『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

石原さとみ&藤原竜也主演、吉田鋼太郎演出『終わりよければすべてよし』感想

WOWOWで放映された、石原さとみ藤原竜也主演、吉田鋼太郎演出、2021年の彩の国さいたま芸術劇場シェイクスピア・シリーズ最後の作品です。

 

赤い花に覆われた舞台や最後の口上からは、演出の吉田さんが蜷川幸雄さんからの引き継ぎとシリーズの最終回を意識されたのだろうと感じました。下にリンクした芸能情報ホミニスのインタビューのなかで、シリーズ初出演・主演の石原さんが「(蜷川さんが)いなくてもそれを受け継いでいる皆さんの魂はちゃんと引き継いでいかれていて、そこに参加できた私は本当にとてつもなく大切なものを吸収している感じ」と語っているのも、一連のシリーズの力だなと思いました。インタビューでは石原さんのポジティブで努力家な面も伝わってきて、その持ち味が今回のヘレンにうまく生きている気がしました。

 

この作品のあらすじは最後までのネタバレを避けた形で彩の国さいたま劇場のサイトにあり、インタビューで吉田さんは「世間では、この戯曲は、終わり方がすっきりしないとか、今一つどうやって捉えていいかわからないとか、色々な意見があるわけですよ。ただ実際稽古をしていてやってみると、非常にリアルな大河ドラマみたい」で、「現実にもあるような話かなとも思うんですよね」と語っています。

 

www.saf.or.jp

 

hominis.media

 

私も期待して楽しみにはしていたものの、こんな話を一体どう見せるのかみたいな気持ちも正直なところありました。『じゃじゃ馬ならし』を怖いもの見たさ的にどうチャレンジしてくれるのかと期待するのと少し似た感じです。『終わりよければすべてよし』自体初鑑賞でそんなにちゃんとは読んでいなかったのですが、結果、戯曲を読んだ時の印象とはかなり違って、“こんなに面白くて現代的な話だったのか”と目から鱗です。ですが捻った演出というより、「実際」「やってみると」と言われているように、演者の力やその相互作用を生かして、ざっと読んでは全然見えなかった作品のよさが巧みに引き出された印象でした。その説得力が私=観客の中で現実と像を結ばせたのだろうと思います。そして、発見的であると同時に、結末については観客に解釈の余地を残してくれる作りのようにも思いました。

 

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現代的なヘレン

この公演中あたりのTV番組で、翻訳の松岡和子先生が、主人公ヘレンは主体的で職業をもつ女性である点で現代的だと語っていましたが、その時は(むしろ話の展開が現代と掛け離れている感があり)ピンと来ませんでした。ですが石原さんのヘレンはまさにそんなイメージ。自分の運命を切り開いていけるよい意味での意志の強さ、頭と性格のよさを感じます。

 

読んだ時には、父秘伝の処方(医療)が遺産のような結婚の手段に思えたりもしたのですが、舞台ではヘレンの研究室が出てきたり、ヘレンが王の病状を観察しているようだったりと彼女自身の専門職感が出されています。王を治療したいのも彼女の本心で、その功績で好きな人と釣り合う自分になれると考えているようにも見え、そこに矜恃がありそうな点も職業人っぽい。バートラムを夫に指名する時も、彼女自身は王命を振りかざす訳ではなく、釣り合う立場になったから愛の告白をするような純粋さが感じられます。ここは台詞通りなので、むしろ原作でなぜそう感じなかったのかと思うくらいですが、後の展開を知っていたので読んだ時にはバイアスがかかってしまったんでしょうか……。やはり松岡先生が言ったことですが、その時のヘレンが本当に嬉しそうなのも印象的です。(また、松岡先生は、ヘレンが夫を選ぶ台詞“This is the man”が、従来遜って訳されていたのを改め「こちらがその人です」としたそうで、そうしたことも自立的なヘレン像に影響しているかもしれません。)その求婚をバートラムが拒絶した時はヘレンはもちろんショックを受けるんですが、王が怒って結婚を強制する段になると“こんなことがしたかったんじゃない”とでもいうようにその事態に困惑し後悔していて(ここは台詞はなく石原さんの演技のみ)、この辺りで彼女の自己中心的でないところが示されます。でも健気すぎず薄幸のヒロインになっていないのもいいんですよ。

 

そうすると、専門職女性でもあるヘレンの能力を過小評価する男性支配的文脈も描かれているのにも気づきます。ヘレンは、ルシヨン伯爵邸の従者同士であるパローレスからはセクハラ的に言い寄られ(横田栄司さん、嫌な男感がうまい)、フランス王(吉田さん)からは最初は彼女の美しさや心映えだけが褒められ、能力ある医療者として扱われません。医療行為を行う女性が能力を低く見積もられてしまうこと、権力中枢にいる医療者達が間違ってしまうこと、この辺も原作通りですが、シェイクスピア以前からの魔女裁判的な文脈とも、そして今の時代ともなんだか被って見えてしまいます。(しかも『アンナチュラル』的でもあったり。ミコトとヘレンはキャラ的には全然違いますが。)藤原竜也さんがインタビューの中で「回りまわって結局その戯曲が時代に追いついてまた同じことを繰り返す」とされているのに納得です。

 

金曜ドラマ『アンナチュラル』|TBSテレビ

 

感想をもう少し書きたいのですが、原作ストーリーについてはネタバレになります(さいたま芸術劇場がうまく避けたその後のあらすじに触れます)。回避したい方はここまでにして、ご覧になったり読んだりした後にぜひまたおいで下さい。あらすじネタバレが大丈夫な方はもう少しお付き合いいただけると幸いです。下に仙台放送の公演紹介映像をリンクしています。

 

https://www.youtube.com/watch?v=ZuCV5_mh6J8

 

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「終わりよければ」??

上述の松岡和子先生の解説が事前にピンと来なかったり、ヘレンの医療が単に結婚の手段に思えたりしたのも、やはりベッドトリックが作品全体の印象に大きく影響したからの気はします。あらすじに書かれているように、バートラムは王命でしぶしぶヘレンと形だけの結婚をしてもトンデモ条件を提示して逃げ出します。そこでヘレンが実行した計画が、バートラムが求愛したダイアナとその夜に入れ替わってしまうことでした。ベッドトリックによって彼女は指輪を手に入れ子供を宿し、バートラムに妻と認めさせる訳ですが、読んだ時にはかなりビミョーな感じがしました。ベッドトリックは当時の芝居では時々使われたプロットのようで、そこで結ばれたら愛が生まれるという型の“お約束”だったかもしれず、当時は現実でも命じられた結婚も多かったはずなので既成事実を承認させれば成功と言えるのかもしれません。今の感覚でもバートラムと寝るのが最終目的ならそれもありと思うんですが、恋愛成就の話として読むのは厳しい気がしました。ましてや、バートラムは、トンデモ条件を出すばかりでなく、ダイアナに求愛し(ヘレンとは知らずに)関係を持ちながら、その後でダイアナのことさえ否定する酷い男で、それで「終わりよければすべてよし」と言えるの?と、そう、吉田さんが言うように「すっきりしな」かったんです。

 

ですが作品を観てみたら、前半と後半では、多分ヘレンとバートラムの関係性が変わってくるんだろうと思いました。ヘレンは前半では、憧れの偶像バートラムに恋をしていて、後半は、肉体関係も含む現実のバートラムを、クズ男な面も許すように、あるいは逆に憎みつつも愛しているような気がしました。そんな愛し方にやはりもやもやは残りますけれども。「『終わりよければすべてよし』という題名は、もう本当に文字通りの言葉でなくても、ちょっとした揶揄と言うか、皮肉も込められていて、大体良ければいいんじゃないのっていうような。」(by吉田さん)、ここもそうだなーと思いました。

 

また、その関係性なりプロットが、バートラムの従者パローレスと相似形にもなっているようにも思いました。パローレスは自分を立派な兵士のように見せかけ、バートラムもそう信じて一目置いていたのが、それを訝しんだ兵仲間達の計略によって、実は戦功もない臆病者であることがバレて恥をかかされ軍を追われます。それでもパローレスは命あっての物種と開き直り、虚勢を張らなくてよくなったことを喜んで、ホームレスのようになってもしぶとく生きていきます。そんなパローレスを、最初から彼の本性を見抜いて冷たかったラフュー(王の側近)が、まあ面白いからうちに来いと拾うんです。

 

バートラムの方は最終部でダイアナやヘレンから化けの皮を剥がされて、対面が傷つき、望んだ貴族令嬢との結婚話が破談になります。そんなバートラムをヘレンが夫だと言う構図になっていて、ダメさ込みのバートラムを拾うと取ってもいいのかなと思いました。この版では顔に傷があるだろうバートラムの仮面をヘレンが外してキスしてもいます。(このベルベットの仮面は、梅毒の腫瘍を隠すものともされているそうですね。)

 

パローレスが見掛け倒しであることは観客に最初からわかるけれど、バートラムにはそれが途中までわからない形、バートラムが残念な男だったことは途中まで多分ヘレンにわからず、そして今回、藤原さんのバートラムはそれが観客にも(少なくとも私には)途中までわからない、ヒロイックに見えるキャラにされている気がしました。

 

で、全然根拠はないんですが、これって逆に『デカメロン』の話やベッドトリックネタを使いながらシェイクスピアがそこに愛の機微や、人間臭さや、心情的な動きを盛り込んだってことじゃないのか、と勝手に思いました

 

更に、石原さんのヘレンを観たら、この話の結末は、恋愛が成就し“2人は末長く幸せに暮らしました”にならなくてもいいのかもと思えました。そういう演出という訳ではないので誤解させたら申し訳ないですが、石原さんのヘレンは、この後仮にバートラムと破局してもシンママとして強く生きていけそうなんですよ。そうすると、ベッドトリックも、憧れの偶像でない現実のバートラムを知り、正式に結婚して社会的地位も安定し嫌な男(←パローレスとか)から言い寄られずにすみ、ヘレンが望んでいたなら子供も得られたことになり不思議とリアリティをもってしまいます。恋愛が原動力になって、国王に実力を認められ、味方だった伯爵夫人(バートラムの母)と家族にもなって「終わりよければすべてよし」と思えます。いや、そういう意味の「終わりよければすべてよし」ではないでしょうが、石原ヘレンには、その線もありえそうなたくましさと前向きさを感じます。

 

ヘレンと入れ替わるダイアナ(山谷花純さん)も、凛とした強さを感じてよかったです。山谷さんのダイアナは多分バートラムを本当に好きで、それでも筋を通す方を選んだように思いました。でも後からのことを考えれば、勢いでバートラムと結ばれなくて「よし」ですよね。彼女は処女のままでいるとも言っていて、国王が立派な身分の相手との結婚を保証してはいますが(また失敗する可能性もあるし)、ここでも恋愛成就や結婚がゴールでなくていいのかもしれません。

 

やはりベッドトリックが描かれている『尺には尺を』を、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがすごく現代的な作品にしていて驚きましたが、この『終わりよければすべてよし』も、先ほど書いた医療についてだけでなく、恋愛や結婚について現代と色々被って見えました。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

もう少し藤原バートラムのことを書きたいのですが、ここからはかなり演出ネタバレ的になると思いますので、もう一回画像を挟んで分けます。

 

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バートラムとヘレン

藤原さんのバートラムは、上述のように中盤までかなりヒロイックなキャラに見えます。礼儀正しく好ましい貴族の青年なのは原作通りとしても、ヘレンとの結婚を拒絶するシーンもすごい熱量で、それが国王の逆鱗に触れたため“彼女が高貴で愛しく思えるようになったので結婚します”と言う時も、全然チャラくなくて、改宗か転向を迫られる悲劇の主人公のように苦悶します。読んだ時は、王が怒るとすぐ前言を撤回し形式的に結婚する辺りで“こいつダメだ”と思ったのですが、藤原バートラムの拒絶ぶりには“え、これ、バートラムにはヘレンと絶対結婚できない(演出裏設定的な)理由とかあるの?”と、はらはらしました。

 

武勇に優れ、高い志を示すように「私を私の思い通りの男にしてくれ!」と悲痛に叫び(←台詞は原作通りですが)、バートラムがもうハムレットみたいで、結婚から逃げようとふらっと戦地に行っちゃったようには見えないんですよ。ヘレンにも、観客にも、バートラムが高邁で訳ありのスパダリと思わせて、パローレスとの相似を強調する形にしたのかとも考えます。

 

最後にバートラムがヘレンを愛することを誓う台詞が、やはり重く苦渋を含んだ言い方に聞こえ、ここはバートラムが悔いて改心したようにも、前半同様不本意であるようにも、どちらにも取れる作りのような気もします(考え過ぎかもしれませんが)。台詞が終わった後に、バートラムは跪き、懐妊したヘレンのお腹に頭を寄せ、ヘレンが彼の仮面を外して傷か腫瘍のある顔にキスするシークエンスになっていて、順当に取れば最終的にバートラムがヘレンへの愛に目覚め、ヘレンも本当の彼への深い愛を示したと言えそうです。ですが、台詞が終わってそのままこのシーンになるのではなく一度暗転が入ります。その暗転の前、ヘレンは伯爵夫人とも国王とも愛情深い抱擁を交わすのに、バートラムとは距離を置いて対峙したままです。暗転後に2人が初めて親密さを見せる最後のシーンは、2人だけになって素直な心を示したように見えますが、なんだか現実でない夢想のようにも感じます。もしかしたら、原作のもつ曖昧さを敢えて残し、観客に解釈の余地を与える演出かもしれないと思いました。

 

上で翻訳も参照しているし紹介するなら松岡版と思いますが、実はこちらは未読です。ごめんなさい💦(別版で読みました。)