蜷川幸雄演出、北村一輝他、2007年上演、2023年衛星劇場放送 / ケネス・ブラナー監督、2000年、WOWOW放送
蜷川演出版の彩の国はもう15年くらい前になるんですね。9月にも放送予定です。
こちらに主要8人のキャストとオール・メールの解説などがあります。
https://www.saf.or.jp/press/2007/pdf/vol07/satp07_08-09.pdf
ナヴァール国の国王ファーディナンド(北村)は、親友にして臣下の3人とともにある誓いを立てる。それは、学業専念のために女性と接しないといった厳しいもの。だが、外交問題解決のためにフランスの王女(姜暢雄)とその侍女3人の訪問を受けたファーディナンドらは、彼女たちにひと目ぼれしてしまう。(衛星劇場サイトより)
……というあらすじです。
たまたま最近放送されていたケネス・ブラナー監督版のものと対照的な作りに思えて、ブラナー版との比較を入れながら書きます。ブラナー版も20年以上前の作品になるのかと改めて思いました。こちらもWOWOWで今月8月に何回か放送予定でオンデマンドの方にも入っています。2つの感想が混ざって読みにくかったらすみません。
蜷川版は原作に信頼を置いた版、ブラナー版は原作を信頼していない(つまらなさを前提にした)版という気がしたのです。蜷川と言えば意表を突いた演出、ブラナーと言えば本場のシェイクスピア俳優のイメージで、逆じゃないの?と言われそうです。しかも北村一輝さんのインタビューでは、蜷川さんはじめ皆さんが原作を「つまらない」と言っていたそうですが、それでも作りとしては戯曲に実直な気がするのです。
(↑今日的には一寸どうだろう的な発言もありますが、そこは15年の歳月を感じます。)
ブラナー監督の映画はミュージカル
同じブラナーでも『ハムレット』についてはむしろほとんど原作を削らずどの場面も全力投球的な作りだと思います。ですが『恋の骨折り損』では、ブラナーのサービス精神が、“戯曲自体はあまり面白くないよねー、でもエンタメにするから安心して!”という方向に発揮されているように思えました。無理のある展開やイマイチな筋でもおしゃれなミュージカルになっていれば肩の力を抜いて楽しめる、その空気を作ってくれている気がします。
曲もスタンダード・ナンバーの転用なので聴きやすく、教師ホロファニーズが女性設定で牧師と教師のシーンも少しラブコメ的で観やすくなっています。原作を“削った”というより有名場面をピックアップしてナレーションでつないだと言う方がよい感じで、その場面内の台詞も結構刈り込んでいます。でも他版を観た後も、結局記憶に残っているのはその有名場面だったりするんですよね。その見所を楽しく見せてくれます。これで歌って踊れるミュージカル俳優を揃えたらもっとよかっただろうと思います……昔観た時には気にならなかったんですが……。エイドリアン・レスターのダンスは素敵でした。
一方で、蜷川版を観た後で考えると、戯曲自体の終幕の余韻は少し犠牲になっているかもしれないと思いました。映画は、原作戯曲の後にオリジナル展開が加えられています。それで話が変わるような追加ではないし含蓄もある気がしますが、そのラスト展開に向けた作りになり、また戯曲の台詞の終了後にも戯曲とは違う歌が入ります。以前、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(以下、RSC)等の同作の配信を観た感想記事で「ブラナー監督の映画しか観たことがなくて、戯曲通りの上演ならまさに『骨折り損』な宙吊りというか中途半端な結末になるのではないかと思っていましたが」「そのままでちゃんと、しかも想像以上にいい形に終わる」という感想を書きました。戯曲最終部が完結的でない印象は、むしろ彼の映画の作りによるのかもと思いました。
ですが、追加部分って、ひょっとしたら戯曲のモデルという話もあるアンリ4世とマルグリット・ド・ヴァロワの結婚時のサン・バルテルミの虐殺を第二次世界大戦に置き換えて、かつ戯曲のハッピー・エンド・テイストを狙ったものかなとも思えてきたんです。確かにエンタメなんですが、敢えての戦争描写を考えるともしかしたらって。上の記事では、怖い背景は感じさせないと書いたんですが、RSCのは第一次世界大戦前で、セットで上演された『から騒ぎ』が大戦後になっていたりします(これはもう本当にたまたまかもしれませんけれど)。
意外に(?)正統派な蜷川演出版
一方、蜷川演出『恋の骨折り損』はいくつかの工夫以外は、正攻法で古典的な作り。ブラナー版が歌もいっぱい入って約1時間半なのに対し、蜷川版はかなり元戯曲通りで3時間超え。ですが、この戯曲に終幕の味わい深さと余韻があることを、ストレートに演ることで見事に示した感じです。「骨折り損」と言いながら意外に終幕がよいのはここ数年で観た他版でも感じたことでしたが、日本語だったためもあるのか、最後の展開が一番胸に沁みたのはこの蜷川版だったかもしれません。
実を言えば、前半あたりは一番つまらなく感じて舐めていたんですよね。言葉遊びの多い元台詞を松岡和子先生が苦労して翻訳したとはいえ、そのまま長々上演されるとつらい……とまで思いました。ラップにする工夫もあまりよいとは思えませんでした。理由はくどくなるので注にします*1。それが中盤から徐々に気持ちが乗って、終幕では“そうかここが肝か”と思いました。これも勝手な思い込みかもしれません。でも、蜷川版は最後の春と冬の歌の場面も(歌わず朗読のようになっています)、アーマードの台詞も含めてここをメインに感動的に作っていたように思います。春のカッコウの歌は心変わりを示唆する揶揄とも言え、感動とは逆の皮肉な解釈もありうるでしょうが、皆が相手に対する想いを語った場面の雰囲気を壊さず更に盛り上げる形にしています。
王とビローン
ナヴァール王ファーディナンドと3人の側近、フランス王女と3人の侍女の4人組の恋物語なので、8人ともが注目されるとはいえ、ナヴァール王役の北村一輝さんが一番最初にクレジットされ、衛星劇場の紹介文でも北村さんが主演と書いてあります。Blu-rayジャケット写真も北村さんとフランス王女の姜暢雄さん。一方、戯曲上で一番いい台詞があり台詞量も多いのは王の側近ビローンで、ブラナー監督版ではブラナー自身がビローンを演じています。蜷川版ビローンは高橋洋さん。デュメインが窪塚俊介さん、ロンガヴィルが須賀貴匡さん。ビローンは口が上手くて軽いキャラでもあるんですが、高橋さんのビローンはそれなりに真面目で誠実な印象です。北村さんの華やかさと高橋さんの堅実な雰囲気が主従感を醸してよい配役(またはよいキャラクター作り)に思えました。ブラナーのビローンが臣下でもリーダー的に見えるのに対し(王役のアレッサンドロ・ニヴォラよりビローンの方が年上でものをわかっている風だし)、高橋さんビローンは歯に絹着せぬ皮肉屋でもフォロワー的で、王を立てている感じがします。
北村さんの王と高橋さんのビローンのこの関係性がとてもよく生かされたと思うのがやはり終幕です。フランス王女に王が求愛すると、彼女は“そんなつもりじゃなかった、答えられない”みたいなことを言い、また彼女は父の訃報を聞いたばかりなので王も遠慮があって言葉を続けられずにいると、ビローンが「私の申し上げることで王の気持ちをお察し下さい」と王を援護する弁を述べます。ビローンの語りが王と王女を慮っていることがよくわかり、王の気持ちの誠実さも、彼らの信頼も人柄も滲み出る感じがしました。
また、考えてみると確かにビローンは色々言っていても、イニシアチブを取ったり決定をしていくのは王とも言え、その辺が見えてくるというかそこに気づかせてもらうことができました。この辺の関係性について、RSCやシェイクスピアズ・グローブがどうだったかはあまり思い出せないのですが、感想は書いていないストラトフォード・フェスティバルのジョン・ケアード演出版では、王が割合目立っていたというかイニシアチブを取るキャラの感じだった記憶があります。
相手の女性役側の方は王女が中心的に思えるので、その点でも王が目立つのはいいですね。
フランス王女と侍女達
女性側は王女とビローンの恋の相手ロザラインが目立つ感じはします。蜷川版はオール・メールで、王女が姜暢雄さん、ロザラインが内田滋さん、マライアが月川悠貴さん、キャサリンが中村倫也さん(当時は友也表記)。姜さんの王女は美しく結構高飛車です。狩の場面で「きれい」と言われた訳でもないのに“きれいだと褒めてもだめよ”と自分で言い出す王女のキャラに嵌ります。王達に対する対応も、姜さんだとユーモアがあるという以上に強気な雰囲気。物語からすれば王女はこのくらい勝気でいいですよね。内田さんのロザラインは、ガングロ風メイクに“アーッハッハ”と何かと大声で笑うキャラでこれは驚きました。姜さんは8人の中で一番背が高く、おそらく台詞にある「高い」=王女とうまく掛かる形になり、ロザラインも台詞の「黒い」を体現しています。15年前当時ならガングロ風にしたのはよい落とし所な気がしました。古典的衣装と文脈は合いませんが、一般受けする美しさとは違う系統にとがったファッションと言え、それをよしとするかどうかで男性陣が言い合うのは面白い気がします。彼女の衣装はもっと派手でよかったかも。
侍女達と従者ボイエットの軽口は、結構セクシュアルな比喩が入っているようで、それをわかりやすく見せてくれながら全く嫌な感じにも下品にもならなかったのは演者の巧みさとオールメールのよさが出たところかもしれません。ロザラインもそちらの点では上品。ボイエットもそんな内容の語りもあくまで上品だし姫様達大事の雰囲気でいいなーと思ったら、青井陽治さんでした。ブラナー版のリチャード・クリフォードもよかったです。対等に冗談を言っていても、道化的でなく執事的なのも好きです。
王が恋に落ちる場面で“チーン”と音が鳴って股間を押さえる演出とか、ジャケネッタが何かとスカートをたくし上げ脚を見せてしまう演出には下品さや古さを感じてしまいましたが(しかもメイン8人の演者を観たい女性客が多かったでしょうからその点でもマイナス効果の気がします)、侍女達とボイエットの会話の扱いはよかったと思いました。
「黒い」ロザライン
日本語が耳に入ったためか、内田さんがガングロ風だったためか、褒める文脈でも落とす文脈でもロザラインが「黒い」としつこく言われていることが頭に残り、少し調べる程度には台詞の含意を考えさせられました。ロザラインと『ソネット集』のダークレディの描写を比較した論考なんかもありました。ロザラインもダークレディも「黒い」「暗い」ことは男性への奔放さや愛欲の象徴、きれいごとや美しさとは異なる欲望や愛の示唆とする捉え方もあるようです。『恋の骨折り損』では、学業専念の崇高な誓い・修辞に満ちた恋文や詩が、現実の欲望・愛に移行する/負ける、という物語の展開と関連するのかもしれません。内田さんのロザラインは、他版以上に美しいヒロインから外れる作りになっており、こうした戯曲の構成に想像が広がります(考えすぎかもしれませんが)。
一方、ロザラインもダークレディも肌の色の黒さへの言及があったり、ロザラインは「エチオピア人」のようだと揶揄われたり、ダークレディの髪の描写(black wire)も人種的特徴を示しているようだったりすると、先日観た『オセロー』との関係などが気になります。
ブラナー版では、人種のバランスはとったキャストでもこの台詞自体は削っていて、ロザラインは白人キャスト。キャストと人種の関係には敢えて注目させない作りといえます。こういう方向性の作劇も多いですよね、決して悪い意味ではなく。シェイクスピアズ・グローブも4人の女性のうち1人が黒人キャストでしたが、ロザラインではなかったと思います(台詞をどうしていたかは覚えていません)。
人種との絡め方はストラトフォード・フェスティバルのケアード演出が秀逸だったのだなと思いました。女性はジャケネッタも含めて、王女以外は全て黒人キャスト。男性では、デュメインだけを黒人キャストにしていて、ロザラインの黒さを貶して王女を褒める王をデュメインが“ああん?”みたいな目で見るという、メタ的作りでした。
真面目な改心/回心
王達4人が誓いに反して皆恋に落ちたことが発覚すると、彼らは誓いを破る正当化の弁明をビローンに頼みます。ここは多分、この劇とビローンの見せ場で、よい台詞があって、ブラナー映画版ではこの箇所の台詞が最後にも出てくるくらいです。でも原作的には、ここではビローンは軽口的だったり詭弁的なノリな気がするんです。瓢箪から駒というか、嘘から出た誠というか、そこに真実や美しさが紛れ込んでしまった感じじゃないかと思います。ブラナーのビローンはそんな風に見えます。
高橋さんビローンは、恋の正当化を、人生の真理を悟ったかのようにしっとり語ります。ブラナー版が最後場面の台詞のリフレインで詩的余情を出していたとすれば、蜷川版・髙橋ビローンはこの場面で既に詩的です。美しいBGMも情感を盛り上げるかのようで、王も他の2人も心を打たれたように聞いています。誓い破り=変心がやや真面目で真摯なものに見えます。この場面を観た時にはロマンティックにしすぎな気もしたんですが、それが終幕での王女達へのプロポーズを真剣なものに見せる効果があるのだと思いました。このビローンの弁明からプロポーズまでの間に、彼らは再度バカなことをやりますけれども。
また、蜷川版は、終幕で王女の父・フランス国王の訃報が届けられる箇所をやや暗めに、そこで空気が一変するように作っています。それで帰国するという王女に王が求愛しますが、王に対する彼女の態度も厳しめに見えました。恋のための誓い破りが他版より誠実に見え、それぞれのカップルがかなりよい雰囲気であっても、誓い破りをした王を信用しないという王女の台詞が重さをもっているような気がしたんです。1年間の試練を課す王女とそれに応える王がやはり結構真面目に思えます。
『恋の骨折り損』でのナヴァール王の誓いと変心は、上でも少し触れたアンリ4世が何度も改宗したことが風刺されているという話もあります(『恋の骨折り損』ちくま文庫版、白水社版のあとがき解説)。そんな話を踏まえてかはわかりませんし、むしろ風刺であるならこの場面はもっと軽く皮肉っぽくてよいかもしれませんが、なんだか男性陣が真摯に改心した風にも思えます。悪い意味でなく、その点で回心、改宗っぽい雰囲気を感じました。しかも、アーマードもそんな感じです。また、王女が王に課した禁欲的生活って、一周回って王が元々自分に課した勉学生活に近いよね(むしろ1年に短縮される)、とも今回思いました。王女が王のやりたかったことをさせることになった気もして、損(Lost)とは逆にそこにも愛を感じます。
ここで王をサポートするビローンにぐっと来るのは上で書いた通り。そしてロザラインがビローンに課す課題も、彼を思いその改心を促すものですよね。がさつにすら見えた内田さんロザラインが、やはりしっとり愛情深い語りでビローンに課題を出すのもよかったです。高橋さんビローンが中盤で見せた誠実さと、内田さんロザラインの直前までのはっちゃけぶりも終幕の情感に効果的になっていると感じました。
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ところで『薔薇王の葬列』での『恋の骨折り損』のオマージュがそれはもうすごいのです(特に13巻)。この記事をお読みいただいている方は、ほぼ『薔薇王の葬列』を読んでいらっしゃるかもしれませんが、未読の方はこちらもぜひ。