるところでは後ろ暗そうにする一方、オセローの嫉妬と怒りを見て“男なんて皆そうだ”と言う時は、デズデモーナと自分が同様の境遇になったことへの意地の悪い嬉しさと卑屈さを感じます。

 

脱線しますが、上の場面や中盤まで“このキャシオーは一寸違うかも”と期待したら、ビアンカにはやっぱり残念で、エミリア含め、デズデモーナ以外は皆どこかで差別的なのが今作でした。

 

嫉妬するオセローと闘うデズデモーナ

オセローの嫉妬への転落は割合原作の印象の通りでしたが(第3幕第3場前半のイアーゴの仄めかしはさりげなくて効くなと思いました)、ヴェニスから来たロドヴィーコが、オセローのデズデモーナへの暴力を見た時の反応が今作独特でした。驚き憤慨するのではなく、オセローの失点を喜ぶか、“化けの皮が剥がれた”と言うかのようにしたり顔で評価を下げ、ここも人種差別を窺わせるものになっています。

 

一方、デズデモーナはオセローが疑って責めてもむしろ叱るように言い返して強いです。原作に感じる謙りのニュアンスは全くなく、事実関係で言えば原作でも当然デズデモーナが正論。口論の後で部屋を退出する前に「許しを乞わねばならぬ」と言うオセローの台詞は、ここでは皮肉でなく混乱し本気で悔いたもののようにされていました。

 

寝室でのデズデモーナとエミリアの会話でも、マキューアンのデズデモーナは傷心しつつも前向きです。DVから目を背けてオセローを愛していると言っているというより、“O these men, these men!”と怒りつつ、有害な男性性から愛するオセローを取り戻そうとしているように見えました(それが正しい判断だったかはまた別の話として)。今回のエミリアは、イアーゴがオセローに疑惑を吹き込んだと薄々気づいているようで、オセローの態度が酷くなったことや、おそらくハンカチの件の呵責もあり、その感情が堰を切ったように“間違った男を選んだのよ!”(というような字幕だったと思います)とデズデモーナに言います。ここは英語の台詞が原作通りの“I would you had never seen him.”だったか別の台詞を持ってきていたのか覚えていないんですが、エミリアが、原作通りオセローを非難したようにも、自分のせいではなくデズデモーナが間違ったと言っているようにも、イアーゴを選んだ自分も間違ったと言っているようにも思えました。それに対して、デズデモーナは、私はそう思わない、彼を愛している、と答えます。

 

夫以外の男と寝るかの話については、世界全部をくれるなら、夫を王にできるしルールも変えられるからそうすると答えるエミリアが、今作の設定だと私にはやはり痛々しく見えました。(虐げられていないエミリアだとすれば、この台詞は結構好きなんですが。)そして今作デズデモーナが自分はしないと答えるのは、夫への貞節ではなく、嫌なことは何と引き換えてもしないという自立性からなんだろうと思えました。その後の「急にばかばかしい嫉妬に狂い、私たちを閉じこめたり、なぐりつけたり」というエミリアの台詞は、オセローとデズデモーナのことというより、感情を昂らせ彼女自身のことを語る言い方になっていました。この寝室での会話で、かなり互いの本音を言えて2人の距離が近づいた感があります。

 

殺される直前になっても、マキューアン・デズデモーナは慌てずにオセローの説得を試み、彼の気持ちを落ち着けて助かる道を探っているようでした。エミリアとの会話のシーンと共にこのシーンは出色だと思います。そしてデズデモーナ殺害を知ると、DVを受けながら黙って従っていたエミリアがここで変わるという話になるのです。武器を持つオセローにも「怖がるものか」と言って皆を呼び、イアーゴに黙れと言われても黙らず、真実を明らかにするのはエミリアです。台詞はもちろん原作通りですが、その含意をとても豊かなものにしたと思いました。

 

ヒルトンのイアーゴはエミリアを刺しながら口づけており、彼の気持ちの上では愛だったろうけれど、でもDV、というオセローと同様の構図だと示しています。オセローが自刃する前に語る「この不幸な出来事を報告されるとき、ありのままの私をお伝えいただきたい、いささかもかばったり、あるいは悪意をまじえたりせずに願いたい」というのは、自分の愚かさを十分認めつつ、それを人種のせいに帰されたくないということに思えました。ただ、それを“愛だった”と言うオセローは、自分の差別しか見えなかったんだなと思わせます(と言うことがそのまま自分にも返ってきますけれど)。デズデモーナとエミリアが寝台で亡くなっているのに対し、彼はコロス達がいる階段に腰掛けて亡くなるのも象徴的な気がしました。

(※「」内の台詞は、小田島雄志訳・白水社版『オセロー』から引用しました。)

*1:ストラトフォード・フェスティバルの『オセロー』のプログラムにそのことが書いてありました。

 

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