『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター『夏の夜の夢』感想

シェイクスピアズ・グローブのDromgoole演出『夏の夜の夢』が本当によかったので、果たして……と思っていましたが、こちらも全然違うのにすごく素敵で、また感想を書くことにしてしまいました。直近で見比べることができたので、それぞれの特徴がわかりやすくなった気がします。アテネの若者達などは、一方だけ観ていたらどう工夫されているかがわからなかったかも、と思いました。グローブ版(以下、G版と略記)の妖精達は、森に生息する地の者の感があり、アマゾン族とアテネとの戦闘への関りも示唆され、自然や理を支配している風情がありました。対して、ニコラス・ハイトナー演出のナショナル・シアター+ブリッジ・シアター版(以下、NT版)の妖精達は、ファンタジックに宙に浮かび、パックの台詞にある「夢にすぎないもの」(No more yielding but a dream)の雰囲気で、夢が強調される印象です。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

愛の多様性を示唆する演出が施され、レインボーカラーも象徴的に登場した作品だったので、夏至だけでなくプライド月間も意識した配信だったのでしょうか。

 

現在は、NTatHomeで配信中(日本語字幕はありませんが英語字幕を出せます)。

National Theatre at Home

 

(以下、かなり詳細なところまでネタバレしています。)

 

 


National Theatre Live: A Midsummer Night's Dream | Official Trailer

 

こちらもシーシュースとヒポリタの関係が悪い始まりなのはG版と同様です。というか、冒頭でかなり横暴に見えたG版のシーシュースも全然ましに思えるほど、こちらのシーシュースは口調は静かですが更に権威的で非常に冷たいです。G版では、一方通行的で力づくとはいえシーシュースにはそれなりに愛がありそうに思えましたが、NT版はそれすらない感じでした。(発音的にはシシュース、ティターニアに近いように思いましたが、引き続き小田島版翻訳使用で役名記載はそれに準拠します。)G版の記事でも言及しましたが、『夏の夜の夢』がもつ父権制や女性の抑圧という読み、かつ、逆に父権的な勝利に回収されない読みがNT版では更に意識された演出になっています*1。その辺はシーシュース/オーベロンを演じたオリヴァー・クリスが下のインタビュー記事で語っていました。記事によると、1幕での「アテネ」は『ハンズメイズ・テイル/侍女の物語』を模したカルト的で抑圧的な社会で、シーシュースがその専制的統治者として演出されているとのことです。

 

せっかくのファンタジックな舞台の感想がこんな固苦しい書き方になっていますが、あの、舞台も最初は嫌な感じで始まるんですよ(弁解)。色彩もモノトーンで暗い雰囲気。これがその後の森のシーンで、美しさも含めて真逆になるところが素敵な仕掛けです。

 

www.theguardian.com

 

ヒポリタはガラスの囲いに入れられており、ハーミア達が愛する人と結婚したいとシーシュースに訴える箇所で、ヒポリタが手をかざすと金属音のような音が鳴ります。ヒポリタが何か力を持っていてそれが封じられているようにも見え、そんな形でアマゾン族の征服が演出されているのかもしれないと思いました。やり方は違いますが、ハーミアをヒポリタがこっそり応援するように見えるのはG版NT版に共通ですね。

 

ハーミア達アテネの若者の造形はかなり違いました。ハーミアの訴えも含め、NT版の方は抑圧された中で必死に恋愛をしている感じで不穏さがあります。G版のロマンティックで甘々なライサンダーとは異なり、NT版ライサンダーは大人に反抗的な若者、一寸ワルな印象もありました。ヘレナも最初からかなりハーミアに反感を持っていて突っかかり、ライサンダーが割って入って、もうアテネからいなくなるからと言ってその場を引き上げます。ヘレナは変な方にドライブがかかってしまっている感もあり、割とよく観るディミートリアスが冷たくするので(あるいは冷たくしても)必死になるヘレナというより、ヘレナが一寸おかしい愛情を向けるので引いてしまったディミートリアスという雰囲気で、因果関係が逆転して見えました。

 

4人が森に入ってからは、パックの魔法による求愛や喧嘩という通常に近い感じになりますが、4人とも眠っているベッドから抜け出して森に行き、森の中もベッドで表現されているので、これも夢感があります。

 

そして更に夢感があるのがオーベロンとタイテーニアです。別々のベッドに座るヒポリタと眠るシーシュースの上に浮かぶパックと妖精とが会話をし始め、“タイテーニアとオーベロンがやって来る”と言うと、そこでヒポリタ達を覆っていたシーツが取れ、鮮やかな緑の衣装のタイテーニアとオーベロンになります。タイテーニアとオーベロンであることが2人の夢の中のようにも、ヒポリタによる魔法のようにも見えます。オーベロンが、夢の中でのシーシュースであり、「学習アバター」にもなっているということは上の記事やこちらでも言われていました。

 

www.standard.co.uk

 

そして、この版ではオーベロンとタイテーニアの立場と台詞が逆になっています。この入れ替えは面白くて発見的で、でもオーベロンが驢馬のボトムを好きになることも含めて全く違和感なく楽しめました。こうなると、ライサンダー、ディミートリアスに加えてオーベロン(=シーシュース)という、男性達が魔法をかけられることになります。しかも、タイテーニアがヘレナに同情してディミートリアスに魔法をかけようとする流れも原作以上に自然です。

 

他方、違和感はないものの、取り換え子をめぐる喧嘩については受ける印象は全く違いました。“その子の母親と仲が良かった”から盗んできた取り替え子って、父親はオーベロンではないのかと勘ぐりたくなりますし、オーベロンが「あの子を育てるのもその母親のため、あの子を手放さないのもその母親のため」と言うとかなり意味が違って聞こえます。タイテーニアはその母親とのことも含めて怒っているように見えました。で、ここもオーベロン=シーシュースとして深読みするとですよ、シーシュースが捨ててしまったアリアドネとか、逆に、義理の母に求愛されるシーシュースの息子ヒポリタス(『フェードル』)とかのなんだか不吉な関連も喚起されてしまいます。G版もNT版もこの子は実際には登場しませんでしたが、深く触れない処理なのか、なんとなく微妙な感じを抱かせたままにするということなのか……。

 

上の記事では、むしろ原作のオーベロンだと、妻に薬を盛って驢馬とセックスさせ、妻から盗んだ少年を自分の元に置くことを許してもらう男の話になるとクリスは語っています(多分クリスがあえて露骨な表現で回答していると思うので、そのまま書いています)。そのミソジニー的な話が、オーベロンとタイテーニアを入れ替えることで、支配者シーシュース=オーベロンが、常なら嫌悪するような相手と恋に落ち心を開かされる話になるのだ、ということです。G版のオーベロンはパックを愛でていましたし、そもそも原作でも彼が取り替え子に執心したりしますが、原作的にも同性同士はありということではなくて、むしろ支配的で女性を下に見ていたオーベロン(かつ保守的で自由な恋愛を禁じていたシーシュース)が小姓との関係とは異なる意味で同性と愛し合ったことも肝なようです。

 

こちらのボトムは、やや若めでお茶目な愛され系。最初にオーベロンに言い寄られた時には引いていますが、すぐに楽しげでゴージャスな愛の生活に。2人の場面の作り方もオーベロンの誘い方も、明るくて面白くてかなりセクシーです。NT版はオーベロンの魔法が解けてボトムを見る前に、確かボトムが驢馬から人間に戻されていたと思います。つまり、オーベロンが驚く理由が、自分が愛した相手が驢馬であったこと以上にボトムであったことだろうと思います。そして、“なんだこれは!”と驚いた後、オーベロンは出し抜かれたことに笑い、タイテーニアの愛しさを思い出したように手を取ります。なんとなくですが、ボトムに対する気持ちは消えても、ボトムとの関係の中で恋愛の楽しさを思い出したみたいな感じがしました。(G版のタイテーニアはここで“この理由を聞かせてもらいます”とかなり怒っていて、これも納得でしたが。)

 

NT版はオーベロンとボトムだけではなく、ライサンダーとディミートリアスも、ハーミアとヘレナも、喧嘩の途中にパックが介入して花の魔法で一瞬恋に落ちてキスしたりします。パックは腕にレインボーカラーのタトゥーのようなものがあり、4人が眠った後には、別の妖精が舞台全体を覆う布をシーツのように広げてそこにレインボーカラーが映され、メッセージ性を感じます。パックも含め妖精達もクィア感がありますし、元サヤだけでなく、間違いも含めた様々な恋愛を祝福するかのようでした。

 

シーシュースが森でハーミア達に遭遇するシーンでは、親が認めていなくても結婚前でも“もう既成事実があります”みたいに4人が下着姿で眠っていて、それを見たシーシュースは(台詞はかなり呑気なものですが)最初はかなり怒っていました。ディミートリアスがハーミアでなくヘレナと結婚したいと言ったから了承ということではなく、そこで怒っているシーシュースの上の宙をボトムを乗せたベッドが通っていき、シーシュースが“あれ?”と何かを思い出したように態度を緩和して結婚を認めるのです。この流れは本当に面白い!そして、シーシュースの「行くぞ、ヒポリタ」に、ヒポリタはにっこり笑って手を取ります。ヒポリタ、勝ったな、と思いました。G版はシーシュースとヒポリタが和解する印象でしたが、NT版はヒポリタの勝利という感じがします。

 

NT版はこのシーンも含め、ヒポリタ=タイテーニアが魔法を操っている感じがしました。夢への移行にしても、ヒポリタは覚醒したままタイテーニアになり、シーシュースは眠った状態からオーベロンになります。ヒポリタはその重なりをわかって/または操っているようですが、シーシュースは無意識のうちに記事で言われていたように夢を通じて変わります。最初の登場シーンでも、ヒポリタが捕えられながらも魔法をかけたようにも見えました。妖精がマクベスの魔女に近いと書いていたのはシェイクスピアズ・グローブのパンフレットでしたが、こちらのヒポリタ=タイテーニアの方がマクベスの魔女に近い感じがします。もちろん、こちらはハッピーな魔法ながら、シーシュースに働きかけて国自体を変えてしまう、という。(魔女系では、タイテーニアとパックとの関係もあって、『テンペスト』のシコラクスも彷彿とさせられました。年はすごく近いですが、こちらのタイテーニアとパックは、擬似親子的にも、愛人的にも見えました。)ポスターがそんな構図っぽく見えませんか?そしてこのポスター、シーシュースがヒポリタに捕えられているようにも見えて、冒頭の場面とちょうど逆の雰囲気の気もします。

 

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そして、夢で性的な欲望が交錯し、無意識が現実に作用する点はやはり一寸フロイトっぽい感じもしますね。これも多様で自由な欲望に価値が置かれる点で逆転と言えるかもしれませんが。

 

で、職人達のお芝居ですよ!これは、もう、どの版もいいですよね。こちらは半分が女性でした。ピーター・クィンスが職場の責任者という感じの年配の女性で、キャラ的には比較的従来のイメージ通りのクィンスでした。ライオン役は職人達の中で一番たくましい女性。素人オーディション番組みたいなノリで、リストから演目を選びます。他はもう少し洗練されていたのにシーシュースが一番ダメなものを選んじゃった展開です。ヒポリタがそれは観たくないと言うんですが、ここはヒポリタがそんな意見を言えたり、若者達もシーシュースの選んだ芝居に文句をつけられる関係性になっていることが重要。そうか、こんな風に台詞を使えるのかと思いました。シーシュースは自分が選んだ手前なのか、彼には本当に面白かったのか、一生懸命褒めたり、解説したり。

 

選んだリストの中では一番ダメそうではあっても、本当に酷かったG版(笑)とは違って、こちらは Rude Mechanicals(「礼儀知らずの職人連中」)と書かれた(!)揃いのウェアも着て“職人達が練習して頑張りました!”な仕上がりでした。最後はダンスで終了で、ここでボトムとシーシュースがまた見つめ合ってしまったりしたところに、ヒポリタが入って(原作ではシーシュースの台詞の)祝賀の締めの口上を語ります。ここも上で書いたヒポリタの魔法と力を感じる箇所です。最後の最後はパックの締めですが、皆ビヨンセの曲で踊り続け、劇場全体がクラブのようになってしまう幸福感に満ちた終幕でした。

 

(『夏の夜の夢』の翻訳は小田島雄志訳・白水社版から引用しています。)

 

*1:

そんな読みを解説した恩田公夫「『夏の世の夢』論 : テセウスの二面性をめぐって」論文のリンクは以下です。G版の感想記事でリンクした『薔薇王』感想の方では、リンクが切れてしまっていてごめんなさい。そちらも貼り直しておきました。

https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=27087&item_no=1&page_id=13&block_id=21