『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

PARCO劇場、森新太郎演出・吉田羊主演『ジュリアス・シーザー』感想

森新太郎演出、吉田羊主演、2021年上演、CS衛星劇場放送。

 

オール・フィメールの『ジュリアス・シーザー』。昨年にも衛星劇場で放送されていたんですね。観たかった演目だったのに気づかず、今回初視聴でした。でも逆に言えば、今後も放送のチャンスがありそうです。凛々しい雰囲気の吉田羊さんにブルータスは絶対合うだろうと思ったら、確かにとても合っていたし凛々しさもありつつ、むしろ思慮深く柔らかさを感じさせるブルータスでそれがとても印象的でした。他の演者の方も、まず男役というのではなく、男役の回路を通らず直にその役を掘り下げ演じている感じがします。現在はそれも特筆すべきことではないかもしれませんが、もうそういう段階まで来ているんだなと思えたことも含めてよかったです。

 

汚れて錆びた鏡が塀か壁のようにめぐらされた装置で、これは「目がおのれを見うるのは、ただ反射によってだけだ」(「それなら、おれが鏡になろう」)という台詞からでしょうか。おのれを映すもの、同時にそれが曇って不完全であることの象徴のように思えます。

 

舞台はシーザーが皆を引き連れて登場するシーンから始まり、この鈍色の装置にずらっと赤い衣の女性達が並びます。やはり『ジュリアス・シーザー』なので立ち姿からして皆堂々とする感じで、この冒頭シーンはぞくぞくしました(リンクした動画にこの場面があります)。中央のシルビア・グラブさんのシーザーがいかにもカリスマ指導者風で本当に素敵。キャスカの台詞のなかで、シーザーが献げられた王冠を断わると民衆が歓声を上げたとか、彼が昏倒しそれを詫びた時に周りの女性が叫んだとかという状況が語られますが、このシーザーならわかる、私もうっかり歓声上げそうです。今まで観たなかで、それが一番実感できたシーザーでした。

 

↓全キャスト情報が載っています。

enbu.co.jp

 

オール・フィメールである以外はかなり正統派の重厚な演出だと思います。このブログで感想記事を書いた『ジュリアス・シーザー』は、現代化したり二重構造的な意味を持たせたりした演出で、それらが発見的で興奮したので、正直に言えばその点では少し物足りなさも感じましたが、舞台の美しさ、また吉田さんのブルータス像と最後の展開はとても刺さりました。

 

以下記事内で書いた『ジュリアス・シーザー』(フィリダ・ロイド演出)もオール・フィメールで、これは刑務所内で演じられる設定でした。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

柔らかい雰囲気と始めに書いたように、吉田さんのブルータスは、武人というより政治家や政策者的で、おそらくキャシアスに対してだけでなく「優しさ」と「愛」を示し、篤実で皆から信頼されてきた人物に見えました。「市民」としての道理と自律性を貫こうとした人に思えます。『ジュリアス・シーザー』はかなり暴力的な芝居でもあり、その暴力性を描くことや、ブルータスの誤り(あるいは信念の危うさ)や失墜を示すことも重要だと思いつつ、今作ブルータスについては最期までその理念を通した人という描き方のように思いました。ただ、別の視点から見るとそこに疑問が出ることが最後の場面で描写されていたような気もします。これについては記事最後に書きます。

 

松本紀保さんのキャシアスは好戦的で剛腕な雰囲気で、自分より劣るはずのシーザーが一人脚光を浴び、自分が排除されそうになっているのに我慢ならないように思えます。「物事を考えすぎ」「なんでもよく見え」て、シーザーの独裁を憂う同志というより、「自分より強大な人物を見ると、もうそれだけでおもしろくなくなる」の方が強調されたキャシアスの感じがしました(←原作的にもなかなか両立しにくいイメージの気がして、どちらか寄りでよいとは思います)。

 

松井玲奈さんは、シーザー暗殺後は復讐を心に誓う、真面目で暗さのあるアントニーだと思いました(暗殺前も真面目そう)。山っ気や政治的野心はあまり感じず、復讐だけに心が向いているようで、新興勢力としての若さというより一途で視野の狭い若さの印象です。演出的にもおそらくそう作っていたと思います。演説については下で書きます。アントニーはブルータスやキャシアスより若いことからすればこのキャストでしょうし、こういうキャラクターも面白かったですが、松本さんと松井さんが逆のキャストもありじゃないかなと思いました。松井さんは「本を読」んで「物事を考えすぎる」雰囲気がありブルータスを不安に引き摺り込むキャシアスに、松本さんはやり手なアントニーになったんじゃないかなと楽しく想像しました。

 

他では、統治者の雰囲気があるオクテイヴィアスの藤野涼子さんもよくて、ポーシャと2役なのに気づかず観ていました。上記事のロイド演出版のクレア・ダンの2役と同様ですね。ダンはポーシャ役がよかった印象でしたが、藤野さんは個人的には圧倒的にオクテイヴィアス役がよかったです。アントニーの召使役・原口侑季さん、ブルータスの従者、西岡未央さん、清瀬ひかりさん、岡崎さつきさんも、短い登場でも緊張感のあるシーンで主人への思いを感じました。

 

印象的だったシーンを以下ぱらぱら書いていきます。ネタバレ的なので例によってここで宣伝動画と画像を挟みます。

 

え、こんなに見せちゃっていいのかなと思うくらいの……←などと書いてプロモーション動画をリンクしていたら非公開になってしまいました。すみません。もう少し短い紹介動画をリンクし直しました。


www.youtube.com

 

Unsplash Solen Feyissa

 

ポーシャとキャルパーニアとの場面

記事の最初に、まず男役があるのでなくそれぞれの人物になっていた感慨を書き、全体はその通りなのですが、妻との場面は私としては違和感がありました。(ロイド演出版のハリエット・ウォルターのブルータスは、男役が先にあるとはやはり言えないものの、無骨な軍人風ブルータスで漢らしくて全然違和感がなかったんです。)今作はいかにもな男役にしないメリットを大きく感じたのでこれは仕方ないかもしれません。

 

女性同士に見えるせいかとも思ったんですが、仮に男女逆転で男性がポーシャを演じても違和感は出た気がします。

 

とはいえ、シーザー暗殺に向かう時に吉田さんのブルータスは“ポーシャにきちんと話せなかった”と言うように振り返ったり、後の場面でポーシャの死を敢えてあっさり語ったりする際も、彼女に対する愛情は感じました。

 

シーザー暗殺

残酷ではありつつ、ブルータスとシーザーの愛も感じられるシーンに作られていたと思います。今作では、ブルータスは躊躇するかのように剣を持ったまま動けずにいて、深手を負いつつ応戦していたシーザーが、剣を持ったブルータスを見て「お前もか、ブルータス? それなら、死ね、シーザー!」と言って手を広げます。ブルータスはそこに走り込んで、両者が抱き合うような形でとどめを刺し、崩れ落ちるシーザーと共にブルータスも倒れ、その時ブルータスは嗚咽しているようでした。その後の「シーザーを斃す瞬間にもなおシーザーを愛していた」という台詞が真実味をもつ場面になっていました。

 

後からその場に来た松井さんアントニーは敵愾心と警戒心をかなり露わにし、ブルータス達に握手を求める時もこれは表面的な和解だろうと思わせます。召使はアントニーの命を守ろうと必死でしたが(原口さんがよかった)、この場で殺されてもよいと語る台詞が、このアントニーの場合はハッタリではなく本意に聞こえます。

 

一方の吉田さんブルータスがアントニーまで殺そうとしないのは、彼を過小評価しているからでなく不必要な殺害を避けたいからで、アントニーにも誠意を尽くそうとしている風でした。(このブルータスだと、シーザーともちゃんと話せばよかったじゃん、と思っちゃうほどですが。)

 

ブルータスとアントニーの演説

今回は、ブルータスの演説の言葉、シーザーのために皆が奴隷になっていいのかとか、シーザーのことは愛したが彼の野心を断つ必要があったとかの内容が、そのままブルータスの真実の訴えに聞こえました。『ジュリアス・シーザー』の感想の時に毎回書いている気がしますが、私は元々ブルータスの演説の方によい印象を持っていて、この演説いいよなと改めて思いました。いや、ブルータスの暗殺行為はもちろん、それを正当化する演説にも危うさや怖さがあると思いますし、その危険性を見せる演技・演出も好きです。でも、今回の吉田さんは、語り方も市民達をリスペクトし、「公明正大」に判断を仰ごうとしているのが伝わりました。

 

加えて吉田ブルータスだと、アントニーの演説を許したことも、脇が甘くて下手を打ったようにさえあまり思えなかったんです。ブルータス自身が本当はシーザーを弔いたくもあったんじゃないかと。「その同じ刃を」「いついかなるときでも、われとわが胸に突きつけるであろう」と言っていますし、シーザーを殺す形で独裁の芽を摘んだことで、ブルータス自身はその報復を受けていいと思っている気がしました。

 

松井さんアントニーの演説は人々を煽ったり操っていく風ではなく、トーンとしてはむしろブルータスに似て落ち着いた雰囲気で、冷静にブルータスの言辞とシーザーの業績を対比して疑惑を浸透させていくようで新鮮でした。シーザーの遺言状はでっちあげの可能性がある気がしますが、それ以外の業績についてこのアントニーは本気で信じていて、ブルータスによる暗殺だけでなく彼の言葉に怒っている感じがするんですよね。演説は市民の気持ちを覆す手段というより、演説自体ブルータスへの敵討みたいな。

 

戦争というより……

アントニーとオクテイヴィアスが戦闘に備える場面や、ブルータスとキャシアスが軍備を整えたり市街の状況報告を聞く(というかブルータスとキャシアスがそこで揉める)場面は戦争の雰囲気を感じたものの、今作の後半部は戦争というよりアントニーによる復讐や私刑のように見えました。ブルータス&キャシアス vs. アントニー&オクテイヴィアスが宣戦布告的に会見する場面も、キャシアスが戦況を誤解して亡くなる場面も省略されていることもあるでしょうし、何よりアントニーが1人でシーザーの暗殺者達を次々殺す展開になっています。

 

キャシアスは傷を負いながら、仲間たちが殺されたところに来て自害。この場面では、「シーザー、貴様、みごと復讐を遂げたぞ、しかもおのれを斃したその同じ剣で。」の台詞だけになっています。その代わり、そこにブルータスが駆けつけ、キャシアスは彼の腕に抱かれて亡くなるという原作より救いのある展開になっている気がします。

 

ブルータスの死と最終シーン

いよいよ追い詰められたブルータスが従者達から逃げるように言われても、ルーシアス(原作ではストレイトー)に剣を持たせ駆け込んで亡くなるのは原作そのままです。吉田ブルータスは目に涙を湛えつつも、「おれの心は喜びで一杯だ、生きて今日まで、おれはついぞ一人の裏切り者にも出会わなかったのだ」「敗れたおれの栄誉は敵のそれよりはるかに大きい」と言い、ああ、これシーザーと逆なんだなと思わせます。目をかけていたルーシアスに持たせた剣で自分を刺しながら、「シーザー、今こそ心を安んずるがいい。おれは、その胸を刺しはしなかったぞ、今ほど明るい心をもって。」と、おそらく満足して死んでいきます。ここ、今作では、シーザーの暗殺場面と同じ構図になっているんですよね。どちらも吉田さんが客席側を向いて、暗殺場面では刺されるシーザーが、最終場面では刺すルーシアスが後ろを向いています。でもブルータスは裏切られたのでなく、自身の意志で、それを助けてくれる者の手にかけられています。最後の台詞がとても際立ちます。

 

ではあるのですが。

 

今作の高丸えみりさんのルーシアスは幼いんですよ(高丸さん自身が当時小学生とか!)。この少し前にルーシアスに言われる「お前はずっと眠っていたな」の台詞も頑是ない子どもの描写のように聞こえます。ブルータスは死の幇助を“大人の”従者3人に頼んで断られていて、分別のつかないあるいは自分の言うことをきく子どものルーシアスにそれをやらせたようにも見えるのです。これは原作にはないニュアンスです。ブルータスが死んだ後で、ルーシアスが剣を手から離すのに四苦八苦する描写もあります。皆に誠実で正義を貫き、シーザーとは逆に満足して死んだはずのブルータスが、一方で(本人にそんな意識はなくとも)非常に自己中心的だったのではないかとも最後の最後で思わされます。

 

ブルータスの亡骸を前にブルータスを讃えるアントニーの台詞、“ブルータスは正義のために、彼以外は憎しみでシーザーを暗殺した”については、松井さんは、依然として暗殺者達への憎しみを引きずりつつブルータスについてはそう語ることで自分自身を納得させたいように思えました。ですが、最後の台詞を引き取るオクテイヴィアスは既に君臨する統治者然として、舞台上側でアントニーと死んだブルータスを見おろします。アントニーが私怨の復讐に駆られている間に、それを利用して政治的基盤を確立してしまった風です。しかもオクテイヴィアスの衣装はシーザーのものと同じです。最初の方でブルータスは「立って罪をならすべきはシーザーの精神だ」「出来ることなら、シーザーの精神だけを捉えて、その肉を傷つけずにすませたいのだ!」、でもそうできないからシーザーを殺すと語りました。その台詞がここで裏切られることになります、ブルータスは知る由もないですが。シーザーを犠牲にしたのに、まさにその精神が生き残り、達成されたのは逆のことなのです。むしろブルータスがシーザーを倒し自分も殺したことで、その基盤を強化してしまったかもしれません。

 

一方でブルータスの人物とその生涯を筋の通った美しいものとして描きつつ、それが別の面からは別様に見えるという(何枚もある曇った鏡)皮肉で残酷なラストシーンに思えました。

 

(※「」内の台詞は、福田恆存訳・新潮文庫版『ジュリアス・シーザー』から引用しました。)