(薔薇王の葬列アニメ18話対応)
58話と59話は、やはり仮装舞踏会シーンが中心になるかと思いますが、仮装舞踏会エピソードが『恋の骨折り損』と『ヴェニスの商人』に出てきまして、これをミックスした展開ではないかと想像しました。『ヴェニスの商人』は、13巻全体で色々(『恋の骨折り損』も少しずつ)と掛かっているような気がします。今回の記事、なんだかこの2作品の話が長くなってしまって本末転倒な感がありますが……。
楽園への招待について
祝宴で劇を演じた役者2人の死体が発見され、城にいた人々から、リチャードが見せしめで殺したのではという憶測が出てきます。敵対者を排除してきたリチャードへの警戒がぶり返し始めた感じで、それがリッチモンドの狙いでもありました。裏で人が殺されていれば、「次の宴でどれほど美しい楽園を作っても、どれほど聖人を演じても……」その聖人面が一層疑わしく見えるということでしょう。
宴は予定通り行うとしたリチャードは手紙を送り届けさせます。「親愛なる“役者”殿、今宵は、“違う者”になって、我が楽園へ来られたし」。記事では57話からリッチモンドの名前を出しましたが、「役者」として登場した男がリッチモンド伯爵であることがここで初めて明かされる更に劇的な展開になっています。リッチモンドは既に「違う者」になっていたとも言え、悪魔の扮装が「一張羅」とそのまま宴に向かいました。
リッチモンドが想定したのは、56-57話での「神々しく」「聖人」然としたリチャードが、清らかに見せた楽園を乱されまいとすることです。彼は手紙のメッセージを“悪魔としては来るな”というものだと受け取りました。ですが、リチャードは招待者全員に「違う者になれ」という手紙を送っており、宴は「アダムとイブ」の聖なる楽園ではなく、全員が「違う者」として互いの目を欺く場になっていました。リチャードは「ようこそ、悪魔の楽園へ」とリッチモンドを迎えます。
仮装と企みと殉教者について:『恋の骨折り損』
リッチモンドの企ての裏をかくこの展開だけでも十分面白いんですが、これが『恋の骨折り損』(以下、LLL)と『ヴェニスの商人』を踏まえたものすごい組み立てになっているような気がします。
LLLは、恋をしないことを誓ったはずのナヴァールの国王と3人の側近貴族が、領地返還の交渉に来たフランスの王女と3人の侍女たちにそれぞれ恋をする話です。誓いを立てたのに全員が恋に落ちたことを知った王たち4人は、開き直って王女たちを口説く計画を立てます。余興で楽しませ、仮装してそれぞれが想う人と踊りながら愛を囁こうとしたのです。そして、この後に書く、それに王女たちが入れ替わって対抗するプロットと、手紙の曖昧さというモチーフが話に使われているのではないかと思いました。
リッチモンドとの関係や、この後触れる作品背景との関係で注目されるのは、仮装して出向く王たちが戦争の比喩を使っていることです。
王 兵士諸君、進軍だ!
ビローン〔=側近の1人〕 高々と槍をかかげ襲い掛かろう!(中略)細心の注意をはらえ、逆光のなかで有利な態勢をとり、必ず成功させるんだ。(←勿論、性的な隠喩でもあります。)
それを知った王女の家臣が王女たちに告げる時も戦闘に譬えています。冗談なので、最後は恋に言及されていますが。
お嬢さんがたも武器を取って!敵が兵を挙げました、皆さまの平和が危ない。恋が変装してやってきます。
そして企みに気づいた王女たちが取った手段が、仮面を被り贈り物を取り替えて身につけ、それぞれ別の者に入れ替わる(=違う者になる)ことでした。王女に話しかけたと思っていた王は侍女に、侍女を口説いたと思っていた家臣は王女にアプローチしており、彼女たちはそれをからかいながら応対したのです。
自分(たち)だけが仮装して相手を欺けると考えたナヴァール国王たち/リッチモンドに、フランスの王女たち/リチャードは、「違う者」になって相手の企みを無効にしてしまった訳です。
更に、手紙が誤解を生んだり、トリッキーに扱われるのもLLLの特徴です。ちくま文庫版の由井哲哉先生による解説では「この作品で使われている手紙はいずれも、一人の書き手から一人の読み手へ正確に内容を伝達する目的で使われているのではない。(中略)恣意的な解釈によっていかようにも開くことのできるシステムとなる」と書かれています。この点でも、自分だけに、“悪魔として来るな”と手紙が来たと考えたリッチモンドは間違えていました。58話では、招待状を受け取った客達は「謎かけでしょう」「いやいや何かの試験では?」と言い、リチャードはそれに「定めなどない」〈踊り方は、自由だーー〉と応じます。
LLLでは、王女たちは裏をかいたことを明かし、王たちはそれぞれの想い人に想いを打ち明けることができますが、恋の成就は予感させつつも次の年の再会を約束するだけ(つまりまだ結婚しない)で終幕になります。これはそんなラブコメディなのですが、ナヴァール国王のモデルはアンリ4世、王女のモデルはマルグリット・ド・ヴァロワというのが定説だそうで、彼らが結婚した時に、サン・バルテルミの虐殺が起こっています。(萩尾望都先生の『王妃マルゴ』の話ですね。)LLLの1,2年前にはそれを題材にしたクリストファー・マーロウの芝居も上演されており、ナヴァール国王が恋をしない誓いを早々に破る話はアンリ4世の何度もの改宗が風刺されているという話もあります。他にも比喩として読めそうなところもあります。(この辺の話は、『恋の骨折り損』のちくま文庫版、白水社版のあとがき解説にありました。)しかもシェイクスピア自身も、宗教対立で不遇を経験したり迫害の不安を抱えていたりしたとされています。
仮面を被って欺く話もそんな背景を考えると怖い……。
リッチモンドは「次の宴でどれほど美しい楽園を作っても」「哀れな“殉教者”たちの死に顔がすべてを覆い隠してしまう……!」と言っていました。言ってみれば、凄惨な事件に関わる人物をモデルにしながら、それが一切登場しない「美しい楽園」を作っているのがLLLです。それでも多分当時の観客は事件を想起し、恋愛喜劇を「揶揄」と受け取った可能性もあるでしょう。LLLのプロットを使いながら、LLLの作品背景に言及するかのように物語に取り込んでいるのが58話とも言え、『薔薇』とLLLが入れ子構造(?)または自己言及(?)のようになっている気がします。
さりげない形で、とんでもなくすごいことをやっていませんか?!菅野先生。
思い込みだったらごめんなさい、ですが、ジョージ暗殺の箇所でも『ヘンリー6世』第2部と史料を交錯させる展開にしたり、リチャードとエリザベスの対立の箇所で父系制・母系制の読みがある『夏の夜の夢』を持ってきたりされる菅野先生ですから。それに作品として入れ子構造のようになっているとは言えると思いますし。
LLLは2巻でも使われているかもと思ったんですが、その時にはこの作品背景のことは響いてこなくて、仮装舞踏会についても結構能天気なことを書いています。58話で(多分)こんな風に使われたので、作品背景について改めて思い至った感じでした。一寸困ったなと思うのは、この後の甘い展開の箇所でもLLLオマージュがありそうなのに、こんな裏話を先に出すとなんだかそれが書きにくくなることですね。そこではこれは忘れてね、って感じでしょうか。
「なりたいものになれる」仮装:『ヴェニスの商人』
リッチモンドを迎えたリチャードは、宴では「望めば、なりたいものになれる」と言っています。仮装することで、なりたい者になる、またはやりたいことをやるというのが『ヴェニスの商人』(以下、MV)かなという気がしました。
というより、『薔薇王』を通じてMVの仮装がそういうものに読めたと言った方がいいかもしれません。直接的にMVの仮装オマージュと思えるのは59話の方で(←こちらはある程度言える気がするんですが)、58話については、仮装との関連を考えた時に、“ああ、MVでの仮装って「なりたいものになれる」働きをするんだ”とMVの解釈を教えてもらった感じです。
MVは、バッサーニオという青年が謎かけに挑戦して財産家の美人ポーシャを妻にする話と、彼の挑戦のために、金貸しのシャイロックから身代わりで借金したアントーニオが危機に陥り、それをポーシャが解決する話がメインの筋になっています。シャイロックは、彼を蔑んでおいて借金を申し込むアントーニオに、友人同士のように利子は取らない、その代わりと冗談めかしてアントーニオの身体の肉1ポンドを抵当にする提案をして証文を交わします。シャイロックの方は返済期限が守れなければアントーニオを殺す気です。
MVで有名なのはポーシャが裁判官になりすます話です。夫の友人アントーニオの危機を知ったポーシャは、裁判に介入しシャイロックの企みからアントーニオを救います。女性であるために、また父の遺言のために、謎かけを解く誰かから妻に選ばれるしかないと倦んでいた彼女が、男装によって、周囲を凌駕する才知を発揮した訳です。ポーシャはいたずらを含めて「それを実行してみたい」と言っています。
MVではシャイロックの娘ジェシカも仮装します。彼女も男装して恋人と駈け落ちし、許されなかったであろう異教徒の妻になります。
「なりたいものになれる」については、まずはこの辺かなという気がします。
で、ここから先は、いつも以上に迷いながら書いていて、相当無理があるかもしれないとは思っているんですが、13巻の大きな流れとしては、ポーシャの仮装エピソードを反転したもの(+ジェシカの仮装を加えたもの)という印象を持ちました。MVでは、謎かけに運命を委ねながらもポーシャはバッサーニオの愛を得ることができ(とはいえポーシャのチート説もあり)、その後、男装することで、それまで叶わなかった自身の才覚を示し活かす機会を得ます。『薔薇』では、才覚を示すリチャードが(「欺く芝居」を経て)王位に就くことができ、それでも叶わなかった(あるいは却って許されなくなった)バッキンガムとの愛を、女装を契機に成就させます。
そして、ポーシャとシャイロックが対決する裁判/リチャードとリッチモンドが互いを欺く宴が先に来て、バッサーニオ/バッキンガムとの愛の成就が後に来る反転にもなっているように思えました。
仮装/うわべ 対 真実 について
ところで、MVでは先に来るバッサーニオの謎解きの場面で、彼はその後に出てくるはずの裁判のことを(一般的な話として)語っています。57話のリチャードの台詞(〈“王冠”の輝きに、“人間(ひと)”は賛辞を贈る〉)に似ている台詞の箇所なのですが、この台詞が両義的というか矛盾しても見えます。この後も『薔薇』そっちのけで、『薔薇』を通じて読んだMVの不思議な話を長々してしまいますがごめんなさい……。最終的には何とか回収しようと思うんで。
バッサーニオがポーシャを妻にするために挑戦した謎かけは、金・銀・鉛の3つの箱と箱に着いた警句から、正しい箱を選ぶというものでした。バッサーニオはこう言って鉛の箱を選びます。
バッサーニオ だから外観の美しさは中身を裏切るものかもしれぬ、世間は常に虚飾に目をまどわされているのだ。裁判だってそうだ、たとえどんな不正不当な訴訟も、巧みな弁舌で飾りつければ、うわべをごまかして悪とは見えなくなるものだろう。宗教だってそうだ、たとえどんな異端邪説も(中略)聖書の文句を引用して説明したりすれば(中略)その忌まわしさも美しい虚飾でかくせるものだろう。
彼は正解を当てることができ、鉛の箱の中には「うわべのみによりて選ぶものとは異なり、真実を選びあてし汝にこそさいわいあり」と書かれていました。この箱選びでは、うわべに騙されず真実を選ぶよう要求されているように見え、この台詞もそれを語っているように見えます。
ですが、アントーニオをポーシャが救った裁判は、彼らにとっては正義の判決でも、ポーシャが「目をまどわ」す仮装をし、証文を逆手に取って「巧みな弁舌で」勝ち抜けた裁判とも言えます。(アラゴン公の失敗した箱選びの場面では、ポーシャ自身が裁く者と裁かれる者では見方が反対になるだろうとも言っています。)
また、バッサーニオは、シャイロックの聖書引用やユダヤ教を「異端邪説」とする訳ですが、そこにユダヤ人差別を見れば正邪は反転します。上で書いたシェイクスピア自身の境遇を考えると、(ユダヤ人への偏見はあったかもしれなくても)宗教的な正邪の反転は想定内でしょう。そして、裁判では神に言及したポーシャがシャイロックを嵌めて過剰に厳しい処遇に追い込んだとする解釈もあります。(裁判官ポーシャは事前に3倍の額の返済というwin-win提案もしたのにそれを蹴ったのはシャイロックなのですが、ポーシャはキリスト教的な「神の慈悲」を持ち出してそう提案し、シャイロックが蹴ることを見越していたとする黒ポーシャ解釈です。更にその後も命を狙った罪として財産没収などの厳しい処分を言い渡します。)そう考えると、この台詞自体が表面上の意味を裏切るもの、矛盾したものになる訳です。
〈“王冠”の輝きに、“人間(ひと)”は賛辞を贈る、光の輪に隠された……悪魔の角に気づかないまま〉(57話)。(追記:後から気づいて57話の記事の方にも追記しましたが、後半の〈光の輪に〉以降はRⅢからかと思います。MVとRⅢをうまくミックスしているんじゃないかと。)MVでの仮装やうわべは、見かけに騙されず真実を捉える、人を欺いて望むようにする、その目眩く反転の蝶番のように働いているかもしれません。でも、MVのこんな構造が13巻に使われているのか、戴冠の話や堕天モチーフで光と闇を転換させる13巻の展開がMVをこう読ませるのか、もうわからない感じです。
天使に譬えられる美しいポーシャ(モロッコ公の台詞)も結構黒く読める気がしますし、悪魔呼ばわりされるシャイロックは今や普通に観客や読者の同情を集めます。そして、仕掛けられた企みを無効にして勝ちを収めた点やこの後の仮装との関連では、ポーシャ=リチャード、シャイロック=リッチモンドですが、悪魔と喧伝され敵対者を殺してきた者と、そこに仮装して乗り込み撹乱しようとする者と取れば、シャイロック=リチャード、ポーシャ=リッチモンドと言えそうです。
一寸困ったなと思うのは、この後の甘い展開(以下略)……。
なりたいものになれる王の招待状について
(ここについては、妄想暴走の感じです……。ここは完全に勝手な解釈ということで。)
LLLでは、「違う者」になったとはいえ、“挑まれた側”の王女たちが相互に入れ替わっただけでしたが、この宴では、参加者全員が「違う者」になっています。王の手紙と引き換えに、「貴族や使用人、兵士や聖職者」誰もが「違う者」「なりたいもの」になれるーー。「望めば、なりたいものになれる」。これを言い換えた感のある「望め、さすれば叶うだろう」は、言葉の上では「求めよ、さらば与えられん」(マタイ福音書)と似ており、これも神を思わせる一方、それが正しい信仰を求める言葉ではなく、逆に各人の欲望を解放している点で悪魔的にも聞こえます。
更にもう一点、MVと直接関わるわけではありませんが、なんとなく、貨幣のメタファーを感じます。
貨幣は、世にあるどのようなモノでも手に入れられる可能性を与えてくれるものとして(中略)人々に需要され、それによって人々の欲望を(中略)解き放つのである。
これはMVそのものでなく、『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)(以下、CMVとします)からで、しかもかなり歪めて読んで歪めて引用していると思いますが、招待状はこんな役割を果たしているように思えます。(CMV は60話で引きたかったりしたのですが、ここでも引きたくなっちゃいまして。)
CMVでは、バッサーニオの上述の台詞も貨幣の話として読み解きます。バッサーニオは、貨幣(や金)=外側の箱自体に価値があると思ってしまう取り違えを避けて勝った、と岩井先生は言います(〈“王冠”の輝きに、“人間(ひと)”は賛辞を贈る〉)。貨幣は、当たり前のようですが、本来、「違うもの」を得られる“媒体”だからこそ価値があるわけです。今話、リチャードは、自身が黄金として見られるのでなく、あまり目立たない形で、なりたいものになることを許す、欲望を解放する媒体として振る舞っているように思えます。
今話でリチャードに贈られる賛辞は、「神々しい」「美しい」ではなく、「おいらこんな楽しい宴は初めてだ」「子供の頃の夢が叶ったよ」(だから)「新たな王に乾杯しよう!」です。
で、LLLと貨幣の話をしたので、また話が戻ってしまうんですが、57話でもアンの「王妃は王の半身」という台詞も、手紙の誤配送(リチャードには届かず、バッキンガムに別の意味で届く)と、貨幣(バッキンガムの欲望を解き放ってリチャードとの仲を結ぶ媒介になる)のイメージをもちながら読んでいました。それで揺れちゃったバッキンガムについては、次の記事でまとめて、ということで!ごめんなさい!