『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

7巻26話赤薔薇と白薔薇について

(薔薇王の葬列アニメ11話対応)

 

26話の表紙は見開きで赤い薔薇に埋まったリチャード。7巻の表紙は白地でマーガレット。両家の象徴となる薔薇の色が逆になっています。26話は2人ともが佳境です。ただ、7巻はもう、この2人にあまりに辛い展開ですね。

 

広告

光の喪失について

冒頭は血に塗れたリチャードとヘンリーに、回想のカットバックです。〈あともう少し…、もう少しなんだ―〉と光を求めるリチャードが描かれ、それが1巻で暗い抜け穴を出てヘンリーと初めて出会ったシーンと重ねられます。暗闇を抜けた先にいたはずの人がヘンリーだったのに、という皮肉で残酷な場面ですが、この美しい構成に、初めからこれを想定して1巻での出会い方にしていたのかと思うと鳥肌です。

 

2人は初めて自分の身分を明かして名乗りあい、その最中にヘンリーは捕らえられます。

 

この後のシーンも、リチャードにとっての光の喪失が示されます。

 

リチャードは茫然自失のまま、勝利を宣言するエドワード王の横に立ちますが、ここでも太陽が輝いています。このエドワードの台詞は、『ヘンリー6世』(第3部)(以下、HⅥ(3))5幕3場でのエドワードの台詞と『リチャード3世』(以下、RⅢ)冒頭のリチャードの台詞を合わせたものだろうと思います。確かに元々エドワードの台詞とリチャードの台詞は似ているんですが、敢えてヨークの太陽を強調し、『薔薇』のリチャードはここで太陽を語れずエドワードが太陽も輝きも語っています。(有名な方の台詞を混ぜたということかもしれませんが、牽強附会がこのブログの通常モードなので。)

 

画面上では、ヨーク公が王になることに光を見いだして太陽をきらきらした目で見上げる子どもの頃のリチャードが挟まれ、もはやリチャードには価値を見いだせないヨークの勝利が太陽や光と重ねられて示される展開です。

 

見よ!頭上に輝くヨークの太陽(しるし)を!憂慮の霧は晴れ…我々は勝利の花輪でこの身を飾る権利を得た!この輝きを遮らんとまたすぐに暗雲が立ち籠めるだろう、だがそれを嵐とするのも吹き飛ばすのも我らの勇気次第だ!『薔薇』

 

エドワード 勝利の栄冠はいま華やかにわれわれを飾っている。だが、このうららかに晴れ渡った真昼の最中に、風雨をはらんだあやしげな黒雲が立ち現われ、われわれの輝かしい太陽が安らかな西の臥所に入りこむ前に、押し包もうとするかに見える。(HⅥ)

 

リチャード 今や、我らが不満の冬も、このヨークの太陽輝く栄光の夏となった。わが一族の上に垂れ込めていた雲はすべて、水平線の彼方深く葬り去られた。今や、我らが額には勝利の花輪が飾られ……『リチャード3世』

 

ついでながら、HⅥのこの場面での、マーガレット軍の戦力を予測し今後の方針を進言するリチャードの台詞は、(『薔薇』のリチャードはそれどころではないので)、26話の最後あたりでの、ヘイスティングスとバッキンガムの台詞にされています。

 

ケイツビーとバッキンガムについて

城に引き上げてからは、リチャードは食事も取らずワインだけを所望し、部屋に閉じ籠もったまま。リチャードが「背信」と言っているのは、これまでのことだけでなく、事実を知ってもヘンリーへの想いを断ち切れないためでもありそうです。その想いに引き裂かれるかのように、激情に任せてとはいえリチャードは命を絶とうとまでします。

 

この時のケイツビーとバッキンガムのリチャードへの対応も、いかにもこの2人らしいというか。

 

リチャードを気遣いながらもなすすべがなく、当たられても黙って受け止めるケイツビー。

 

死のうとしたリチャードに「俺が殺してやる」とまで言い、「――だが、あんたが死ねば、ヨークは負けるぞ」となすべきことを示して、生に引き戻すバッキンガム。年下なのに大人の対応です。ヘンリーの愛のルートが断たれて、王冠ルートのバッキンガムがここで介入という感じもします。この段階では、バッキンガムはやはり王冠ルートを象徴する気がするんです。(初めて読んだときには、ヘンリーとの関係だけに気持ちが持っていかれ、それどころの話ではなかったのが正直なところですが……。)

 

リチャードには、そのように諭すバッキンガムが途中からヨーク公に見えています。バッキンガムは生きる道を示しているはずですが、ヨーク公が「殺し続けろ、リチャード」と言ったように見えたリチャードは、それを自分への「罰」として受け止めます。

 

そして、多分リチャード自身にはそのつもりはないまま、王冠ルートに戻されヨーク公が乗り移ったかのように、最終場面ではリチャードが幽鬼のような表情で白薔薇をつかみ戦場に戻るのです。

 

f:id:naruyama:20210417001729j:plain

 

沈みゆくオフィーリアについて

最初に書いたように、26話の表紙は赤い薔薇に埋もれたリチャードなのですが、これはミレーの『オフィーリア』を意識して描かれたものとのことです。なんとバルセロナイベントの貴重なレポートをして下さった、こちらのブログ記事で紹介されていました。

 

www.anastasia1997.tokyo

 

25話でも、それ以前でもリチャードはハムレット的でもありましたが(上で書いたヨーク公の幻との関係もハムレット的な感じもします)、ここではオフィーリアが狂気に陥って亡くなる場面の絵が参照されていることになります。オフィーリアは、愛していたハムレットが父親ポローニアスを殺してから、正気を失い溺れて亡くなります。「あいつは…俺に向けたあの笑顔で……、俺を抱きしめたあの腕で…、ヨークを殺せと…っ!命じていたんだ…!」オフィーリアにこういう台詞がある訳ではありませんが、リチャードと彼女の境遇が重なる気がします。

 

本当の意味で正気でなくなるのはヘンリーの方であるものの、リチャードも尋常ではなく、命を断とうともしています。また、こじつけすぎとは思いますが、ベッドで慰めるために来た女性を、夢うつつでヘンリーと間違えており、狂気の場面で、オフィーリアはハムレットとの肉体関係を仄めかすような台詞や、セクシュアルな喩えを語ったりしています。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

花と水の代わりに赤い薔薇であるのは、冒頭でリチャードとヘンリーが血に塗れている象徴のようでもあり(2巻の殺戮場面でも血の代わりに薔薇が降る絵になっていました)、ランカスターの赤い薔薇に溺れている感もありますね。

 

更に幻影のヨーク公に「殺し続けろ」と言われた後には、リチャードがまさに血だまりに飲み込まれるように、また死者達の手がリチャードを引きずり込むようにも描かれています。表紙だけではなく、その後の展開のさせ方もすごいです。

 

マーガレットの行軍について

HⅥでは、エドワード王がバーネットの戦いでの勝利を宣言した次の場面で、マーガレットの兵達への演説が来る形になっています。

 

『薔薇』ではその前に、マーガレットとアンの間で、マーガレットが宮廷でどう生きてきたかや、この後、勝てる確証がない戦になるという話が交わされます。そしてマーガレットは王子エドワードの命をアンに託すと言います。

 

マーガレットとアンのやりとりは、12巻以降のアンの行動の指針ともなっていく『薔薇』オリジナルの名シーンですよね。マーガレットはRⅢで、ヨーク家の人々に王国と忠誠を返せと言いますが、『薔薇』のマーガレットは、「男の肋骨から造られた女」が子を産むことができるのは「男から、自分の運命を取り戻す為」だと言うのです。マーガレットが誇るべきものの転換と自律ぶりが素晴らしいです。

 

そして、マーガレットの女性としての強さや誇りと共に、厳しい戦況についての彼女の読みが、HⅥでの兵士達を鼓舞する演説シーンの前に描かれる訳です。HⅥの裏側の話としてこの場面が描かれると、厳しい戦況を知った上で兵に語りかけるヘンリー5世のアジンコートの演説が喚起されたりして、為政者・戦略家としてのマーガレットが強調されるように思います。

 

また、ここでのマーガレットの台詞、王子エドワードが生きていれば「ランカスターは、灰の中からも蘇ることができる」は、ヨーク公がマーガレットに殺されたときに語った台詞の転用ではないでしょうか。同じ台詞を、皮肉な形でか、あるいはヨークもランカスターも同様の思いがあることを示すものとしてか、使用したのかなと想像します。

 

26話の最後の場面は、「勝利か、名誉の死かだ!」というエドワード王の台詞です。こちらは1巻でのヨーク公の台詞でしたが、HⅥの「王冠か、さもなければ名誉の戦死だ!」は、上の「灰のなかから不死鳥のように」というヨーク公の台詞と同じ場面にあります。その台詞が、マーガレットの台詞と対になるようにヨークとランカスターとの最終戦に挑むエドワード王の台詞としてここで繰り返されます。

 

27話の冒頭でも、「この赤薔薇はランカスターの、この白薔薇はヨークの、――互いが敵である徽章(しるし)としよう」という1巻1話の台詞が繰り返されますが、エドワードの声に重なるように、26話最後のコマがヨーク公と同様に白薔薇を持つリチャードです。オフィーリア的な赤薔薇のリチャードから始まって、ヨーク公と重なる白薔薇のリチャードで終わるという展開にもなっています。

 

(※HⅥ は小田島雄志訳・白水社版から、RⅢは河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しています。)
  
広告