『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

MARQUEE.TV ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー『オセロー 』感想

2015年、イクバル・カーン(Iqbal Khan)演出。

 

これまで観たRSCの作品と同様、意外性があって面白く、そして怖い作品でした。

 

中央に水が張られ、夜の運河を模した舞台にゴンドラに乗ったイアーゴ達が登場する幕開けです。シンプルなのにヴェニスの雰囲気たっぷりで気持ちが盛り上がります。この後のキプロスの場面も、やはりシンプルなのに、この水のある装置がうまく使われてそちらはイスラムっぽい雰囲気が出ていて、場所の空気感が感じられる舞台が素敵でした。

 

で、照明で更に明るくなると……、え、待って、イアーゴが黒人キャスト??と驚きました。(下のDVD/Blue-rayの画像なら多分想像が及んだはずですが、MARQUEE.TVのアイキャッチはこれとは違うものでわからなかったんです。)RSCでイアーゴを黒人キャストにしたのはやはり初めてだそうです。2015年なので少し前ですが、これも攻めた演出ですね。このキャスティングはもちろん意味を持っていました。

 

www.theguardian.com

 

イアーゴが、ナショナル・シアターの『アマデウス』でサリエリを演じたルシアン・ムサマティ(Lucian Msamati)!上の記事でも話題になっていますし、カーテンコールの順番的にもどちらかと言えばイアーゴが主役(あるいはイアーゴとオセローの2人が主役)という位置づけのようでした。ムサマティはサリエリ役でもコミカルなテイストを感じましたが、イアーゴにもそんなところがありました。コミカルで時々にふっと怖さを感じさせ、でもどこか憎めない哀切があります。

 

ムサマティと、オセローを演じたヒュー・クォシー(Hugh Quarshie)を討論者に迎えた、「『オセロー』は人種主義的演劇か」というディベートもされているので、イアーゴを黒人キャストにすることで揺さぶりをかけたということでしょう。揺さぶられましたー。ムサマティのサリエリ役には、少なくとも私はそれほど驚かなかったんです(ムサマティ自身はサリエリ役の時も黒人キャストがどう受け取られるか、そこにチャレンジを感じているとコメントしていましたが)。加えて、オペラでは、オセローを白人キャストがブラックフェイスにせず演じたのを観ていて、それにもあまり驚かなかったなと改めて思いました。両方とも、多分そこでは肌の色を意識しないスイッチが入ったり、見立てをしたり、人種とは異なる筋で観ていたんだと思います。なのに今回は驚きましたし、上のガーディアン記事だけでなくRSC自体が積極的に話題にしていました。オセローを、そしてイアーゴを誰が演じてきたかということとも関わりそうですし、また、ガーディアンの記事でも書かれているように、人種差別的と思われるイアーゴをどうするのかもあります。白人オセローの時にはそこをスキップして観られたりするのに、解決を求めてしまう……。でもそこはちゃんと考慮された演出になっていました。

 


Is Othello a racist play? Full audio version | Debates | Royal Shakespeare Company

 

イアーゴには驚きましたが、他の配役(あるいは演じ方かもしれません)はとても説得力があり、その世界観にすっと入っていけました。全体の配役・演者が素晴らしいと思いました。

 

クォシーのオセローは、やや老境に入りつつも、そこがまた渋くてかっこいい。登場した瞬間からいかにも有能で知的な政治家・軍人、しかも優雅な雰囲気です。デズデモーナを愛したから「自由な境遇を捨てて束縛の檻」に捕まったという台詞がありますが、かなりモテただろうなと思えるオセローです。クォシーはかなり前からオセロー役を打診されながら、オセローが人種ステレオタイプ的でもあるため断ってきたことが上の動画で語られていました。こういう配役や演出の作品になって出演を決めたのかもしれません。

 

デズデモーナは若くて愛らしいと同時に、(私の原作イメージよりずっと)やはり知的で意志が強く快活な印象です。父からお前が従うべきなのは誰かと問われて、“I do perceive here a divided duty”(別々の義務があると思います)という最初の台詞に自己主張と頭のよさを感じます。小田島先生の訳では「私のつとめは2つに引き裂かれております」で、英語的にも「引き裂かれる」というニュアンスなのかもしれませんが、引き裂かれて辛いみたいな心情よりは、もう結婚したので父親にだけ従う訳にはいきませんと巧みに答えた感じがするのです。そんな彼女は、オセローの不幸な境遇以上にその人格や才覚に惹かれたのだろうと思えます。でも後からのオセローとのシーンでは結構甘えたりして、愛情と同時にオセローに不釣合いな若さを見せる演技もうまい!

 

デズデモーナに懸想するロダリーゴと、デズデモーナとの不倫が疑われる副官キャシオーは原作通り白人キャスト。ロダリーゴは、若くてそれなりにイケメンだと思うのに、明らかにオセローより格下でデズデモーナが好きになる訳もなければ、イアーゴのカモにもされちゃうだろう感じです。キャシオーは最初からオセローへの忠誠がよくわかり、同時にデズデモーナと年齢的にも育った環境的にも近いように見え、多分お互いのことがわかるような関係に見えます。気やすくて基本的にいい人ながら、やや無神経で脇が甘い感じも出ています。イアーゴの妻エミリア(Ayesha Dharker)はインド/パキスタン系でしょうか。控えめながら芯が強いエミリア像は、通常イメージのデズデモーナとエミリアと一寸逆の印象に思えるほどです。キプロス総督が黒人で、軍もかなり黒人が多い設定です。ジェンダー・ミックスでは、ヴェニスの公爵と兵の一人が女性でした。公爵が素敵でしたが、女性キャストに特別な意味づけはなさそうでした。

 

ここまででも結構細々書いていますが、今回は更に内容についても書きたいので、ネタバレ大丈夫な方は先にお進み下さい。Trailerはネタバレ的ではなく、雰囲気がわかりやすいと思います(←当たり前?)。この場面だと登場時の“オセロー、素敵〜”という感じはあまり伝わらないと思いますが……。

 


Cinema trailer | Othello | Royal Shakespeare Company

 

上のガーディアンの記事でも、イアーゴは通常は人種差別的であると解釈されているとも書かれていますし、彼は“ムーアが憎い”と言っていたりもして、どうするんだろうと思ったものの、意外にそこは問題なく、この作品ではまた違う様相の差別が描かれたように思いました。下のレビューで言われているように、キプロスやオセローの軍が人種混合的で、白人でおそらく上層出身の副官キャシオーと黒人のイアーゴ達との緊張関係や、気のいい人でもあるキャシオーのイアーゴ達への無意識的な差別や文化盗用が示されます(原作での、娼婦ビアンカに対するキャシオーの態度にもそんなところがありますよね)。キャシオーが酔っ払ってしまうシーンで、イアーゴがアフリカの民族音楽的な歌を歌い(ムサマティの出身のジンバブエ民族音楽のようです、この歌も素晴らしい)、皆がしんみりしているのに、酔ったキャシオーが茶化すように振舞ってラップバトルを始めます。騙されて酔っ払ったことと、無自覚な差別と、キプロス総督もキャシオーの振る舞いに悪感情をもったことなどがとてもうまく演出されています。原作でも、そもそもイアーゴがオセローやキャシオーを陥れようとするのは、自分を差し置いてキャシオーが副官に任命されたのを恨んだからですが、そこでの人種や階級関係が更に複雑にされています。

 

このカーン版では、むしろ自分の出自に自覚的でコンプレックスも持っているのはイアーゴです。今回気になったせいで、台詞にやや注意が向いたら“the Moor”や"black”も多様なニュアンスで使われていたことがわかりました。それらはデズデモーナの台詞にもあって、単にオセローの言い換えとして彼を讃える箇所にも出てきます(称賛であっても、誰かを差別的ニュアンスも持つ「〇〇人」とだけ呼んでいいかと問うことはできるでしょうけれど)。黒人/ムーア人イアーゴが“あのムーアが憎い”と言うことは可能なんだなと思いました。この版では、ヴェニスのエリート社会に溶け込んでいるのはオセローの方なんですよね。

 

www.theguardian.com

 

www.independent.co.uk

 

上のyoutubeディベートで、クォシーは『オセロー』に対して結構厳しい見解を述べていて、白人の妻を殺すというプロットや、黒人に対する驚異との結びつきを人種ステレオタイプ的としていました。(ディベートなので、クォシーが『オセロー』を人種主義的と言い、ムサマティが人種主義的ではないとしていたのも面白い対比だなーと思いました。)クォシーは、オセローの嫉妬や殺意の理由が人種に帰されがちで、イアーゴに比べてオセローの心情を語る独白が少ないことも指摘していました。今回は、オセローの嫉妬や殺意も、人種と直接には結びつけられないようにしたそうです。他方、別の動画では、デズデモーナとの結婚が、オセローのヴェニス社会への統合の完成のはずだったのが、むしろ不安定にさせ崩壊につながったともしており、イアーゴとの関係も含め、人種の問題は、社会的地位や軍の暴力性(+脳卒中)などと複雑に絡められているのかもしれません。

 

それもあってか、デズデモーナへの疑いと殺害は原作以上に暴力的でDV的に見えました。カーン版ではイアーゴよりオセローの方が怖い。素敵だったはずのオセローの別の顔が途中から見えてくる演出になっています。陥れられて苦しむオセローに同情したり、あっさり騙されることを情けなく思ったりするより、デズデモーナが感じるだろう“え、まさか”という思いを持ちながら観ることになります。しかもそれが段階的に導入されているのが更にうまいと思いました。

 

デズデモーナも、無垢にオセローを信じているというよりDV状況を否認したいように思えました。デズデモーナの台詞には、オセローに対する不審や反発と、でもすぐそれに目をつぶってしまう様子がちゃんと書かれている(あるいはそう読める)ことに驚きます。

 

この版ではデズデモーナが、始めの方で、妻のエミリアを冗談で貶すイアーゴに怒り、エミリアにイアーゴのそんな言葉を聞かないよう言っています(原作ではデズデモーナも冗談を返したように取れますが、こちらではしっかり怒っています)。身分も高く、賢く、大切にされてきたこともあるのでしょう、このデズデモーナは自分やエミリアが人として尊重されるべきと思っていることが窺えるシーンになっています。そんなデズデモーナが夫から暴力を振るわれ酷い扱いを受けてしまうのです。その後でエミリアに「私たちにだって意地はあります……仕返しぐらいしたくなります」と言われてもデズデモーナは受け入れられず、始めの方の場面でのデズデモーナとエミリアの立場が逆転したようになります。

 

原作の印象では、結婚生活も長くしっかり者のエミリアに対し、新婚で従順すぎるデズデモーナと思っていましたが、オセローと結婚した自分の判断を信じたかったり、問題を見ないようにしたり、自分のせいにしたりとDVの渦中にいる人の思考ですね……。そう思って読むとそんな台詞になっていることがすごいです。始めの方でのイアーゴを怒るシーンは確かに強めに作ってあるかなとは思うものの、彼女は秘密結婚するくらい意志が強いはずなのに、なぜ、今まで貞淑で従順すぎる悲劇のヒロインとして見てしまったんだろうと思います。

 

更に、こちらではイアーゴも密かにデズデモーナを想っていて、その一方で(だからこそ?)、触れてはいけないもののように接し、その感情に踏み込まないように蓋をしているように見えます。これも読み込もうと思えばちゃんと台詞に入っているのですが、全然気づかなかったです。普通の読みなら、エミリアが告発しなければイアーゴの思惑通りの結末だろうと思いますが、カーン版では、仮に企みが露見しなくてもイアーゴ自身が自分のかけた罠にかかってしまったような、当初の意図とは違う力学に巻き込まれ何がしたいのかわからなくなってしまったような不毛さを感じました。ですが、そんなイアーゴに哀れさも感じてしまいます。

 

逆に、オセローに対しては、最後の場面に近づくにつれどんどん気持ちが離れて行き、デズデモーナを殺さなければいけない理由を語る台詞にもぞっとしましたし、殺害の罪を告白して死ぬ場面も身勝手な自己憐憫に見えてしまいます。オセローとイアーゴに対して通常抱く感情とは多分逆だろうという気がします。ですが、クォシーが、戯曲では、オセローの嫉妬や殺害が非合理で、彼の心情がイアーゴより見えないものになっていると指摘していたことからすれば、意図的にそうなっていたんだろうと思いました。戯曲の特徴を使い、かつ人種主義を回避して、オセローでなくイアーゴに共感したくなる作りにしているんじゃないでしょうか。クォシーの解説を聞いて“なるほど、だからか”と頭で納得したのは後からで、観ている時はそのように気持ちが動いてしまうんです。すごいな、こんな風にできちゃうんだと思いました。

 

(※台詞は小田島雄志訳・白水社版から引用しました。)